呪いの痕はあれから更に広がって、首筋を完全に覆う程にまでなっていた。
それでもお母さんは、窓辺の椅子に座り、いつもの様に背筋を伸ばしている。
「普段なら実戦形式でやるところだけど、今日のところは座学にする」
「座学……、なんの?」
「本格的な魔力制御を教えよう」
わたしも対面に座って背筋を伸ばし、姿勢を整える。
いつもなら当たり前の事をしないのは、それだけ、お母さんの身体が悪いからだ。
それが分かって、悲しい気持ちになる。
「まず、勘違いしてはいけないことが、一つある」
お母さんの声は静かでも、まだまだ強い芯があった。
「強い魔力を持つ者が、強いわけじゃない」
「でも……、魔力が多い方が有利でしょ?」
「短い戦いなら、それも間違いじゃないけどね」
お母さんは、机の上に指先を置いて、円を描くように動かした。
「魔力は水と同じだ。溢れさせれば派手だけど、それではすぐに枯れてしまう」
そう言って、作った円を指で弾くと、次に左右に揺れ動く線を引く。
「だが、流れを作れば、少量でも岩を削れるものさ」
「流れ……?」
「そう。循環、と言い換えても良い」
お母さんは自分の胸に手を当てる。
「吸う。溜める。巡らせる。吐く」
呼吸と同じ調子で言う。
「魔力も同じだ」
そうして、次に目を閉じるよう促された。
「やってみなさい」
言われた通り、息を吸う。
「肺からじゃなく、お腹から。重心を意識して……、もっと深く吸う」
意識を、おへその下に落とす。
剣術の訓練をしているみたいに。
「そこに、灯りがあると思いなさい」
うっすらと、温かいものを想像する。
「そして、それが揺れないように、保つ」
集中しようとするけど、外で畑の復旧作業をしている、妖精達の声が気になった。
畑はとても大事なものだ。
お母さんだって凄く大切にしていて、妖精達に任せっきりじゃなくて、昔から自分でも手を掛けていた。
もちろん、私も手伝って――。
去年の畑作業に気を取られそうになったけど、途中でハッとして意識を戻した。
でも。どうにも上手く行かなくて、お母さんに聞いてみる。
「なんか……ダメ。揺れちゃうよ。ちょっとくらい、ダメ?」
「駄目だよ。下手をすると、暴走する恐れがあるね。魔力は感情に、引っ張られるものだから」
お母さんの声が、近くで響く。
「怒れば熱くなる。恐れれば冷える。焦れば散る」
「じゃあ、どうすれば……? なんにも考えない方がいい?」
「……でもね、感情を消すのも悪いことなんだ」
そんな事を言われたら、なんにも出来ない。
もう、八方塞がりの様に思えちゃう。
「押し殺すとね、内側で腐るものさ」
「じゃあ、どうしたら良いの?」
「まず、認める事が大事だ。怒っている、怖わかっている、焦っている、と……。それが最初の段階だ」
そう言って、少し間を置いてから続ける。
「その上で、動かすんだ」
そこでようやく、お母さんは目を開けた。
「感情は燃料で、理性が舵だ」
お母さんの目は真っ直ぐで、いつもより強い視線に気圧されそうになる。
「舵を離してはいけないよ」
わたしは一度、目を閉じて、胸の奥にある灯りを思い描いた。
――怒りもある。怖さもある。
でも、それを抱えたまま、灯りを揺らさない様に注意しながら集中する。
しばらくして――。
「……少し、静かになった」
「そう、それが“保つ”ということだ」
お母さんは満足そうに頷くと、それまであった、張り詰めた雰囲気も消える。
後には、いつもの様に優しく微笑むお母さんがいて、わたしは成功した喜びと一緒に、席を立ってその胸に飛び込んだ。
※※※
また別の日、今度は裏庭に出て、剣術の訓練が始まった。
これはいつもの事だから、変な気構えとかなかったけど、お母さんの身体は心配だった。
「改めて、戦い方を教えよう。基礎から一歩踏み出した、その先をね」
わたしは、いつもの木剣を用意して、言われる前に正眼で構えた。
「まず力比べをするのはね、やめた方が良い」
「え? でも、この前、瞬発力の強さを、教えてくれたよね?」
「あれは一つの手段であって、戦闘の前提にするものではないね。相手の力を受け止めるより、逸らした方がね、本当は良いんだ」
お母さんは弱っているはずなのに、そんな事を感じさせない足取りで木剣を構える。
「来なさい」
「でも……」
「身体の心配はいらないから、本気で来なさい。受け流しは実際難しいから、もっと後に教えるつもりだったけど……、何しろ時間がない」
その一言で、わたしは意を決して一歩踏み込む。
それと同時に木剣を振り下ろせば、カン、と乾いた音が響いた。
お母さんは、真正面から受けない。
ほんの少し角度をずらすだけで、わたしの力は横へ流される。
体勢が崩されて、まるで水を斬っている様な、奇妙な感触だけが、てのひらに残った。
「強い力は、重い。真正面からぶつかれば、消耗する」
崩れていた体勢もあって、お母さんには簡単に背後を取られてしまい、軽く背を叩かれて転んだ。
「だが、流せば相手が崩れる」
もう一度向き直って、今度は慎重に角度を真似る。
木剣が触れ合う瞬間、力を抜き、流してみると――。
さっきより軽い音が、木剣から響いた。
「そうだ、それで良い」
お母さんに褒められると、凄く嬉しい。
何だか自分が認められた気がして、頬が自然と熱くなってしまう。
「戦いは削り合いだ」
お母さんの動きは、どこまでも最小限で、どこまでも無駄がなかった。
「生き残るための選択を、誤らない方が勝つ。次からは、それを意識しなさい」
やがて――。
訓練が終わると、お母さんは椅子に戻った。
ただし、その息は荒く、たったあれだけの運動で、体力を使い果たしてしまったみたいだった。
首筋から覗く黒い痕が、わずかに脈打ったかの様にも見える。
「お母さん……、無理しないで」
「勿論だ。無理はしてないよ」
そう言って、少しだけ笑う。
「……でも、残すための時間は限られているからね」
嫌だ、ってまた叫び出す所だった。
でも、そんな事をしても、お母さんを困らせるだけだから……。
だから、木剣を握ったまま立ち尽くすしかなかった。
「リルに、“覚悟”も教えると言ったろう。今がその時かもね」
「覚悟……?」
「守ると決めても、助けると誓っても、救えない命はある」
お母さんから、そんな言葉は聞きたくない。
お母さんなら、きっとどんな事だって出来るし、助けられるのに……。
街のスラムで、苦しむ人達を助けたみたいに。
獣人国の小さな村で、薬草を煎じて救ったみたいに。
怖い兵士に立ち向かって、将軍さんの娘を助けたみたいに。
――胸が痛い。
お母さんは色んなヒトを助けた。
たくさん、たくさん助けたのに、お母さんは……、自分だけは助けられないんだ。
「全ては救えない」
まるで、心の中を読んだかの様な、静かな言葉だった。
「選びなさい」
「……ムリだよ」
「何を守るか、決めるんだ。守るものが定まれば、覚悟はぶれない」
息を吸って、細く吐いた。
何かを思い描こうとしたけど、それは形にならず消えてしまった。
「わたしは……」
まだ、言葉にもならない。
でも、胸の奥に何か――曖昧だけど、何かがあってモヤモヤする。
お母さんは、それを見抜いたように頷く。
「急がなくて良い」
そうして、少し遠くにある森を見ながら言った。
「覚悟は、追い詰められて決めるものじゃないからね」
黒い痕が、静かに広がっている。
「静かに、次第に、積もるものなんだ」
わたしは、自分の小さい――これまでは大して感じてなかった、小さな拳を握り直した。
――本当に、なんて小さく、役立たずな手だろう。
残り時間は、長くない。
だからせめて、一つ一つを刻みこむ。
魔力の流し方も。
力の逸らし方も。
そして――。
守ると決める、その覚悟も。