そうして、更に数週間が経つと――。
お母さんは調子を悪くして、長く立っていられなくなった。
それでも、庭の大樹の下ぐらいまでなら歩けるから、手を取って一緒に歩く。
そうして切り株に腰を下ろすと、わたしを真正面に立たせた。
「今日は……、また少し、専門的な戦い方を教えよう」
その声は以前より弱々しかったけど、でも、まだ芯は揺らいでいなかった。
「まず、覚えておきなさい。戦闘は技でするんじゃない」
「え? 使っちゃいけないの?」
「そうではないよ。勿論、使っていい。そうではなく、大事なのは、選択の方だ」
お母さんは地面に枝で円を描いた。
「ここが自分」
それから円の外に、いくつも点を打つ。
「敵、地形、風向き、足場、逃げ道。見るべきものは沢山あり、そして全部を同時に見なくてはならない」
「そんなの、無理だよ」
「無理じゃない。順番に見よう」
枝の先が、円の縁を軽く叩く。
「一つ目。距離を測る」
立ち上がれない代わりに、視線だけでわたしを測る。
「今の距離なら、わたしの一歩で届く。リルは?」
わたしは一歩踏み出し、少し足りなくてもう一歩加える。
「……二歩」
「そら」
その瞬間、足元の影が揺れた。
ハッとして後ろへ跳ぶ。
さっきまで立っていた場所に、お母さんの投げた小石が過ぎ去っていった。
「見えていなかったね」
咎めるような声だったけど、でも、なじるものではなかった。
「でも、躱せた。それは偉いぞ。目で測るんじゃなく、肌で測れている証拠だ。……リルの場合、勘が良いせいもあるのかな」
その視線がくすぐったくて、わたしは目を閉じる。
そして――。
風の向き。
草の擦れる音。
妖精の羽音。
アロガの呼吸。
「……右後ろ!」
振り向きざまに手を伸ばし、今度は小石を掴めた。
石を投げたナナが、小さく笑う。
「悪くないわね」
「うん、悪くない」
お母さんが同意して、静かに頷いた。
「二つ目。魔力は常に一定数、溜めておくこと。でも、溜めすぎてもいけない」
「え……、そうなの?」
「溜めれば溜めるほど、動きが鈍る」
そう言って、お母さんはわたしの胸を指した。
「魔力は水だと教えたね。だから、イメージとしては、溜め池ではなく、むしろ川だと覚えなさい」
「あ、だから循環なんだ。流す方がいいの? ずっと……?」
「そう、呼吸と一緒に巡らせるぐらい、自然に出来るくらいが望ましい」
「それって……、ムズカシイよ……。動いていると、もっとやり辛いもん」
「ナナは手助けしないように」
わたしの後ろで浮かぶナナに注意してから、お母さんはゆっくり息を吸う。
そうすると、空気が僅かに震えた。
吐くと同時に、庭の落ち葉がふわりと浮く。
派手な光も、音もない。
けれど、確かに空気が動いていた。
「お母さん、今のなに?」
「ちょっとした応用をね。理屈は単純……魔力で膜を張り、押しただけだ」
以前のお母さんなら、もっと簡単に出来たんだと思う。
でも今は、たったそれだけの事で、額に汗が浮かんでいた。
本当は凄く難しい事をしてたのかと思ったけど、きっと違う。
多分、それだけ――たったそれだけの事が、今のお母さんには辛い事なんだ。
それでも、休もうとせず、そのまま続けてくれる。
「力を“使う”というより、自然を介して“通す”イメージ」
わたしも真似して……吸って、吐く。
胸の奥が、何となくじんわり温かくなった気がする。
そしてそこから、無理に引き出そうとすると、何だかざらつく感じがした。
「リル、焦ってはいけない。出そうとするより、そこにあるものを、整えるイメージで」
もう一度、吸って吐く。
今度は、足元の草がわずかに揺れた。
――自分の力で動いた!
驚いて息が乱れると、すぐ止まってしまった。
「でも、出来た……!」
「そう、その感じだ。リルはやっぱり、センスが良い」
お母さんの目が細まり、わたしと同じくらい――それは大袈裟だけど、一緒に喜んでくれる。
それが嬉しくて、わたしも身振りを大きくして両手を挙げた。
「戦闘中、どうしても魔力は乱れるものだ」
でも、すぐにお母さんの目付きは真剣になったので、わたしは両手をすぐに下げた。
「感情を消すのは難しい。だから、一番気を付けるのはね、感情に飲まれてしまう事だ」
その言葉にはしっかり頷いたけど、それよりどうしても気になってしまうのは、チラチラと目に入る黒い痕の方だ。
今も首元で、微かに脈打っているのが見えた。
「そして、最後……」
今度の声は少し掠れていた。
「無理に勝とうとしなくて良い」
「え?」
「生き残るのが、一番大事な事だ。戦闘技術とはつまり、最終的には
口から出る言葉は辛そうだけど、でも何より重い言葉だった。
「敵を倒すことより、自分の無事を優先しなさい」
そう言って締めると、枝で描いた円を足で消す。
「倒れたらお終いだ」
少しの沈黙が流れて、そこに風が吹き抜ける。
それでふと、思い付いたことを尋ねてみた。
「でも、わたしにはナナが居るよね?」
「それは本当に、最悪を想定した場合だ。ナナはきっと、いつだって助けてくれるし、気絶した場合でもリルを守ってくれるだろうが、それを頼みにしてはいけない」
「でも……もし、敵が強かったら?」
「逃げなさい」
即答だった。
「何より大事にするのは命だ。それで誇りが損なわれようと、生きていれば挽回の機会もある」
「でも」
「――でも、じゃない」
強い声に気圧されて、思わず口を噤んだ。
こんなに厳しく言い含められるのは、本当に珍しい事だった。
本当に――。
本当に戒めないと、いけない事なんだ。
「最後に……」
お母さんは強い視線のまま、わたしを真っ直ぐに見つめた。
「自分の限界を知りなさい」
「限界……」
「まだ行ける、と思っても、もう駄目だ、のサインだと思いなさい。ただし……、そうだね。無理をするべき場面――逃げられない場合、と言うのも、確かにある……」
その言葉に、空気が冷える。
「そして大抵の場合、そういう時には代償が伴うのさ……」
それはきっと、今のお母さんのことを言っているんだと思う。
お母さんは、沢山の敵から逃げなかった。
実際、負けはしなかったけど――。
わたしは唇を噛む。
「リルは同じ過ちをするんじゃないぞ」
立ち上がろうとして、足元がふらつくのが見えて、わたしは慌てて立ち上がって支えた。
「まだ、終わりじゃない」
そう言って、息を整えながら言う。
「今度は、実戦だ」
「実戦? ……今から?」
「お母さんと、組み手をするんだ」
信じられないことを聞いた気がして、思わず目を丸くする。
すぐ隣から、透けるように顔を出したナナも、やっぱり同じ反応だった。
「無理だよっ! お母さん、立ってるこども出来ないのに!」
「無理じゃない。お母さんにも……そしてリルにも、甘やかす時間はないんだから」
――怖い。
それでお母さんを傷付けて、それでもしも、もっと悪くなったら……。
想像すると、手が震える。
でも、お母さんの瞳はどこまでも真剣だった。
「……うん」
その想いに応えなきゃいけない。
はっきり頷くとお母さんは、満足そうに目を細めた。
「それでいい……」
風が吹く。
黒い痕は消えてくれない。
風がどこまでも吹き飛ばしてくれたらいいのに。
でも、お母さんの視線はとても強くて、想いが沢山乗っていた。
知識と覚悟――。
それが、今も渡されている。
残された時間を、少しずつ削りながら……。