その日はそのまま、泣き疲れて眠ってしまったらしい。
気がついた時には、もう朝だった。
わたしはお母さんの隣で毛布にくるまっていて、まだ眠い目をこする。
お母さんはあんな状態だったのだから、わたしを運べたはずがない。
きっとアロガとナナが、どうにか寝かせてくれたんだ。
あとで、ちゃんとお礼を言っておこう。
そう思いながら横を見ると――お母さんは、今も苦しそうにしていた。
呼吸は浅くで、時々、かすかな呻き声が漏れる。
「お母さん……、おはよう」
遠慮がちに、小さな声で呼びかける。
返事はない。
いつものように明るく声を出せなくて、代わりにそっと肩へ手を伸ばした。
「お母さん……」
軽く揺すってみたけど、やっぱり反応はなかった。
もう少し強く、と手に力を込めかけたその時――。
「やめときなさい」
背後から静かな声がして、振り返ると、そこにはナナが浮いていた。
「今は別に、危険な容態ってわけじゃないわ。眠りが深いだけ。だから、ゆっくり寝かせてあげましょう」
「……ほんと?」
「ええ」
そう言いながらも、ナナの視線はほんの一瞬だけ、お母さんの首元へ落ちた。
あの、黒い痕……。
わたしも、思わずそこを見る。
昨日より、ほんの少しだけ――勘違いかもしれないけど――痕が広がっている気がした。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「ナナ」
「なに?」
「あれ……」
言葉に出来ず、ただ指先で首元を示した。
言ってる意味が分からないはずないのに、ナナはしばらく黙っていた。
それから、わたしの前に滑る様に近付いて来て、目線を合わせる。
「焦っちゃダメよ」
「でも……」
「リルのお母さんは何を教えてくれた? 焦り過ぎると、判断を……?」
「……間違える」
そう、と優しい声で頷いたナナは、でも、どこか厳しい。
「呪いは確かに、もう体中に広がっているかもしれない。だけど……、まだ時間は残されてる」
「時間……」
「ええ。何も出来ないわけじゃないと思うわ」
そう言ってくれて、ほんの少しだけ息がしやすくなった。
その時、隣で微かに、息の音が変わった。
「……リル」
かすれた声に、はっとして振り向くと、お母さんの瞼が、ゆっくりと持ち上がる所だった。
「お母さん……!」
思わず身を乗り出す。
焦点の合わない瞳が、数秒さまよって、それからわたしを見つけた。
そうして、ほんの少しだけ、柔らかく細めて見つめてくれた。
「そんな顔をするな……」
「だって……」
泣きたくないのに、声が震える。
お母さんはゆっくりと息を吸い、そして僅かに眉を寄せた。
痛みを堪えているのだと、嫌でも分かる。
そこへナナが、すっと滑る様に移動して、お母さんの横に寄った。
「目は覚めたみたいね」
「ああ……、どれくらい寝ていた?」
「大丈夫、一晩だけよ」
「……そうか」
短い言葉の遣り取りだったけど、それでも、その声には昨日より芯があった。
わたしはお母さんの手を握る。
「痛い?」
「そういうのとは、少し違うな」
「あのね、首……」
言ってしまった。
お母さんの視線が、ほんのわずかに動く。
「それは、まぁ……、気付くか」
責めるでもなく、隠すでもない声だった。
わたしは、視線を真っ直ぐに合わせて、こくりと頷く。
「昨日より、ちょっと……」
最後まで言い切れない。
だって本当は、全然変わってなかったかもしれなかった。
言ったら本当の事になりそうで、だから全部を、口に出来ない。
お母さんは、ゆっくりと目を閉じて、短く息を吐いた。
「三年だ……」
「……え?」
「三年前から、こうなんだ」
頭が、真っ白になる。
「三年……?」
「ああ」
ナナが、静かに目を伏せた。
「あなたがまだ、森の奥に一人で入れなかった頃よ。ある日、魔女が一人で森に入って、そして大きな爆発と光が見えて……覚えてる?」
その日の事は、よく覚えてる。
森が異様に静かで、空気が重たくて――。
お母さんが全然、帰ってこなくて、泣きながら待っていた。
そして、ようやく帰ってきた時、お母さんは大した傷もなく、笑って言ってくれた。
『もう、大丈夫だ』
そうして、いつもみたいに抱き締めてくれた。
「……その時に、悪魔の呪いを打ち込まれた」
お母さんの声は、どこまでも淡々としている。
「悪魔との契約者は倒した。悪魔そのものも、既に生き地獄の中で封印されている」
「じゃあ、なんで……」
「執念……。そうとしか言えないと思う。繰り返される痛みに慣れたのか、それとも怒りがそれを上回ったのか、そこまでは分からないが……」
あまりにも静かな告白で、そこには何の感情も読み取れなかった。
もっと悲しんだり、悔やんだりするのかと思ったけど、そういうのは全然ない。
「最初は小さな痣だった」
そう言いながら、首元に指を向けた。
「広がるのは、ゆっくりだ。だから、黙っていられた」
「どうして言ってくれなかったの……!」
声が震える。
悔しさとも違うし、言われたところで何が出来たとも思えないけど……。
でも、何も知らないでいたのが、とても嫌な気持ちになった。
「怖がらせたくなかった」
「わたし、子どもじゃない!」
「そうだな」
少しだけ笑うその顔は、子どもをあやすものとは違った。
「だから今、話している」
胸が苦しい。
まるで、何もかもを諦めているみたいで……。
「治らないの?」
聞いてしまったけれど、答えを聞くのが怖い。
でも、聞かずにもいられなかった。
お母さんは、小さく首を下に振る。
「解呪の方法は、三年前から探していた。あらゆる方法を探し、試したつもりでいる。でも……」
言葉がそこで一度途切れて、数秒、間を置いてから続けた。
「……無理だった」
たった一言、そう零した。
また沈黙が続いて、細く息を吐いてから続けられる。
「悪魔は封じた。だが、存在は消えていない。呪いは生きている」
わたしの手に、思わず力が入る。
「あと……どれくらい?」
お母さんは、言葉を探しているみたいで、しばらく天井を見つめていた。
「長くて半年」
世界が急に、遠くなった気がした。
周りのもの全てが大きく、自分がちっぽけな存在になった気がする。
「短ければ……、その更に半分」
息が出来ない。
視界がみるみる内に、涙で歪んだ。
「……うそ」
「嘘なら良かったな」
優しい声に、涙が、ぽろぽろ落ちる。
「……嫌だ」
「うん」
「嫌だよ」
「うん」
お母さんは否定しない。
ただ、あるがままを受け止めていて、それは抗うのを止めている様にも見えた。
「悔いが無いと言ったら、嘘になるが……」
悲しげだけど優しい視線で、わたしを真っ直ぐに見つめる。
「概ね、満足しているよ」
「どうして……!」
「何故なら、リルは生きている」
躊躇いのない、真っ直ぐな答えだった。
「庭と畑は、全て焼けてしまったけれど、森は無事だ」
お母さんがそう言って笑ったとき、黒い痕が、かすかに脈打つのが見えた。
「それで十分だ」
溜め息を吐くようにそう言うと、儚い笑みを浮かべた。
胸が潰れそうになる。
「十分じゃない!」
我慢できず、気付いた時には、もう叫んでいた。
「わたしは、お母さんがいないのヤだもん!」
お母さんは、少しだけ困ったように笑った。
「欲張りだな」
「いいもん!」
ゆっくりと手を上げ、わたしの頭に触れる。
その手は、まだ温かい。
「だから、時間を使おう」
「……時間?」
「泣いているだけでは、減る一方だ」
そう言うと優しいだけだった視線が、強い光を宿した。
「残りの時間で、私が持つ全てを渡す」
「全部……?」
「戦闘の仕方、魔力の使い方、転移陣の作り方、森の歩き方、罠の作り方、錬金術の基礎……。そういった、お母さんが知る全てさ」
その覚悟に充てられて、ナナが息を呑む。
「勿論――」
お母さんの声が、少しだけ低くなる。
「残り時間全てを寝ずに使っても、到底足りない。だから、あくまで教えられる範囲で……」
「長くて、半年……?」
「うん。そして、わたしが死んだ後……」
そんな事を考えたくなくて、わたしは必死に頭を振る。
「やだ」
「聞きなさい」
優しく、でも逃がさない声で、お母さんは語り掛ける。
「強くなるっていうのはね、何も勝つ事だけを指すんじゃないだ」
そう言って一拍置くと、私の手を撫でながら続けた。
「大事なのは、生き残ることだよ」
じゃあ、お母さんは……。
もうすぐ、死んでしまうお母さんは……。
涙が止まらない。
「わたしが残せるものは、もう多くない……」
そう言って、強い視線のまま胸を指す。
「だけど、知識と覚悟は
わたしは唇を噛んで、嗚咽を漏らすまいと背筋を正す。
怖い……。
とても怖い。
怖くて怖くて仕方ないけど……でも、目を逸らしたくもなかった。
「……分かった。分かったよ、お母さん」
必死に押し殺した声は、でもやっぱり震えていた。
「全部、教えてね」
お母さんの目が、柔らかく細まる。
「うん、必ずね」
窓の外では、朝の光が森を照らしていた。
いつもなら、修練とか勉強の時間で……だか、早くお昼になって欲しかったけど。
でも今だけは、時間に止まっていて欲しかった。
――そんな方法はないけど。
わたしは、お母さんの手を握り直した。
――だから、せめて。
残りの時間の全てを、無駄にしないと誓った。