それから数週間、お母さんから受ける教えは、一日も欠けることなく続いた。
立って歩ける日は庭で行われ、立てない日は、椅子に座って……。
それも無理な日は、ベッドの上から教えてくれた。
「流れを止めるな」「視線で相手の呼吸を読め」「迷ったら退け。退くのも戦いだ」
声は少しずつ弱くなっていったけれど、その芯は変わらず鋭いままだった。
わたしは毎日、森を走り、戻ってきては報告する。
魔力の循環。
感情の制御。
力の逸らし方。
出来たことも、出来なかったことも、全部話した。
お母さんはそんな時、目を閉じて聞いていることが増えた。
「……それでいい」
短い言葉の評価だったけど、満足しているのは伝わってきた。
だから、それだけで胸が温かくなる。
けれど――。
黒い痕は、止まらなかった。
首元から耳の付け根へ。
指も爪先を残して、殆ど黒く染まってしまった。
薄い墨を水に垂らしたみたいに、じわじわと広がっていく。
最初は服とかで隠せていたのに、今ではもう、隠すとかじゃない。
どんどん悪くなるのは止まらなくて、立ち上がる回数も、それに合わせて減っていった。
庭に出る日は、三日に一度になり……。
やがて、五日に一度に。
そして――とうとう、なくなった。
「今日は、ここでやろう」
そう言って、枕を少し高くする。
息が、前より少し浅い。
「無理しないで、お母さん……」
「大丈夫、無理はしていないよ」
その言葉も、もう何度目か分からない。
でも、わたしは信じることにした。
信じていないと、泣いてしまうから。
お母さんが本当に大事な事を、伝えようとしているのか分かるから。
だから、私はお母さんを信じる。
大丈夫って言葉を信じる。
※※※
ある日の午後。
窓の外が、いつもより明るかった。
羽音が重なり、きらきらとした光が差し込んだ。
ここの所、よく来る妖精達がそばに寄った時の合図だった。
「……遊んでいる方が好きな癖に、随分と律儀だな」
お母さんが目を細めて、呟く様に言うと、窓辺に小さな影がいくつも舞い降りた。
今日は珍しく、それ以外にも精霊を伴っている。
姿形が定まらない小精霊の方で、今のところ、ナナみたいな人型の精霊は、姿を見せていなかった。
「やぁ、魔女。元気そうで安心したよ。何だか、今にも走り出しそうじゃないか?」
「病人っぽくないもんね」
「実際、病人ではないからな」
お母さんが苦笑すると、妖精達からも笑いが起きた。
そのどれもが気遣うもので、本音でないのは簡単に分かる。
空元気でいれば、本当に元気になるんだと、思っているのかもしれない。
その気持ちは分かる。
――わたしも同じだから。
「畑の方は順調さ。今年の収穫は絶望的だけど、あんな事があった後だ。来年以降に期待だな」
「精霊と妖精が本気を出したんだぜ。果樹の方は、もうちっと時間かかるけど……。でも、良いよな? 二、三年くらい待てるだろ?」
「あぁ……」
無理な要求だって、本当は妖精も気付いてる。
でも、お母さんが否定しないものだから、妖精の方も調子に乗り始めた。
「だよな! 酒も造ろうぜ! 更に二、三年、時間が増えるけど……でも、平気だろ? 酒を飲める喜びは、何物にも勝るんだろ?」
「酒は百薬の長、って人間は言うらしいよ」
「大体さ、千年生きた魔女なんだ。そんなの誤差だって!」
きゃいきゃいと妖精達は騒いで、ひとしきり喜びを分かち合うと、また窓から外へと飛び出て行った。
お見舞いのつもりかもしれないけど、好きなように好きなだけ喋って、満足したら帰っていく。
それがいつものパターンだったのに、でも、今日は少し違った。
一体だけ残っていて、腕組みした姿でお母さんの前に浮かんでいる。
妖精達の見分けは凄い難しいけど、あの妖精のことは知っていた。
物腰が柔らかで、他と違って騒がないから。
「やぁ……。結局、いつだか言った通りになったね」
「そうだな……」
「何の話?」
わたしが尋ねると、二人は視線を合わせてから、首を横に振った。
「リルが気にする事じゃない」
「いや、何……。魔女はいずれ、リルを守って敗れる、という話をした事があるのさ」
「お母さんは負けてない……」
「そうだな、痛み分けだ。でも、魔女を失った森はさ、いずれ敵の侵入を許すぜ」
「また、来るの? あれが……?」
多くの兵を引き連れて……?
森を――畑を焼きにやってくる……?
それは考えるほどに、恐ろしい事だ。
わたしがぶるり、と尻尾を震わせると、お母さんから違うよ、と声を掛けられた。
「違う、そうはならない。敵戦力は、ほぼ全滅に近い被害だったし、これを立て直すには時間が掛かる。そしてね、そうこうしている内に、森は閉じてしまうからさ」
「閉じる……? わたし、森から出られなくなるの?」
街にも行けず……ミーナちゃんや、モンティに会えなくなるのは、すごく寂しい。
「いいや、リルは関係ない。敵意を持つ輩がね、ここまで来られなくなる、という意味さ。だから、もう二度と、あんな恐ろしい事は起きないよ」
「そうなんだ……!」
わたしは肩から力を抜いて、ホッと息を吐いた。
あんなの、もう二度とゴメンだ。
「ともあれ、だ……」
妖精は肩を竦めて仕切り直すと、お母さんの方へするりと近付いた。
「ここから
空気が固まった気がした。
大丈夫、と言い聞かせていたのは、わたしも同じだし、きっと良くなる……その筈だった。
「お母さんは……、お母さんは、我慢比べの最中なんだよ。悪魔が音を上げれば、お母さんは助かるんだ……!」
「そうらしいね。だから、妖精は誰もがそうなるべき、と思っているよ。でも現実には……」
「やめてよ……」
目の奥がカッと熱くなって、身体が震える。
尻尾に力が入って、その毛が逆立つのが分かった。
「……悪かった」
妖精は素直に詫びて、頭を下げる。
「リルの前で言う事じゃなかったよ」
「お母さんの前でも、だよ……」
「あぁ、そうだね」
妖精はどこまでも素直で、今度は頭をしっかり下げる。
それからお母さんに向き直って、世間話をする様な気楽さで話を続けた。
「妖精王様がさ、見舞いに来たいって話も出てるけど、どうする?」
「遠慮しておこう。気を遣われるのは、余り嬉しくないし……。それにきっと、そっちの方が決意が鈍らないと思うから」
「そうか……」
「何のこと?」
わたしが聞いても、お母さんは優しく微笑むだけだ。
こうなったら、きっと何も話してくれない。
仕方なく諦めて、唸り声を上げていると、別の妖精が複数やって来て、枕元に降り立った。
小さな手で、お母さんの指に触れる。
淡い光が、じんわりと広がっているけど、治しているわけじゃない。
それが何となく分かる。
これは慰めで、そしてきっと感謝も含まれてる。
別れの準備みたいで、胸が痛い。
「やめてよ……」
思わず声が出て、妖精たちが一斉にこちらを見た。
「まだ、終わらない。お母さんは、良くなるんだから……!」
自分に言い聞かせるみたいになってしまい、その気配に充てられて、その身体が少し揺れた。
でも、去ろうとはしない。
一緒に来ていた小精霊が、複数近付いて、妖精と一緒に寄り添う。
きっと、お母さんの事が好きだから。
わたしと同じだから……。
見つめていると、小精霊の一体が、わたしの肩に止まった。
……温かい。
でも、その温かさが、涙を誘う。
「……リル」
お母さんの声に、無理にでも笑って見せた。
――泣かない。
泣くのは、あとでいい。
黒い痕は今も確実に広がっていて、お母さんの身体は、確実に弱っている。
でも、この部屋は温かかった。
見舞いに来た妖精たちが、枕元で何かを囁き、小精霊が優しい風をそっと揺らす。
森は、生きている。
これからも生きる。
震えは止まらないけど、逃げない。
――お母さんは、きっと良くなるから。
良くなる筈だから。