この頃、アロガが
家の周囲を巡る足取りは落ち着かず、耳は常に立ち、風向きが変わる度に鼻を鳴らす。
夜などは特に顕著で、闇の奥を睨む時間が長くなった。
「アロガ、えらいね。ちゃんと番犬してるんだ」
リルはそう言って、誇らしげにその首を撫でた。
アロガは撫でられれば尾を振るが、視線だけは森から離さない。
私は、その様子を黙って見ていた。
獣の勘は、時に私の感知よりも正確だ。
まだ何も起きていない。
だが、“起きる前”の匂いを嗅ぎ取るのが、彼らの本能でもある。
番犬としての責務に燃えている――リルと同じように、そう思えたらどれほど楽だっただろう。
――だが、私にはそう思えなかった。
アロガの警戒は、日常の延長ではない。
縄張りを守るそれではなく、もっと根源的な、不吉さを含んでいる。
魔力を使わざるを得ない状況――。
悪魔の呪いは未だに有効なのだ。
森に引き籠もろうと、それはいずれ必ず訪れる。
問題は、それがいつか、そしてどの程度か、という事だった。
私は夜の森に向かって、そっと感覚を広げた。
地を流れるマナ、木々に残る古い気配、風に混じる微かな違和感。
――まだ、はっきりとは掴めない。
だが、何かが“集まりつつある”感触だけは、確かにあった。
「お母さん?」
不意に、リルが不安そうに見上げてくる。
「なんか、怖いよ?」
私はすぐに表情を緩め、首を振った。
「ごめんよ。ただ、森が少し騒がしい気がしたのさ」
嘘ではない。
だが、全てでもない。
リルの頭に手を置き、ゆっくりと撫でる。
その間も、アロガは低く喉を鳴らし、森から目を離さなかった。
この平穏が、いつまで続くのか。
それを決めるのは、私でも、リルでもない。
けれど――。
守ると決めたものがある限り、来るべき時から、目を背けるつもりはなかった。
※※※
森の中には、幾つもの結界を張ってある。
ただし、それらの張り巡らせた結界は、長い年月を経るうちに、いつの間にか「慣れ」に寄り添った形になっていた。
守るべきものが少なかった頃の結界であり、私一人で完結していた頃の、自己完結型の防御だ。
――今は違う。
私は森の中を、歩いてなぞる。
木立との境、下草が薄くなる地点、転移陣を隠した歪みの残滓。
その一つ一つに、結界の“綻び”がある。
今回、用いている結界は、魔力で壁を作るものとは違う。
世界の理に「ここから先は違う」と、誤解を植え付ける行為だ。
その認識を強め、各種結界に、より専門的な効果を付与する。
家から最も近い内層は、認識阻害を。
この先に「家」という概念を感じさせない。
人にも獣にも、ただの森の延長だと思わせる。
中層は方向攪乱。
踏み込んだ者は、必ず同じ場所を回る。
進んでいるつもりで、実際には円を描く様に歩かせるのが目的だ。
家から最も遠い外層は、警告結界。
侵入そのものは止めない。
代わりに、私とアロガ、ナナにだけ、侵入者の性質を伝える。
敵意か、捕食か、探索か。
それとも――、明確な殺意か。
この三つを再構築し、張り直す。
――それが終われば、結界以外の防御手段だ。
私は結界に頼りすぎない主義だし、そもそも突破する意思がある者は、いずれ破って来るものだと、良く知っていた。
だからまず、地形そのものを罠にする。
家へと続く自然な導線を、意図的に逸らす。
そこへ続く道は、地面の硬さ、根の張り方、足場の角度がそれぞれ異なる。
非常に歩き難いだけでなく、普通の人間なら、まず躓く構造だ。
またそれは侵入する者達の規模が大きくなる程、速度を殺す事に繋がるだろう。
更に、体勢を崩す為の場所を、意図して用意する。
その周囲に風の渦を仕込み、足首周辺をズタズタに引き裂く仕組みだ。
普段は無害だが、私の合図一つで、ナナと他の風精霊が仕事をしてくれる。
次に考えるのは、生物による防衛だ。
アロガの種族である
そもそも、外敵の侵入には敏感だが、それを強化して不安を煽る。
殺さなければ殺される――そうした思いを増幅して、より攻撃的な索敵をさせるのだ。
もっとも、彼らの役目は“遮断”ではなく、むしろ“判断”にこそあった。
吠え、立ち位置を変え、威嚇の強さで、敵の格を知らせる。
それを受け、決断するのが私だ。
迎撃か、排除か。……それとも、見逃すか。
さらに、妖精達には後方支援を任せる。
霧を出す、音を歪める、影を増やす――そうした撹乱を任せる。
彼女達は戦わない。
だが、戦場を私の有利に塗り替えるのた。
最後に、軍勢が来た時に備えて、少しずつ作っておいたゴーレムを配置する。
ミスリル銀を用いたゴーレムは、非常に頑強なだけでなく、魔術攻撃にも強い。
魔術を主体に戦うエルフなどは勿論、優秀な冒険者すら、これには手を焼かされるだろう。
また、そこに精霊を宿す事で、属性に秀でた個体を作ることも出来る。
それぞれが上手く編隊を組めれば、完封する事さえ可能と思うが……、そこまで上手くはいかないだろう。
何しろ、ゴーレムの中に入るのは、全て小精霊ばかりだ。
気位の高い中位以上の精霊では、中々こうした事はやってくれない。
だから、隊列を維持して攻撃する事さえ難しく、殆ど散発的な攻撃となる。
しかし、それでも間違いなく有効な戦力で、敵戦力を大きく削るのに寄与してくれるに違いなかった。
精霊には死の概念がないから、痛むのはゴーレムを失う事だけ、というのも良い。
とんだ散財だが、頼りになるヒトの味方がいないのだから仕方がない。
「……私に使える魔力は、後どのくらい残っているだろう……」
呪いを一段階、深く踏み込ませる覚悟が必要で、そしてそれは最早、引き返せない所まで浸食させる事を意味した。
今度の戦いは、恐らく大規模なものになるだろう。
かつて――三年前、浸透して来た時、斥候部隊の一人を生かして帰してしまった。
だが例え、仮に全滅だったとしても、やはりまた来ただろう、という気はする。
それだけの力を持った部隊でもあった。
その全滅は、魔女の存在を確かなものにさせるには十分だ。
「ならば次は、私を倒せるだけの戦力を用意する……」
逃げるという選択肢は、取るつもりがなかった。
実際、正面からぶつかるより、余程余命が伸びる選択だろう。
だが、あくまで延びるだけでしかない。
魔力を封じても、あくまで延命の範囲は越えないだろう。
それまでに、あの悪魔が諦めるのに賭けるのは、あまりに心許なかった。
諦めるつもりがあるなら、とうに心は折れている。
それだけの苦痛と激痛が、今も悪魔を襲っているはずなのだ。
ならば、この命はリルの為に使いたい。
それが引いては、森を護る事にも繋がる。
そして、それこそが、リルの為に重要な事だった。
「……覚悟を決めるか」
既に十分、長く生きた。
そして、それに見合う幸せも得ることが出来た。
用意した罠や結界、そしてゴーレムだけで足りるなら、それが最も望ましい。
だが、いざとなったら、躊躇うつもりはなかった。
※※※
夕暮れ時、家に戻ると、リルが庭でナナと遊んでいた。
アロガはその少し外側――付かず離れずの距離で、森を睨んでいる。
どこまでも警戒を崩さない姿は、私の確信を後押しする。
――敵が襲来する日は近い。