リルには万遍なく、私の知るすべてを与えてやりたい。
それが私の本心だった。
剣も、魔術も、読み書きも、世界の理も、生き抜くための知恵も。
何一つ取りこぼしたくなかった。
けれど現実は残酷で、時間だけが、どうしても足りない。
だから日々の鍛練は、自然と三つに絞られていった。
知識の伝達。魔力の鍛錬。そして、戦闘訓練。
どれも、リルがこれから生きて行くために、欠かせないものだ。
そして、遊ぶ時間だってなくては、健全とは言い難い。
心身ともに健康であって欲しいと願うから、効率だけを考えた教え方はしなかった。
アロガもまた、幾つになってもリルの傍を離れようとしない。
昔と変わらず、家の周囲を駆け回り、草を踏み、風を切って、笑い声を撒き散らす。
大型犬よりさらに大きな体躯のくせに、リルの速度に合わせ、時にはわざと追い抜かれてやり、また追いかける。
兄のようでいて、友のようでいて――ただひたすら、寄り添う存在。
その光景が、どれほど尊いものか、私は痛いほど理解している。
――それでも。
焦りだけは、どうしても消えてくれなかった。
――残り時間が、少ない。
その事実が、胸の奥で、常に火種のように燻っていた。
※※※
ある日の戦闘訓練の時。
幾合も打ち合った末、今日もリルは地面に転がっていた。
土に背を預け、剣を握ったまま、肩で苦しそうに息をしている。
「立ちなさい」
声は、冷たく響いた。
今日だけで、もう何度目だろう。
何度も踏み込み、何度も攻め――しかし、その度に弾き返されていた。
リルは決して弱くはないし、むしろ年齢を考えれば、驚くほど伸びている。
だが、――惜しい。
通用しないわけではないが、ただ、あと一歩が足りない。
その一歩が、今は致命的に遠い。
私は今この時に、それをどうしても、掴ませてやりたかった。
「立ちなさい」
再び告げるも、リルはすぐには起き上がれなかった。
胸を上下させながら、荒れた呼吸を整えようとしている。
それでも、私は整うのも待たずに言う。
苦しい時ほど、立ち上がれなくてはならない。
苦しみに打ち克つ強さがなければ、肝心な時に剣を振れない。
「立ちなさい、リル。立て……!」
声が自然と、強くなる。
だがリルは、泣きそうな顔でこちらを見上げるだけだった。
「……無理だよ」
唇を噛みしめ、震える声で訴え掛ける。
「どうして……そんなに、厳しいの……?」
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
頬を伝い、地面に落ち、土を濡らす。
それを見た私は、動けなくなった。
胸の奥に、強烈な後悔が込み上げる。
護身程度でいい、と思っていた剣術だったはずだ。
それが突然、本格的な鍛錬にすり替わって、ついて来られる筈がない。
リルはそういう風に育てられていない。
私の焦りを、ただ押し付ける形になっただけだった。
「……ごめん」
言葉は、驚くほど簡単に零れた。
私は剣を置いて歩み寄ると、しゃがみ込んで、リルを抱き留めた。
小さな身体が、腕の中で震えている。
「ごめんな」
もう一度、囁く。
リルは最初、戸惑ったように瞬きをしたあと、顔を私の胸に埋めた。
「……ううん。わたしこそ、ごめんね、お母さん」
「うん」
「強くなりたいけど……こわい」
「うん」
ただ、肯くだけ。
慰める言葉も、叱る言葉も、今は必要なかった。
リルの髪を撫でて、その頭に頬を乗せると、汗と土の匂いがした。
生きている証の匂いだ。
――残せるものが、少ない。
その事実に、胸を締め付けられる。
だからこそ焦り、だからこそ急いでしまった。
けれど、急げば急ぐほど、過酷に――そして熾烈になる。
その単純な理を、私は忘れかけていた。
「……今日は、もう終わりにしよう」
そう言うと、リルは少し驚いた顔をしてから、こくりと頷いた。
背後で、アロガが心配そうに鼻を鳴らし、近寄ってくる。
大きな舌で、リルの頬をぺろりと舐めた。
「やめてよ、もぅ……。ベタベタ」
涙混じりの声で文句を言いながらも、リルは笑った。
その笑顔が、何より救いだった。
だが、リルから伝わる温もりを抱き締めても、疼く焦燥感は消えてくれない。
今はただ、あまりにも強い後悔と愛しさが、胸の奥で絡み合っていた。
※※※
明くる日のこと。
いつもの戦闘訓練を終え、剣を納めて一息ついた頃だった。
汗の匂いと、踏み荒らされた土の感触が、まだ身体に残っている。
今日は、少しだけ早く切り上げた。
リルは剣先を下げたまま、物足りなさと安堵が混じったような顔をしている。
アロガはその横で伏せ、耳だけをこちらに向けていた。
「……リル」
呼ぶと、すぐに顔を上げる。
「今日はね、特別な話をしよう」
声の調子で、いつもと違うと察したのだろう。
リルは背筋を伸ばした。
「お母さんが持っている、“奥義”の話だ」
「奥義……!」
その言葉だけで、目がきらりと輝く。
無理もない。
リルくらいの年の子にとって、奥義と聞けば、ときめいてしまうものもあるだろう。
だが、私は苦笑と共に首を横に振った。
「格好いい話じゃないよ。むしろ、血と暴力の塊みたいな技だ」
そう前置きしてから、剣を抜く。
魔力を隠さず、抑えもしない。
脇腹を中心として、からだ全体に刺すような痛みが走った。
これでまた、僅かにでも浸食が進んだろうが、今は努めて無視した。
更に魔力を高めると、大地の空気が僅かに軋む。
「長く……本当に長く生きてきて、結局わかったのは――戦いっていうのは、先に“壊した方”が勝つ、という単純な事実だ」
構えは中段。
しかし重心は、深く沈める。
「名前は《
魔力が普段の私から、大きく変化したのを見て、リルが息を呑む。
「この奥義は、純粋な斬撃とは大きく異なる」
そう言いながら、剣に魔力を流し込む。
ただし、刃に集中させない。
身体そのものと刃が、同一になるよう魔力を通した。
「敵の“形”を、世界から引き剥がす技だ」
一歩を踏み出すと、その瞬間、地面が低く唸った。
「力、技、駆け引き。そういうものを、全部すっ飛ばして――」
踏み込みと同時に、横薙ぎに剣を振る。
だが、風は起きない。
音も、衝撃も、ほとんどなかった。
普段からは考えられない、勢いのない剣だ。
それなのに――。
数歩先にあった太い樹木の幹が、ずるりと滑り落ちた。
切断面は、荒れてすらいない。
まるで最初から、上下が別々だったかのようだった。
「当たった場所の“存在の繋がり”を、断ち切る」
私は剣を下げたまま、淡々と続ける。
「筋肉も、骨も、鎧も関係がない。剣で受けようが、盾で防ごうと――意味がない」
剣で斬られる、のではない。
空間との接続を壊される。
「だから、避けるしかない。それも……簡単には避けられないけれど」
リルの喉が、小さく鳴った。
「お母さんが一歩踏み込んだ時点で、もう間合いの中だ」
それこそが、《崩界》の真髄。
防御不能。
相殺不能。
純粋な“終わり”を押し付ける、私の奥の手だった。
「……こわい」
リルが強張った顔で、正直にそう言った。
「うん」
私は一つ頷いて、続ける。
「これはね、強くなる為の技じゃない。“敵を不意打ち同然に、ただ殺す”ための技だ」
だが当然、修得は困難を極める。
「今のリルに、この技を再現出来る筈もない。世界と一体になるような制御術、そして多くの魔力と、精密な操作が必要だからね」
さわりを聞いただけで、その困難さを、リルは理解したらしい。
顔を上げて、難しそうに眉根を顰めた。
「でも、ナナが居るのは、幸運だったかも知れない。精霊は世界との調和そのものだから、単なる魔術士よりも余程、修得はし易いだろう」
その頬に手を伸ばし、そっと包む。
「この奥義は、最後の最後。言葉も、慈悲もなくなった時に使うものだ」
英雄には向かない。
騎士にも、冒険者にも、きっと向かないだろう。
「でもね」
目を合わせて、はっきりと言う。
「もし、どうしても生き残らなきゃいけない時が来たら……。誰かを守るために、“壊す側”になる覚悟が出来たなら……」
――その時は。
「使える様になる為に、やり方を教えよう。今ではなく、いつか必要となる時の為にね」
リルは少し震えながらも、やがてこくりと頷いた。
「……うん、強くなる」
その声は、迷いながらも、確かなものだった。
私は剣を収め、深く息を吐く。
この奥義を必要とする日が来ないことを、心から願う。
それでも――。
渡せるように育てている自分を、否定はできなかった。
焦りは消えない。
だがこの日は、ただ静かに、森の風に身を委ねた。