炎の熱が背中をじりじりと焼く。
その中を、わたしは踵を返して走った。
さっきまで剣を追っていた足が、今度は迷いなく、お母さんのもとへ向かう。
「お母さん……!」
仰向けに倒れたまま、ぴくりとも動かないお母さん。
胸が、凍り付いた。
顔は煤で汚れ、髪も焦げている。
服も所々焼け落ちて、見たこともないくらい傷だらけだった。
けれど――血は、思ったより流れていない。
「リル、怖いと思うけど……見てるだけじゃ駄目。確認しなきゃ」
ナナの声が、いつになく真剣だった。
わたしは震える手で、お母さんの頬に触れる。
……あったかい。
「息は……?」
ナナが膝をつき、耳を口元へ近付ける。
わたしの心臓の音だけが、やけにうるさい。
「……ある。あるよ……」
ようやく安心できて、膝から力が抜けた。
「よかった……、よかったぁ……」
涙が、ぽろぽろと落ちる。
けれど、ナナの顔は晴れないままだった。
「でも、魔力がほとんど残っていない。結界が割れたのは、きっとそのせいね」
さっき聞いた、ガラスが割れるみたいな音。
あれは、お母さんの力が尽きた音だったんだ。
そう思うと、心配する気持ちがドッと溢れて来て。わたしはお母さんの手を握らずにいられなかった。
冷えてはいない……けど、ぜんぜん力がなかった。
いつもなら、ぎゅっと握り返してくれるのに。
「……お母さん」
小さく呼び掛けても、やっぱり返事をしてくれない。
弱々しく見える姿に、目の奥がまた熱くなる。
「お母さんの、盗られた……! 変なやつが持って逃げた! 森に……炎の中に……!」
悔しさを飲み込もうとして、歯を食いしばる。
あの背中。あの走り方……。
見た事ないはずなのに、でも何故か知っている気がして……不思議な感覚だった。
それに、顔も見えなかった。
もし見えていたら、知った顔だったのかもしれないのに……。
「リル、それより気を付けた方が良いわ……」
ナナは周囲を見渡しながら、目を細める。
「生き残りが、他にもいるかもしれないわ。……安全と思えるまで、家に入ってた方がいい」
あの剣を見せてくれた時のお母さんは、とても誇らしげだった。
それだけ大事にしていた魔剣だし、わたしにだってこの間、初めて見せてくれたぐらいだった。
『これはね、とても強い武器だけど、力の象徴って訳でもない。どちらかと言うと、責任の象徴かもね』
そう言って、ちょっと困った顔で笑っていた。
それを、――盗られた。
「リル」
ナナが、わたしの肩を掴む。
「怒るのは後。今は運ぶわよ。家の中に入れば、そっちの方が守りやすい」
それに、敵は兵士とかだけじゃなかった。
炎は森の縁で止まっているけど、風向き次第でどうなるか分からない。
「アロガ、手伝って」
アロガが低く唸りながら、お母さんの体の下へ潜り込もうとする。
わたしもお母さんの身体を持ち上げて、その大きな背に、慎重に乗せた。
わたしは、そっとお母さんの手を握ったまま歩く。
「……絶対、取り返そうね。お母さんの、大事な物だもん」
小さな声で、お母さんに呟く。
ナナは何も言わなかった。
でも、その横顔はどこか、覚悟を測るような目をしていた。
炎の向こうへ消えた背中――。
見覚えなんかないのに、どうしてか知っている感じが、胸をモヤモヤとさせる。
あいつがきっと、お母さんをここまでボロボロにしたんだ。
胸の奥で、何かが静かに燃え始めていた。
――悔しさとは違う。
もっと深く、冷たい火のようなものが、心についた気がした。
※※※
お母さんが目を覚ましたのは、それからすぐのことだった。
敵の姿はすでにないと確認されて、だから今は、妖精や精霊たちがせわしなく飛び回っている。
森の縁でくすぶる炎を鎮め、倒れ伏した兵士たちを片付けたりしていた。
焦げた匂いと湿った土の匂いが、まだ辺りに漂っている。
お母さんはアロガの背に乗せられたまま、苦しそうに息をつきながらも、途切れ途切れに指示を出していた。
「北の畑……延焼を止めて……、川から水を引っ張って……」
「お母さん、無理しないで……」
「大丈夫……。リルが無事なら、それで……」
抱きつきたい衝動をぐっとこらえ、せめてその手を強く握る。
「良くないよぅ……。お母さん、いっぱい……いっぱい怪我したんだよ」
「なに……、かすり傷さ」
それがやせ我慢なのは、見れば分かる。
心配をかけたくないんだろうけど、そういうところが余計に心配になる。
お母さんは、そこがちょっと分かってない。
不満を口にしようとした時、ナナが横から静かに口を挟んだ。
「それより、早く安静にさせてあげなきゃ。ゆっくり休めば、きっと……」
「そうだよね! ごめんね、お母さん」
言葉はなかったけれど、ぎこちない笑みが返ってきた。
いつもの、包み込むような笑顔とは違う。
それが、胸の奥に小さな棘を残した。
「アロガ、早く戻ろう。ベッドに寝かせて……あ、その前にお風呂? からだ、きっと洗いたいよね?」
「それは明日にしよう……。今は、とにかく休みたい」
「うん、うん……! だよね!」
家に入ると、シルケがすでに湯を張ったタライを用意していた。
温かい布で手や顔、首筋をそっと拭っていく。
それだけで少し楽になったのか、お母さんは小さく息を吐いた。
でも……その時、見えた。
煤や泥だと思っていた首元が――黒いままなのを。
拭っても、落ちない。
まるで、皮膚そのものが染まったみたいだった。
何かの傷……?
詳しく知りたいけと、聞いてはいけない気がした。
胸がしきりに、ざわりとする。
嫌な予感が更に増した。
※※※
ベッドに横たえられたお母さんは、目を閉じたまま浅く呼吸している。
わたしはその傍らの椅子に座り、その様子をじっと見つめていた。
「リル」
ナナの声が、低く響く。
「少し、外してくれる?」
「やだ」
お母さんは苦しそうだ。
何か欲しい物とかあったら、すぐに用意してあげたい。
だから、今日はずっとこうしているつもりだった。
「ハァ……」
ナナは困ったように溜め息をつく。
「大事な話なの」
その言い方で、分かってしまった。
わたしは、ぎゅっと拳を握る。
「首の、あれでしょ」
ナナの視線が、一瞬だけ揺れた。
「……見たのね」
「黒いの、消えなかった」
返答はなかった。
痛い程の沈黙が続く。
窓の外では妖精たち声が、微かに聞こえていて、未だ片付けに忙しいそうだ。
更に数秒沈黙が続いて、ようやくナナが口を開いた。
「……呪いよ」
そう言ったナナの声音は、思っていたより冷たい。
「……のろい?」
「そう、悪魔に掛けられた呪い」
「でも……、でも、倒したんだよね? あの森でやっつけた奴でしょ? 凄い悲鳴、聞こえてたもん……!」
「でも、そうじゃなかった。今も呪いが続いてるのは……悪魔が未だに執念深く、恨みとか、そういう感情をぶつけてるのよ」
何を言ってるのか分からなくて、頭の中が真っ白になった。
倒したと思ってた悪魔が、実は倒せてなくて……。
それだけじゃなくて、今も――今までずっと呪われていた?
「でも……、でも、治るんだよね?」
だから、すぐにそう聞いた。
なのに……ナナは、すぐには答えてくれなかった。
しばらくして、ようやく口を開いた時には、苦しそうに歪めた表情をしていた。
「……時間が経てば、多分……もっと広がるし、酷くなると思う」
「広がる……?」
「魔力を蝕む呪い……なのかしら。ここまで濃いと、もう手遅れで、いずれ――」
「やめて」
それ以上聞いていられなくて、頭の上の耳を塞いだ。
「やめてよ!」
目の奥が熱くなって、唇が震える。
でも、ナナに怒鳴りつけても意味がないって、そんな事は分かっていた。
それでも、気持ちが収まらなくて、もっと酷いことを言いたくなる。
その時、擦れた声が部屋に落ちた。
「……リル」
お母さんが、目を開けている。
わたしはナナから顔を背けて、咄嗟にその手を強く握った。
「お母さん……!」
「聞きなさい」
「でも、でもね……!」
「怖いのは分かる。でもね、知らない方が、もっと怖いという事もあるからね……」
その目は、弱っているはずなのに、どこまでも真っ直ぐだった。
「お母さんが、呪われているのは本当だ」
静かな声が、沁みるように伝わってくる。
否定したいのに、その声には有無を言わさぬ迫力があった。
「これまで隠していて、ごめんな……」
「ううん、いいよ! 全然、いい! それに、治るんだよね? ちゃんと治るんだよね?」
「いいや、これは治らない……」
胸の奥が熱くなって、唇がワナワナと震えた。
目の奥が熱い――そう思ったら、すぐに涙がポロポロと溢れてきた。
「嘘だよね? お母さん、強いもん……っ! 何にも……っ、負けないよね……っ?」
「……うん。でも、これは別なんだ」
もう我慢出来なくて。お母さんの手を額に当てて、わんわん泣いた。
もっと別の――いつもみたいな、自信に溢れた言葉が欲しかった。
なのに、幾ら待っても、お母さんからそんな言葉は出て来ない。
それが嫌でまた泣いて――。
「ごめんな、リル……」
お母さんが謝る言葉で、また泣いた。