混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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灯は森に還り、娘へ継ぐ その3

 その日はそのまま、泣き疲れて眠ってしまったらしい。

 気がついた時には、もう朝だった。

 

 わたしはお母さんの隣で毛布にくるまっていて、まだ眠い目をこする。

 

 お母さんはあんな状態だったのだから、わたしを運べたはずがない。

 きっとアロガとナナが、どうにか寝かせてくれたんだ。

 

 あとで、ちゃんとお礼を言っておこう。

 

 そう思いながら横を見ると――お母さんは、今も苦しそうにしていた。

 

 呼吸は浅くで、時々、かすかな呻き声が漏れる。

 

「お母さん……、おはよう」

 

 遠慮がちに、小さな声で呼びかける。

 返事はない。

 

 いつものように明るく声を出せなくて、代わりにそっと肩へ手を伸ばした。

 

「お母さん……」

 

 軽く揺すってみたけど、やっぱり反応はなかった。

 

 もう少し強く、と手に力を込めかけたその時――。

 

「やめときなさい」

 

 背後から静かな声がして、振り返ると、そこにはナナが浮いていた。

 

「今は別に、危険な容態ってわけじゃないわ。眠りが深いだけ。だから、ゆっくり寝かせてあげましょう」

 

「……ほんと?」

 

「ええ」

 

 そう言いながらも、ナナの視線はほんの一瞬だけ、お母さんの首元へ落ちた。

 

 あの、黒い痕……。

 わたしも、思わずそこを見る。

 

 昨日より、ほんの少しだけ――勘違いかもしれないけど――痕が広がっている気がした。

 

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。

 

「ナナ」

 

「なに?」

 

「あれ……」

 

 言葉に出来ず、ただ指先で首元を示した。

 言ってる意味が分からないはずないのに、ナナはしばらく黙っていた。

 

 それから、わたしの前に滑る様に近付いて来て、目線を合わせる。

 

「焦っちゃダメよ」

 

「でも……」

 

「リルのお母さんは何を教えてくれた? 焦り過ぎると、判断を……?」

 

「……間違える」

 

 そう、と優しい声で頷いたナナは、でも、どこか厳しい。

 

「呪いは確かに、もう体中に広がっているかもしれない。だけど……、まだ時間は残されてる」

 

「時間……」

 

「ええ。何も出来ないわけじゃないと思うわ」

 

 そう言ってくれて、ほんの少しだけ息がしやすくなった。

 その時、隣で微かに、息の音が変わった。

 

「……リル」

 

 かすれた声に、はっとして振り向くと、お母さんの瞼が、ゆっくりと持ち上がる所だった。

 

「お母さん……!」

 

 思わず身を乗り出す。

 焦点の合わない瞳が、数秒さまよって、それからわたしを見つけた。

 

 そうして、ほんの少しだけ、柔らかく細めて見つめてくれた。

 

「そんな顔をするな……」

 

「だって……」

 

 泣きたくないのに、声が震える。

 お母さんはゆっくりと息を吸い、そして僅かに眉を寄せた。

 

 痛みを堪えているのだと、嫌でも分かる。

 そこへナナが、すっと滑る様に移動して、お母さんの横に寄った。

 

「目は覚めたみたいね」

 

「ああ……、どれくらい寝ていた?」

 

「大丈夫、一晩だけよ」

 

「……そうか」

 

 短い言葉の遣り取りだったけど、それでも、その声には昨日より芯があった。

 わたしはお母さんの手を握る。

 

「痛い?」

 

「そういうのとは、少し違うな」

 

「あのね、首……」

 

 言ってしまった。

 お母さんの視線が、ほんのわずかに動く。

 

「それは、まぁ……、気付くか」

 

 責めるでもなく、隠すでもない声だった。

 わたしは、視線を真っ直ぐに合わせて、こくりと頷く。

 

「昨日より、ちょっと……」

 

 最後まで言い切れない。

 だって本当は、全然変わってなかったかもしれなかった。

 

 言ったら本当の事になりそうで、だから全部を、口に出来ない。

 お母さんは、ゆっくりと目を閉じて、短く息を吐いた。

 

「三年だ……」

 

「……え?」

 

「三年前から、こうなんだ」

 

 頭が、真っ白になる。

 

「三年……?」

 

「ああ」

 

 ナナが、静かに目を伏せた。

 

「あなたがまだ、森の奥に一人で入れなかった頃よ。ある日、魔女が一人で森に入って、そして大きな爆発と光が見えて……覚えてる?」

 

 その日の事は、よく覚えてる。

 森が異様に静かで、空気が重たくて――。

 

 お母さんが全然、帰ってこなくて、泣きながら待っていた。

 そして、ようやく帰ってきた時、お母さんは大した傷もなく、笑って言ってくれた。

 

『もう、大丈夫だ』

 

 そうして、いつもみたいに抱き締めてくれた。

 

「……その時に、悪魔の呪いを打ち込まれた」

 

 お母さんの声は、どこまでも淡々としている。

 

「悪魔との契約者は倒した。悪魔そのものも、既に生き地獄の中で封印されている」

 

「じゃあ、なんで……」

 

「執念……。そうとしか言えないと思う。繰り返される痛みに慣れたのか、それとも怒りがそれを上回ったのか、そこまでは分からないが……」

 

 あまりにも静かな告白で、そこには何の感情も読み取れなかった。

 もっと悲しんだり、悔やんだりするのかと思ったけど、そういうのは全然ない。

 

「最初は小さな痣だった」

 

 そう言いながら、首元に指を向けた。

 

「広がるのは、ゆっくりだ。だから、黙っていられた」

 

「どうして言ってくれなかったの……!」

 

 声が震える。

 悔しさとも違うし、言われたところで何が出来たとも思えないけど……。

 

 でも、何も知らないでいたのが、とても嫌な気持ちになった。

 

「怖がらせたくなかった」

 

「わたし、子どもじゃない!」

 

「そうだな」

 

 少しだけ笑うその顔は、子どもをあやすものとは違った。

 

「だから今、話している」

 

 胸が苦しい。

 まるで、何もかもを諦めているみたいで……。

 

「治らないの?」

 

 聞いてしまったけれど、答えを聞くのが怖い。

 でも、聞かずにもいられなかった。

 

 お母さんは、小さく首を下に振る。

 

「解呪の方法は、三年前から探していた。あらゆる方法を探し、試したつもりでいる。でも……」

 

 言葉がそこで一度途切れて、数秒、間を置いてから続けた。

 

「……無理だった」

 

 たった一言、そう零した。

 また沈黙が続いて、細く息を吐いてから続けられる。

 

「悪魔は封じた。だが、存在は消えていない。呪いは生きている」

 

 わたしの手に、思わず力が入る。

 

「あと……どれくらい?」

 

 お母さんは、言葉を探しているみたいで、しばらく天井を見つめていた。

 

「長くて半年」

 

 世界が急に、遠くなった気がした。

 周りのもの全てが大きく、自分がちっぽけな存在になった気がする。

 

「短ければ……、その更に半分」

 

 息が出来ない。

 視界がみるみる内に、涙で歪んだ。

 

「……うそ」

 

「嘘なら良かったな」

 

 優しい声に、涙が、ぽろぽろ落ちる。

 

「……嫌だ」

 

「うん」

 

「嫌だよ」

 

「うん」

 

 お母さんは否定しない。

 ただ、あるがままを受け止めていて、それは抗うのを止めている様にも見えた。

 

「悔いが無いと言ったら、嘘になるが……」

 

 悲しげだけど優しい視線で、わたしを真っ直ぐに見つめる。

 

「概ね、満足しているよ」

 

「どうして……!」

 

「何故なら、リルは生きている」

 

 躊躇いのない、真っ直ぐな答えだった。

 

「庭と畑は、全て焼けてしまったけれど、森は無事だ」

 

 お母さんがそう言って笑ったとき、黒い痕が、かすかに脈打つのが見えた。

 

「それで十分だ」

 

 溜め息を吐くようにそう言うと、儚い笑みを浮かべた。

 胸が潰れそうになる。

 

「十分じゃない!」

 

 我慢できず、気付いた時には、もう叫んでいた。

 

「わたしは、お母さんがいないのヤだもん!」

 

 お母さんは、少しだけ困ったように笑った。

 

「欲張りだな」

 

「いいもん!」

 

 ゆっくりと手を上げ、わたしの頭に触れる。

 その手は、まだ温かい。

 

「だから、時間を使おう」

 

「……時間?」

 

「泣いているだけでは、減る一方だ」

 

 そう言うと優しいだけだった視線が、強い光を宿した。

 

「残りの時間で、私が持つ全てを渡す」

 

「全部……?」

 

「戦闘の仕方、魔力の使い方、転移陣の作り方、森の歩き方、罠の作り方、錬金術の基礎……。そういった、お母さんが知る全てさ」

 

 その覚悟に充てられて、ナナが息を呑む。

 

「勿論――」

 

 お母さんの声が、少しだけ低くなる。

 

「残り時間全てを寝ずに使っても、到底足りない。だから、あくまで教えられる範囲で……」

 

「長くて、半年……?」

 

「うん。そして、わたしが死んだ後……」

 

 そんな事を考えたくなくて、わたしは必死に頭を振る。

 

「やだ」

 

「聞きなさい」

 

 優しく、でも逃がさない声で、お母さんは語り掛ける。

 

「強くなるっていうのはね、何も勝つ事だけを指すんじゃないだ」

 

 そう言って一拍置くと、私の手を撫でながら続けた。

 

「大事なのは、生き残ることだよ」

 

 じゃあ、お母さんは……。

 もうすぐ、死んでしまうお母さんは……。

 

 涙が止まらない。

 

「わたしが残せるものは、もう多くない……」

 

 そう言って、強い視線のまま胸を指す。

 

「だけど、知識と覚悟は(のこ)してやれる」

 

 わたしは唇を噛んで、嗚咽を漏らすまいと背筋を正す。

 

 怖い……。

 とても怖い。

 怖くて怖くて仕方ないけど……でも、目を逸らしたくもなかった。

 

「……分かった。分かったよ、お母さん」

 

 必死に押し殺した声は、でもやっぱり震えていた。

 

「全部、教えてね」

 

 お母さんの目が、柔らかく細まる。

 

「うん、必ずね」

 

 窓の外では、朝の光が森を照らしていた。

 いつもなら、修練とか勉強の時間で……だか、早くお昼になって欲しかったけど。

 

 でも今だけは、時間に止まっていて欲しかった。

 ――そんな方法はないけど。

 

 わたしは、お母さんの手を握り直した。

 

 ――だから、せめて。

 

 残りの時間の全てを、無駄にしないと誓った。

 

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