妖精たちが帰ったあとの部屋は、妙に静かだった。
さっきまであんなに賑やかだったのに、小さな羽音も、光の粒も、今はもうない。
代わりに残ったのは、薬草の匂いと、何かの気配。
わたしは、その気配が最初、悪いものかどうかすら分からなかった。
でもそれは、三年前――呪いを受けたという日から、ずっと一緒にあるものだ。
だったら、それが何なのかなんて、考えるまでもない。
きっと――。
きっとそれが、呪いから発せられるものだったのだろう。
お母さんなら――お母さんだから、それが何であれ大丈夫だ、と思い込んでいた。
ちっともそんな事はなかったのだと、今更ながら痛感していた。
それから、さらに数週間が経って――。
お母さんはもう、殆ど起き上がれなくなっていた。
最初は椅子に座るのも辛そうで、次は歩くのが難しくなり……。
そして今は、身体を横に倒すのさえ、億劫そうにする。
黒い痕は、首から顔の半分まで伸び、片目の色が変わるまで侵食している。
少しずつ……でも、確実に広がっていく姿は、見る度に胸が痛む。
「……リル」
ある日の夕方。
お母さんは、いつになく真面目な声で呼んだ。
「書き取り用の、帳面を持って来なさい」
「帳面……? どうして?」
「書き留めておく為に。もう、全ては教えらないから。だから、せめて……」
喉が、ひゅっと鳴る。
“全ては教えられない”……。
その言葉の意味を、嫌でも理解してしまう。
――嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ……!
でも、どんなに嫌がっても、呪いは止まってなんかくれない。
お母さんはそれ以上何も言わなかったけど、その視線を強くなった。
わたしは涙が溢れそうになるのを堪えて、その視線に押されるみたいに部屋を出る。
そうして急いで、古い革表紙の帳面を持ってくると、また椅子に座り直した。
ペンを握る手が震える。
「こうした事を話せる機会は、もうそんなに多くないだろう……」
お母さんは天井を見たまま話す。
「まずは戦い方の基本だ。リルに教えた戦い方は、力任せとは違う」
呪いが顔まで広がってから、お母さんは訓練に出られなくなった。
でも、その戦術と理論は、わたしの中に積み上がっている。
「まず、相手の“流れ”を読むこと。魔力の癖、呼吸、視線……。人も魔物も、必ずそうした予兆がある」
「……予兆」
「それを拾う。そうすればね、力をぶつける前に、勝敗を測れるものさ」
普段なら、転がされながら聞く言葉だ。
そして一度どころか、何度も転がされ、それを身体で覚えていったんだと思う。
でも、今は書き留めるしかない。
いつもと違うやり方がとても嫌で、何よりそうするしかないのが悲しかった。
でも、今は――。
決して、漏らさない様に。
ぜったい、聞き逃しちゃいけないんだ。
その気持ちで、お母さんを見つめる
「リル……お前は優しい。だから、差し出せられるものがあれば、全部を差し出そうとする」
そうかな、と思う。
でも、お母さんがそう言うなら、きっとそうなんだろう。
「それは戦闘においても同じで、力を全て燃やせば、その先がない」
静かな言葉が、重く落ちる。
「力とは、未来を切り分ける刃だ。一瞬を勝つために、明日を捨てないように。それを良く、心に留めておきなさい」
帳面に書く手が止まる。
涙で、文字が滲んでしまった。
「“勝つ”よりも、“続ける”ことの方が難しい」
その言葉は、呪いを三年抱えながら生きてきた人の重みのように思えた。
「……うん」
「最後まで立っている者が、勝者だ。倒れぬための、力の使い方を学びなさい」
黒い痕が広がっていく身体で、それでも……。
お母さんは、まだ負けてない。
気持ちの上では今も戦い続けていて、我慢比べに勝とうとしているのだ。
その姿が、きっと何よりの証明だった。
「精霊に頼るな、とは言わないよ。ナナはリルを裏切らない、絶対的な味方だ」
ナナはわたしの横に現れて、肩を抱きながら頷いた。
わたしも、そのナナに頷き返す。
「だが、依存するのはいけない。助けてくれはしても、代わりに生きてはくれないから」
また一つ、涙が落ちた。
ペン先が……、滲む。
「最後には、しっかりと自分の足で立っていなければいけないよ」
お母さんの姿は前と変わらず、綺麗なままだけど……。
最近は、なんだかずっと老けた様な気がした。
だけど、そう言い切った声は、弱っているのに揺らぎない。
――まだ、大丈夫。
お母さんは負けてない。
負けるつもりはないんだと、改めて思って泣き顔のまま、お母さんの胸に顔を埋めた。
その日の夜――。
精霊が一体、お母さんの枕元に現れた。
小精霊ではない、しっかりと個を確立した精霊だ。
中位精霊かと思ってよく見てみると、直後に違うと分かった。
ナナが緊張で身体を硬くしたのを、肌で感じたからだし、着ている物も立派に見える。
それに、その顔には覚えがあって、いつだったか、一度だけ会ったことがある――。
お母さんと一緒に、綺麗に着飾って迎えた。
多分……、精霊王その人じゃないか、とそう思った。
その精霊王が、何を言うでもなく、静かにお母さんを見つめている。
まるで、見守るというより――。
見届けるような、そんな不思議な視線を向けていた。
「……連れて行かないで」
思わず、わたしは呟いていた。
でも、精霊王は視線一つ向けず、声すら発さない。
ただ揺れる様に留まって、お母さんを見つめるだけ……。
その時ふと、苦しげに呻いていたお母さんが目を開けた。
「誰かと思えば……。いつから、ここに?」
答えないので、代わりにわたしが答える。
「……ついさっきだよ」
「そうか……」
弱く、でも確かに笑う。
「わたしの命が危ういからと、いよいよ様子見に来たのかな」
ずん、と身体が重くなった。
まるで胸に、重い石が落ちたみたいだった。
「リル」
「はい」
「覚悟とは、悲しみを消すことじゃない。悲しみを抱えたまま、それでも立つことだ」
わたしは、泣くまいとして唇を噛む。
今日はもう、散々泣いた。
本当はゆっくりと、寝かせさせてあげなきゃいけないのに、長い時間、頭を撫でて慰めて貰った。
ナナにも、それじゃダメよ、って言われたけど……。
でも、涙はどうしても止まらなかった。
今も止められない。
「いいかい、リル」
余り調子が良くないのか、お母さんの声は擦れていた。
「わたしはもう、死ぬ」
世界が止まったかの様に、一切の音がなくなった。
痛いほど静な中、キーンと、耳鳴りだけが響いていた。
「だが、呪いに負けたわけではないよ」
弱い声音だったけど。静かに断言した。
「奴は封じた。森も守れた。何より大事な、リルは無傷だ……。奴としては、私に絶望を叩きつけたい所だろう。でもそれを凌いだのだから、敗北とは違う」
そう言ってから、自嘲気味に笑った。
「強がりかな? ……それでも、いいさ。私の気持ちが、何より大事だ」
目が熱い。
呼吸が、うまく出来ない。
「リルは、生きなさい」
指先が、わたしの手を探す。
咄嗟に握り返したけど、その握る力は、もう全然強くなかった。
「無事に大きくなって、成長しなさい。わたしを理由に、止まる事のないように……」
妖精の小さな光が、ひとつ戻って来て、そっと、わたしたちの間に浮かぶ。
まるで、証人みたいに。
わたしは、泣きながら頷く。
泣きながら、震える声で返事をした。
「……はい」
怖い。
嫌だ。
いなくならないでほしい。
叫んで、泣いて、暴れたかった。
――でも。
でも、そんな事をしても困らせるだけで、何も変わらないと分かってる。
お母さんの死の気配は、遠退いたりしないし、近くなるだけだ。
「リル、今から言う事を、しっかり聞きなさい」
わたしは乱暴に涙を拭って、それから頷く。
本当は聞きたくない。
全てを聞き終えたら、それでお母さんはいなくなってしまう気がした。
だから、耳を塞いでしまいたい。
でも、それは出来ない。
ここで逃げ出したら、お母さんの言葉を聞けないだけじゃなくて、きっと
――それだけはイヤだ。
だからわたしは、込み上げる涙をまた拭って、お母さんの言葉をただ待った。