翌朝の事だった。
森の静寂が、ほんの僅かに歪んだのを感じた。
「……来たか」
結界に触れた“感触”は、蜘蛛の巣にかかった露ほどの微細さだったが、私には十分すぎるほど明確だった。
今はまだ外層の警告を受けただけで、中層の方向攪乱にまでは達していない。
しかし、それも時間の問題だろうし、方向攪乱についても、やはり時間稼ぎにしかならないだろう。
だが、時間を稼げるのは、心にゆとりを宿す。
相手は前回と同じ手段で、魔法陣を回避したつもりだろうが、それはもうダミーと化している。
奴らの動きは、既に私の手の平の上だ。
陣を踏まない為、僅かに浮く浮遊の靴を用意していたし、魔力波形を極限まで薄め、存在を“地形の一部”に偽装もしていた。
だが、その解析と対策は、とっくの昔に終えている。
――何の問題もない。
彼らは罠を回避出来るつもりで、盛大に罠へと踏み込むだろう。
だが、暢気に構えている訳にもいかない。
結界が教えてくれた敵の数は、およそ一千。
師団規模の人数だ。
探索ではない。威圧でもないだろう。
これは、制圧を目的とした軍事行動だ。
ナナが、ひゅっと風を強める。
普段の遊ぶような軌道ではなく、警戒時に見せる鋭い旋回だった。
アロガもまた、喉の奥で低く唸り、森の方角から視線を外さない。
二体とも、結界から“質”を受け取っているから、敵の思惑は明確に知れた。
敵意、殺意、組織的行動――そして、私を狙っているという明確な意思。
それが分かるから、自然と表情だけでなく、態度まで険しくなった。
ただしリルだけが、普段と違う様子を理解出来ず、困惑した表情を浮かべていた。
「……ナナ? アロガ? どうしたの?」
二体は答えず、私もまた答えない。
伝えるつもりも、今はなかった。
「……準備が必要だ。離れに行く」
それだけ告げて、踵を返す。
リルは一瞬迷ったが、すぐに後をついてきた。
「何するの? 準備って、なに?」
ここから先、隠しても意味がないと分かっていても、口にするのは憚られた。
それで曖昧に笑って頭を撫で、離れに向けて歩き出した。
離れは、母屋から少し距離があり、家屋と同じ材で造られているが、その空気が違う。
魔力が沈殿し、染み込み、呼吸するたびに肺の奥が僅かに痺れる。
ここは、私自身の為の場所だ。
リルには危険だから、と近付けさせなかった場所でもある。
その秘密めいた場所に踏み込めるとあって、私達の思いとは裏腹に、リルは楽しそうな声を上げた。
「わっ、すごい……! 初めて入る! 何があるんだろ……?」
扉を開けると、まず整然と並べられた棚が目に入った。
多種多様の武器、魔力を内包した秘具、魔術を記した数々の巻物、販売品とは一線を画す水薬……。
それらが所狭しと並んでおり、そして最奥の壁一面には、数多の剣が陳列されていた。
大小、長短、形状も重心も異なる刃が、まるで静かな墓標のように並んでいる。
どれも、ただの鋼ではない。
魔力を織り込み、術式を刻み、幾度となく戦場を潜り抜けてきた、“選りすぐりの剣”たちだ。
リルが、思わず息を呑む。
「……あれ、全部、……剣?」
「そう。私の、記録みたいなものだよ」
一振りずつ、用途が違う。
対魔物用、対人用、対大型魔獣用、対結界破壊用、そして――殲滅用。
全て私が手ずから造ったものだ。
私は、中央に掛けられた一本へと手を伸ばした。
柄は黒檀。
鍔は簡素な円形で、飾り気はない。
だが、抜き放った瞬間、空気が震えた。
刃は透き通るような蒼銀で、光を反射するのではなく、呑み込むような鈍い輝きがあった。
剣身には、無数の微細な魔術刻印が走り、呼吸に合わせるかのように、かすかに脈動している。
「……きれい」
リルの素直な感想に、私は小さく笑う。
「見た目だけならね」
この剣は、斬るためにあるのではない。
その真髄は“魔力に対抗する”為にある。
術式、結界、――あるいは、放たれた魔術と、その効果が及ぶ二次的範囲まで。
魔力に通じるもの全てを、分解し、霧散させる。
千年の研鑽の果てに、用途を一つに凝縮した、珠玉の一振りだ。
自分が本当に欲しい効果を突き詰めていった結果、こうした結果になった。
――魔女殺し。
そう呼んで差し支えない、膨大な魔力と魔術力を、制して圧倒するのに向いている。
だがこの武器は、強力であるからこそ、敵に奪われた場合、とても恐ろしい事になると覚えておかなければならない。
「これはね、とても強い武器だけど、力の象徴って訳でもない。どちらかと言うと、責任の象徴かもね」
リルにはまだ、難しいか。
そう思いながら笑いかけ、私はゆっくりと刃を鞘に納めると、腰に佩いた。
そうして次に、外套を手に取る。
深い暗色の物で、装飾も紋様もない。
だが、これは単なる“布”とは違った。
魔力を織り込み、層を重ね、衝撃・熱・刃・魔力に対して最適化した魔術秘具だ。
下手な全身鎧より、よほど信頼できる。
もしも売り値を付けるなら、屋敷一軒どころか、土地付きで二、三は買える程になるだろう。
だが値段など、どうでも良かった。
これは、生き残るための道具だ。
私は外套を羽織り、留め具を留める。
それだけで私の魔力と呼応して、僅かに震えた。
リルはそれを、何も言わずに見ていた。
――聡い子だ。
もう、只事ではないと理解している。
「お母さん」
リルが真摯な瞳で、小さく呼ぶ。
「……何か、来るの?」
私は一瞬、言葉を選ぼうと口をつぐみ――だが結局、素直に告げる事を選んだ。
「――そう、来るよ」
しかし、なにが来るかまでは教えなかった。
いつも通り、冒険者の類いが来ていると誤解してくれれば御の字で、無駄に怖い思をさせる必要はない。
外に出ると、森は変わらず、静かだった。
だが、その静けさは、嵐の前の静けさそのものだ。
師団規模の敵が来る。
戦意を持って襲い来る、千の
「あと出来る用意は、妖精と精霊に指示を飛ばすだけ、か……」
迎え撃つ準備は、整った。
――あとはそれが、いつ来るかだった。