混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

317 / 325
束の間の安息 その4

 リルには万遍なく、私の知るすべてを与えてやりたい。

 それが私の本心だった。

 

 剣も、魔術も、読み書きも、世界の理も、生き抜くための知恵も。

 何一つ取りこぼしたくなかった。

 

 けれど現実は残酷で、時間だけが、どうしても足りない。

 だから日々の鍛練は、自然と三つに絞られていった。

 

 知識の伝達。魔力の鍛錬。そして、戦闘訓練。

 どれも、リルがこれから生きて行くために、欠かせないものだ。

 

 そして、遊ぶ時間だってなくては、健全とは言い難い。

 心身ともに健康であって欲しいと願うから、効率だけを考えた教え方はしなかった。

 

 アロガもまた、幾つになってもリルの傍を離れようとしない。

 

 昔と変わらず、家の周囲を駆け回り、草を踏み、風を切って、笑い声を撒き散らす。

 大型犬よりさらに大きな体躯のくせに、リルの速度に合わせ、時にはわざと追い抜かれてやり、また追いかける。

 

 兄のようでいて、友のようでいて――ただひたすら、寄り添う存在。

 その光景が、どれほど尊いものか、私は痛いほど理解している。

 

 ――それでも。

 焦りだけは、どうしても消えてくれなかった。

 

 ――残り時間が、少ない。

 その事実が、胸の奥で、常に火種のように燻っていた。

 

 

  ※※※

 

 

 ある日の戦闘訓練の時。

 幾合も打ち合った末、今日もリルは地面に転がっていた。

 

 土に背を預け、剣を握ったまま、肩で苦しそうに息をしている。

 

「立ちなさい」

 

 声は、冷たく響いた。

 今日だけで、もう何度目だろう。

 

 何度も踏み込み、何度も攻め――しかし、その度に弾き返されていた。

 リルは決して弱くはないし、むしろ年齢を考えれば、驚くほど伸びている。

 

 だが、――惜しい。

 通用しないわけではないが、ただ、あと一歩が足りない。

 

 その一歩が、今は致命的に遠い。

 私は今この時に、それをどうしても、掴ませてやりたかった。

 

「立ちなさい」

 

 再び告げるも、リルはすぐには起き上がれなかった。

 胸を上下させながら、荒れた呼吸を整えようとしている。

 

 それでも、私は整うのも待たずに言う。

 

 苦しい時ほど、立ち上がれなくてはならない。

 苦しみに打ち克つ強さがなければ、肝心な時に剣を振れない。

 

「立ちなさい、リル。立て……!」

 

 声が自然と、強くなる。

 だがリルは、泣きそうな顔でこちらを見上げるだけだった。

 

「……無理だよ」

 

 唇を噛みしめ、震える声で訴え掛ける。

 

「どうして……そんなに、厳しいの……?」

 

 その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。

 頬を伝い、地面に落ち、土を濡らす。

 

 それを見た私は、動けなくなった。

 胸の奥に、強烈な後悔が込み上げる。

 

 護身程度でいい、と思っていた剣術だったはずだ。

 それが突然、本格的な鍛錬にすり替わって、ついて来られる筈がない。

 

 リルはそういう風に育てられていない。

 私の焦りを、ただ押し付ける形になっただけだった。

 

「……ごめん」

 

 言葉は、驚くほど簡単に零れた。

 私は剣を置いて歩み寄ると、しゃがみ込んで、リルを抱き留めた。

 小さな身体が、腕の中で震えている。

 

「ごめんな」

 

 もう一度、囁く。

 リルは最初、戸惑ったように瞬きをしたあと、顔を私の胸に埋めた。

 

「……ううん。わたしこそ、ごめんね、お母さん」

 

「うん」

 

「強くなりたいけど……こわい」

 

「うん」

 

 ただ、肯くだけ。

 慰める言葉も、叱る言葉も、今は必要なかった。

 

 リルの髪を撫でて、その頭に頬を乗せると、汗と土の匂いがした。

 生きている証の匂いだ。

 

 ――残せるものが、少ない。

 その事実に、胸を締め付けられる。

 

 だからこそ焦り、だからこそ急いでしまった。

 けれど、急げば急ぐほど、過酷に――そして熾烈になる。

 

 その単純な理を、私は忘れかけていた。

 

「……今日は、もう終わりにしよう」

 

 そう言うと、リルは少し驚いた顔をしてから、こくりと頷いた。

 背後で、アロガが心配そうに鼻を鳴らし、近寄ってくる。

 

 大きな舌で、リルの頬をぺろりと舐めた。

 

「やめてよ、もぅ……。ベタベタ」

 

 涙混じりの声で文句を言いながらも、リルは笑った。

 その笑顔が、何より救いだった。

 

 だが、リルから伝わる温もりを抱き締めても、疼く焦燥感は消えてくれない。

 今はただ、あまりにも強い後悔と愛しさが、胸の奥で絡み合っていた。

 

 

  ※※※

 

 

 明くる日のこと。

 いつもの戦闘訓練を終え、剣を納めて一息ついた頃だった。

 

 汗の匂いと、踏み荒らされた土の感触が、まだ身体に残っている。

 今日は、少しだけ早く切り上げた。

 

 リルは剣先を下げたまま、物足りなさと安堵が混じったような顔をしている。

 アロガはその横で伏せ、耳だけをこちらに向けていた。

 

「……リル」

 

 呼ぶと、すぐに顔を上げる。

 

「今日はね、特別な話をしよう」

 

 声の調子で、いつもと違うと察したのだろう。

 リルは背筋を伸ばした。

 

「お母さんが持っている、“奥義”の話だ」

 

「奥義……!」

 

 その言葉だけで、目がきらりと輝く。

 無理もない。

 

 リルくらいの年の子にとって、奥義と聞けば、ときめいてしまうものもあるだろう。

 

 だが、私は苦笑と共に首を横に振った。

 

「格好いい話じゃないよ。むしろ、血と暴力の塊みたいな技だ」

 

 そう前置きしてから、剣を抜く。

 魔力を隠さず、抑えもしない。

 

 脇腹を中心として、からだ全体に刺すような痛みが走った。

 これでまた、僅かにでも浸食が進んだろうが、今は努めて無視した。

 

 更に魔力を高めると、大地の空気が僅かに軋む。

 

「長く……本当に長く生きてきて、結局わかったのは――戦いっていうのは、先に“壊した方”が勝つ、という単純な事実だ」

 

 構えは中段。

 しかし重心は、深く沈める。

 

「名前は《崩界(ほうかい)》」

 

 魔力が普段の私から、大きく変化したのを見て、リルが息を呑む。

 

「この奥義は、純粋な斬撃とは大きく異なる」

 

 そう言いながら、剣に魔力を流し込む。

 ただし、刃に集中させない。

 

 身体そのものと刃が、同一になるよう魔力を通した。

 

「敵の“形”を、世界から引き剥がす技だ」

 

 一歩を踏み出すと、その瞬間、地面が低く唸った。

 

「力、技、駆け引き。そういうものを、全部すっ飛ばして――」

 

 踏み込みと同時に、横薙ぎに剣を振る。

 だが、風は起きない。

 

 音も、衝撃も、ほとんどなかった。

 普段からは考えられない、勢いのない剣だ。

 

 それなのに――。

 数歩先にあった太い樹木の幹が、ずるりと滑り落ちた。

 

 切断面は、荒れてすらいない。

 まるで最初から、上下が別々だったかのようだった。

 

「当たった場所の“存在の繋がり”を、断ち切る」

 

 私は剣を下げたまま、淡々と続ける。

 

「筋肉も、骨も、鎧も関係がない。剣で受けようが、盾で防ごうと――意味がない」

 

 剣で斬られる、のではない。

 空間との接続を壊される。

 

「だから、避けるしかない。それも……簡単には避けられないけれど」

 

 リルの喉が、小さく鳴った。

 

「お母さんが一歩踏み込んだ時点で、もう間合いの中だ」

 

 それこそが、《崩界》の真髄。

 防御不能。

 相殺不能。

 

 純粋な“終わり”を押し付ける、私の奥の手だった。

 

「……こわい」

 

 リルが強張った顔で、正直にそう言った。

 

「うん」

 

 私は一つ頷いて、続ける。

 

「これはね、強くなる為の技じゃない。“敵を不意打ち同然に、ただ殺す”ための技だ」

 

 だが当然、修得は困難を極める。

 

「今のリルに、この技を再現出来る筈もない。世界と一体になるような制御術、そして多くの魔力と、精密な操作が必要だからね」

 

 さわりを聞いただけで、その困難さを、リルは理解したらしい。

 顔を上げて、難しそうに眉根を顰めた。

 

「でも、ナナが居るのは、幸運だったかも知れない。精霊は世界との調和そのものだから、単なる魔術士よりも余程、修得はし易いだろう」

 

 その頬に手を伸ばし、そっと包む。

 

「この奥義は、最後の最後。言葉も、慈悲もなくなった時に使うものだ」

 

 英雄には向かない。

 騎士にも、冒険者にも、きっと向かないだろう。

 

「でもね」

 

 目を合わせて、はっきりと言う。

 

「もし、どうしても生き残らなきゃいけない時が来たら……。誰かを守るために、“壊す側”になる覚悟が出来たなら……」

 

 ――その時は。

 

「使える様になる為に、やり方を教えよう。今ではなく、いつか必要となる時の為にね」

 

 リルは少し震えながらも、やがてこくりと頷いた。

 

「……うん、強くなる」

 

 その声は、迷いながらも、確かなものだった。

 私は剣を収め、深く息を吐く。

 この奥義を必要とする日が来ないことを、心から願う。

 

 それでも――。

 渡せるように育てている自分を、否定はできなかった。

 

 焦りは消えない。

 だがこの日は、ただ静かに、森の風に身を委ねた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。