翌日――。
朝の鍛練も、私たちにとっては特別な行事ではなく、目覚め、身支度を整え、外へ出る。
それが自然と始まる、生活の一部だった。
森の朝は、空気が澄んでいる。
夜露の名残が草に残り、踏みしめるたびに小さな音を立てた。
その中で、まずは身体をほぐすところから始める。
首、肩、背、腰。
関節を一つずつ確かめるように回し、伸ばし、呼吸を整える。
リルも黙々と真似をしているが、以前より動きに迷いがない。
「準備体操は、手を抜かないこと」
「うん、分かってる」
以前はそう言いながら、形だけなぞって終わらせる事は多々あった。
きちんとやるようになったのは、一つの成長だろう。
一通り終えると、木立の間に出る。
地面は多少柔らかく、転んでも致命傷にならない場所だ。
「さあ、構えて」
リルの体捌きは、はっきりと良くなっていた。
足運びが軽く、無駄な跳ねが少ない。
剣を振る前に、腰が先に動いている。
そして、何より――。
私が以前、冒険者と戦ったときの動きを、自分のものにしようとしていた。
完全ではないものの、自分なりに消化して、それを形にしようとしている。
斜めに踏み込む癖。
相手の死角に入ろうとする初動。
剣線をわざと外し、次の一撃に繋げる間……。
「見ることもまた修行、と言ったりするけどね……」
「ん? なぁに?」
「いや、感心しているのさ」
そして、それを見せてやれなかった環境を悔やむ。
対面して剣を振らせるのも、間違いなく有効な修行だが、師の動きと言うものを、客観的に見る機会が少なすぎた。
対戦形式で見せられないのは、どうしても仕方ない部分があるとは言え……。
いや、全て言い訳だ。
リルには護身の心得を身に付けさせる、その程度の実力があれば良い、と思っていた。
私がいるのだから。
いざという時、守ってやれる――その確固たる自負があった。
だが、もうその保障はない。
――してやる事が出来ない。
だから遅まきながら、リルを鍛えてやらねばならなかった。
打ち込んで来るリルの攻撃を受け入れ、逸らし、転ばせる。
手に届く一撃の感触を確かめながら、未だ転がったままのリルに声を掛けた。
「ほら、早く起きて構える」
「……はい」
リルなりに工夫したつもりだろう。
だが、それらが一切通じず、ふて腐れる様子を見せた。
リルは力が付いた。
剣を振る音が違う。
だが、風を切るというより、空気を叩いている様な感じだった。
私がやって見せた、戦斧槍での戦いを真似ている故の弊害かもしれない。
「止め」
声を掛けるとリルは動きを止め、少し息を上げながらこちらを見た。
「力が付いたのはいい。でも、その分、力を振り回し過ぎだな」
「え……?」
剣を持つ手に、無意識に力が入っているし、肩も少し上がり過ぎだ。
私はゆっくりと近付き、リルの前に立った。
「剣は、腕で振るものじゃない」
そう言って、軽く一歩踏み出す。
足裏で地面を捉え、腰を回し、重心を前へ送る。
剣はあくまで、それに付いてくるだけ。
「力は、地面から来る。腕はそれを伝える“道”に過ぎない」
そう言って、同じ動きをもう一度見せた。
今度はさらに小さく、最小限の動きで。
「見てなさい」
刃先は、先ほどよりも鋭く、静かに走った。
「……ゼンゼン、強く振ってないのに……」
「そう見えるだろう? 重心が動いているから、剣が速い」
今度はリルに、同じことをやらせてみる。
だが、最初はどうしても腕に力が入りがちだった。
「肩の力を抜いて。腰を先に。次に足」
何度も繰り返すうち、少しずつ良くなっていく。
剣の音が軽くなったが、しかしどうにも足りない。
「どうしても
「……でも、そしたら、上手くいかないんじゃないかな。受け止めたりとか、防御する時とか、上手く動作が回らないよ……」
「それは違う――と言っても、今のリルには分かり辛いか……。どれ」
脱力の意味と効果を教えるため、私は一度、剣を置かせた。
「まず、腕を伸ばして。次に、肩の高さまで上げなさい」
リルは言われた通り、右腕を真っ直ぐ前に出す。
そうすると、次に掌を握らせ、拳を作らせた。
「思い切り、力を入れて」
「え……、これ以上?」
「まだまだ。もっと」
肩から前腕にかけて、筋が浮く。
小さな拳が震え始めるほど、力を込めさせた。
「そう、それでいい」
そう言うと、その拳の上――手の甲を、指の腹で軽く叩いた。
強くピシャリと鋭い音は立ち、それだけで、リルの腕は上下に揺れた。
伸ばした腕を踏ん張ることも出来ずに押し下げられる。
「動いたね」
「当たり前だよ……っ」
リルは少し、むくれた顔で言う。
「お母さんに、力で勝てるはずないもん」
私はそれに、曖昧に笑って返した。
今は勝ち負けの話ではないし、本当に見せたいのは、この先だった。
「じゃあ、同じ姿勢のまま……今度は力を抜いてごらん」
「え?」
「ほら、抜きなさい」
戸惑いながらも、リルは肩の力を緩める。
私はその腕を持ち、上下左右に軽く振った。
ぶらぶらと、木の枝を揺らすかのように。
「……変な感じ」
「余計な力が残ってる。まだ」
更に、もう少し揺らす。
抵抗が消え、腕が自然になすがままにされるまで、それは続いた。
「よし」
十分に力が抜けた事を確認すると、私は手を離し、一歩下がった。
「じゃあ次は、さっきと同じ力で叩く」
リルが身構えるのを見て、また別の注意を告げた。
「ただし、今度は手の甲か叩かれる“直前”に、初めて力を込めてごらん」
「直前?」
「そう。下に腕が落ちないように、全力で対抗するんだ」
そう言われても、リルは半信半疑だ。
先程は、あれだけ力を込めても簡単に動かされたのだから、そんな事をしても……と言った顔だ。
「どうせ……、また落とされるのに」
ふて腐れたような顔をしつつ、それでもいいつけは守り、力は最小限に留めたまま、腕を構える。
「いくよ」
短く声を掛け――。
「せーの」
――叩いた。
パチン、と先程と変わらぬ音がする。
だが、リルの腕は落ちなかった。
僅かに揺れはしたものの、完全に拮抗している。
「……え?」
リルは目を丸くし、自分の腕を見つめる。
もう一度、催促されて叩いてやったが、やはり結果は代わらなかった。
「動かない……」
「どうしてだと思う?」
「……分かんない」
私は一度苦笑してから、分かり易いように、ゆっくり言葉を選ぶ。
「瞬発力っていうのはね、それだけ“大きくて強い”力なんだ」
言いながら、まだ上げたままだったリルの腕を、そっと下ろしてやる。
「ずっと力を入れているよりもね、必要な瞬間にだけ引き出す方が、力はちゃんと応えてくれるものなんだな」
そう言って、私は自分の腕を広げて見せる。
「お母さんは、普段から余計な力なんて入ってないだろう?」
「……うん」
こくこく、と素直に頷くその様子を見て、最後に一つ、薫陶を授ける。
「敵に攻撃する時。あるいは、攻撃を受ける時。ここだ、というタイミングで力むこと」
間を置いて、はっきり告げた。
「これを、――見切りと言う」
言葉は短く、重い。
リルはそれを胸に刻むように、静かに息を吐いた。
自分でも分かったのだろう。
剣を拾って構えると、今度は自然に刃が前へ出た。
「技術は、力を節約するためにある。長く戦うために、怪我をしないために、そして――」
一瞬、言葉を選ぶ。
「生き残るために」
リルは真剣な顔で頷いた。
力は、確かに必要だ。
だが、それを制御できなければ、いずれ自分を壊す。
朝の鍛練は、そうしたことを、少しずつ身体に刻み込む時間だ。
剣を振り、汗を流し、呼吸を整える。
それもまた、私たちの日常の一部だった。