それから、二日経ってからの事だった。
夜になって月は高く、雲一つない空から、その冷たい光を落としている。
畑の向こう――森との境界、そのさらに奥……。
結界の外縁を撫でるような、鈍く重たい気配が、ゆっくりと広がっていた。
「……早いな」
師団規模であれば、行軍速度はもっと落ちる。
補給、統制、迂回。
それらを考えれば、少なくともあと一日は猶予があると踏んでいた。
だが、この速さ。
前回の侵入時、森の地形を徹底的に調べ上げ、記録し、進軍用の地図を作っていたのだろう。
千年越しの執念だ。
随分と手際が良くなるのも、頷ける話ではある。
もっとも――。
こちらも、ただ待っていたわけではない。
予想される侵入ルートには、罠を張った。
視覚阻害、足止め、魔力逆流、地形変化。
正規軍相手を想定した、“殺すため”ではなく“削るため”の布陣だ。
被害が出ないはずもない。
「お~い!」
その時、夜気を裂くように、淡い光がふわりと舞い降りた。
それは二体の妖精だった。
息を切らす様子はなく、しかし幾らか興奮気味で、うち一体の表情は珍しく引き締まっている。
「報告、報告~!」
私は頷くだけで、続きを促す。
「ゴーレム部隊、すでに半壊! 敵、もうすぐ境界線!」
思わず、細く息を吐いた。
「……思ったより、早く壊されたな」
費用に糸目は付けていない。
希少鉱石、長期稼働型の魔力炉、複合術式による自己修復。
あの部隊は、通常の軍勢であれば、三日は足止めできる代物だった。
「敵の残存戦力は?」
問い掛けると、もう一方の妖精が少しだけ胸を張って答えた。
「へへん、聞いて驚け! 半分くらいまで削ったよ!」
誇らしげな声音に、私も素直に頷いて褒めた。
実際、それは胸を張っていい戦果だ。
だが――。
「……半分、か」
期待していた数字には、届いていない。
敵もまた、相応の戦力を用意してきたということだ。
対魔獣用装備。
対ゴーレム戦の経験。
指揮系統の洗練。
その全てが、千年という時間の重みを物語っていた。
――当然、とも言える。
彼らにとって、それだけの執念を見せてくる意味があり、そしてこれは、単なる侵攻作戦行動でもなかった。
悲願だ。
千年にも及ぶ追跡劇に、ここで終止符を打つための――。
これこそが、文字通りの決戦で間違いない。
「失敗しないだけの、量と質を用意している。……そう考えていたつもりだったが、想定が甘かったか」
妖精は、私の表情を窺うように見上げる。
「どうする?」
私は月を一度見上げ、そして視線を森へ戻した。
「予定通りに」
静かに告げ、私はゆっくりと頷いた。
「結界は家を中心に閉じ直す。迎撃は第二段階に移行。ゴーレムの残骸は――」
「うん、罠に使う!」
先回りして答えた妖精に、わずかに口角を上げた。
「そう、何事も無駄にしないこと」
妖精二体が張り切って飛び去るのと同時、アロガが低く唸り、ナナが鋭い風を巻き起こした。
二体とも、迫る“数”と“意志”を、はっきりと感じ取っている。
その害意には森までもが、息を詰めているかの様に感じられる。
――もうすぐだ。
この静けさが破られるまで、もう幾らもない。
私は外套の留め具に触れ、腰の剣に手を添えた。
――千年分の覚悟なら、こちらにもある。
終止符を打つのは、彼らか。
それとも、私か。
答えはもう、すぐに出る。
※※※
結界が、音もなく静かに閉じて、空気の質が変わった。
森と家、その境界線に沿って張り巡らせた不可視の膜が、外界との連なりを断ち切り、内側だけの世界を作り上げる。
我が家をすっぽりと覆った結界は、範囲が縮小されただけ、その強度を増した。
今の我が家は、どんな砦よりも堅牢な壁に覆われているに等しい。
退路を自ら断った形だが、――問題はない。
ここで決着を付けるつもりなのだから。
「ナナ」
名を呼ぶと、風の精は一瞬で肩口までやって来る。
淡い光を帯びた風がその身体を纏い、緊張を映すように小刻みに震えていた。
「精霊達に伝達を。ゴーレム部隊に入っていた者達には、良くやってくれたと。後はこちらで受け持つ」
「分かったわ!」
弾けるように散っていく風を見送り、次に視線を落とす。
「アロガ」
巨体の獣は、既に私の横に座していた。
耳は森へ、鼻先は地を向いている。
唸り声も出ていたが、今はまだ喉の奥で抑え込まれていた。
まるでいざという時、その戦意と共に吐き出すのを待っているかのようだ。
「合図があるまで、守りに徹していろ。決してリルの傍から離れるな」
「フシッ……!」
理解している、というように、アロガは短く鼻を鳴らした。
――後の問題は……。
私は、背後を振り返り、そこに立つ小さな影を見つめた。
「……リル」
リルに返事はなく、こちらをじっと見つめていた。
不安と、困惑と、それでも何かを感じ取っている目を向ける。
「お母さん……」
「うん」
誤魔化す必要は、もうない。
私は歩み寄り、しゃがんで、目線を合わせた。
「少し、騒がしくなる」
「……敵が来たんだよね? 悪い、何かが……」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
だが、すぐに頷いて応えた。
「そう。沢山ね、来てるみたいだ」
リルは唇を噛みしめ、ぎゅっと拳を握る。
「わたしも――」
「だめ」
即答だった。
リルが何か言う前に、私はその柔らかな頬に手を添える。
「これは、大人の……私の仕事だ。リルは、家を守る。シルケの側を離れずにいなさい」
「でも!」
「約束だ」
強く言い切ると、リルの目が揺れた。
悔しさと、不安と、それでも信じたいという感情が、せめぎ合っている。
私は、最後に一度だけ、抱きしめた。
「すぐ終わらせるから」
それが、どれほど危うい言葉かを承知の上で、リルに告げた。
リルは小さく頷き、それから手を伸ばして外套の裾を掴む。
「ねぇ、お母さん……。わたしね、うんと……ちょっと変……」
「変?」
私を行かせまいとして、咄嗟に出た言葉――そうも思ったが、この場で体調不良を訴えて、私を困らせる子でもない。
「変って言うのは? お腹が痛いとか?」
「ううん、そういうんじゃなくって……」
リルは一瞬、言い淀んで、それから不安そうな顔を隠さずに言った。
「外が見えるの。家の外……」
「外? 見える? それじゃあ、ちょっと分からないな……。頭が痛いとか、気分が悪いとかは?」
「だから、そういうんじゃないの! 家のことを見てるの。私はここにいるのに……! まるで自分が家の外に立って、こっちを見てるみたい……!」
「それは……」
ナナの方を、チラリと見つめる。
リルはナナとの契約で、目と耳をリンクさせている。
だから、ナナが見た光景を、その気になればリルに見せる事が出来るのだが――。
勿論、ナナはこの場から一切、動いていなかった。
「……今はよく分からない。でも、そう悪いことにはならないだろう。今もまだ見えてる?」
「ううん、もう戻った」
首を横に振ったリルの頭を撫で、私は笑ってい安心させる。
――もしかすると。
もしかすると、敵側の何者かが、リルの視界を通して、こちらを窺っていたのかも、という考えが頭をよぎった。
だが、それをするには、先ほど縮小したばかりの結界を突破して幻術を仕掛けた、という意味でもあるのだ。
そんな事は不可能なので、私は努めて頭の中から締め出した。
仮に見られていたとしても、作戦行動に対する重大な何かを口にした訳でもない。
――私は最後にリルを抱き締めて、その体温を十分に感じてから背を向ける。
リルからは戸惑いがちに、声を掛けられた。
「あの、お母さん……。いってらっしゃい……無事に帰って来て」
「うん、安心なさい。美味しい物でも食べてれば、少しは落ち着くだろう」
そう言ってシルケに視線を向ければ、万事心得た様子で首肯が帰って来た。
私は外に出て、改めて結界を閉じる。
外套が夜風を孕み、剣の柄が、掌に馴染むんだ。
防衛戦において、高所を取るのは基本中の基本だ。
そして、この場における高所とは、我が家の屋根くらいしかなかった。
膝を曲げて跳躍し、屋根の上へ、ふわりと降り立つ。
森の外周の第一迎撃線、そこには既に“音”があった。
金属が擦れる音。
踏みしめられる落ち葉。
抑えた声での号令があり、闇の向こうに、無数の気配がある。
私は、自然体で立ったまま、闇を睨み付けた。
剣の柄に魔力を流し込むと、剣身に刻まれた古い術式が、一つ、また一つと目を覚ます。
「――来い」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
次の瞬間、森の縁が弾け、侵入者たちが、なだれ込んで来た。
エルフ重装歩兵、エルフの魔術士、そして冒険者と思しき者ども。
数は――見ただけで、数百はいた。
だが、恐怖はない。
左手を掲げ、魔力を集中させると体中が痛んだ。
細く息を吐いて、初撃を見舞う。
腕を横一文字に薙いだ瞬間、空気が裂け、見えない刃が前列をまとめて吹き飛ばした。
血と悲鳴が夜に散る。
そこへ追撃の地面に仕込んだ術式が起動し、転倒、拘束、魔力逆流が起こる。
使用しようとしていた術は、そこで暴発を起こし、味方共々餌食となった。
悲鳴は、さらに重なる。
「――これで、まだ半分」
私は深く息を吸い、今度は剣を構えた。
千年分の因縁を――。
この森で――。
すべて、終わらせる。