窓の外の森は、やけに静かで、風もほとんど吹かず、虫の音も鳴らなかった。
家の中に満ちる気配が、ひどく薄く、透明になっている様に思える。
お母さんは、それからしばらく話さなかった。
黒い痕は今もじくじくと、皮膚の下でインクが滲むみたいに脈打っている。
呼吸は浅く、ひとつひとつが遠い。
それでも、その瞳だけは、まだ強かった。
「……リル」
ようやく呼ばれて、わたしはすぐ傍に膝をついた。
「うん。ここにいる」
「これから言う事をよく聞き、約束しなさい」
何を、と訊き返したかったけど、それより前に、ナナに肩を掴まれた。
振り返ると真剣な眼差しが帰って来て、それで、とりあえず頷く。
「誰も恨んではいけない。何より、自分を恨んではいけないよ」
「なんで? お母さんを、そんなにしたヤツらを恨んじゃいけないの?」
「あぁ……」
「いつも付けてたペンダントは? 剣も……、剣だって……。あいつが盗ってったの見たよ。それでも? それでも許さないといけないの?」
「あぁ……、それでも」
「取り返さないでいいの? ――取られちゃったんだよ。取り返さないと……」
「あれは然るべき時に、然るべく者の手に渡るように出来ている。リルが気にする必要はない」
そうなのかな、と疑問に思う。
危険から遠ざけたくてそう言っているだけにしか思えなかったけど……でも、お母さんに焦点の合ってない瞳で見つめられると、頷くしかなくなる。
「……はい」
仕方なく、そう返事をすると、お母さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
安堵した空気が流れたその時、部屋の隅の空気が揺れた。
何かと思って振り返ると、そこにはいつの間にか、シルケが立っている。
普段はもっと軽やかで、ちょっと悪戯っぽくて、そして楽しそうに食事を準備したりするのに……。
でも今は、まるで影のように静かに立っているだけだった。
きっと、シルケにも分かるんだ。
家主の灯が、消えかけていることを――。
「……シルケ」
お母さんが呼ぶと、シルケは震えながら前に出た。
声を出せないシルケだけど、口はしっかりと動いていて、主人に対する返答をしている。
「今日から……、この家の主は……リルだ」
その言葉が、胸を刺す。
「……っ」
「よく仕えてやってくれ。私以上に不器用で……、私以上に優しい子だ」
シルケは、声にならない声を上げた。
「……っ、……っ!」
涙を零しながら、ベッドの端へと身を寄せる。
そうして手を伸ばし、お母さんの手を握る“真似”をした。
触れられないけど……でも必死に、そこにある温もりを確かめようとしている。
――必ず……お仕えします……!
音には聞こえなかったけど、口元は確かに、そう告げていた。
その姿に、お母さんは満足そうに目を細め……それから、ナナの方を見た。
「グラシキナナ殿……」
それはナナの真名――契約者以外が呼ぶと嫌がるという、ナナの本当の名前だった。
「リルを頼みます」
「何よ……、何なのよ……!」
お母さんは多分、敬意を込めたつもりで名を呼んで、丁寧な頼み方をしたのだと思う。
でも、ナナは逆に気分を悪くしたみたいだった。
「あたし――あたしだって、家族でしょう!? そんな他人行儀みたいな呼び方、止めて頂戴よっ!」
「あぁ……、そうだった。ごめんな、ナナ……」
お母さんは素直に詫びて、それから言い直す。
「ナナ。お姉ちゃんとして、リルを良く見てやっておくれ」
「うん……。大丈夫よ、安心して。最初からそう言えば良いのよ」
お母さんは困ったように笑い――笑おうとして、顔を歪める。
多分、痛みを我慢しているせいだろう。
そうして薄い呼吸を繰り返して、表情が和らいだところで、わたしに顔を向けられた。
「リル」
声は弱いのに、重みだけは変わらない。
一直線に射抜くような視線は、母というより、むしろ師のものだ。
だからわたしも、背筋を伸ばして話を聞く。
「良くお聞き……。力を振るうことは、時として必要な事だ。でも、憎しみによって使わない、と誓いなさい」
喉が詰まる。
声が震えて、返事が出来ない。
でも、お母さんが最期に伝えようとする言葉だから、わたしも必死になって声を出す。
「……っ、は、ぃ……!」
「守りたいと思う気持ちを、最後まで手放さないと、律しなさい」
「は、い……」
「孤独にならず、一人で背負わないこと。……リルは独りではないのだと知りなさい」
「……はぃ」
ナナも、アロガも、シルケも……。
森には、妖精も、精霊も居る。
――本当にそうだ。
皆、大事な仲間で、家族だった。
「泣いていいし、迷っていい。でも、止まらないこと。休んで立ち止まっても、再び歩ける強さを身に付けなさい」
「はい……っ」
嗚咽を抑え切れなくて、ちゃんと返事が出来ない。
目と鼻の奥が熱くなって、涙が溢れてきた。
「ナナの事を信頼し、その言葉をきちんと受け止めなさい。決して、蔑ろにしない様にしなさい」
「はい……っ!」
「それと……」
一度言葉を止め、浅く呼吸を繰り返す。
今のお母さんは、たったこれだけの事が、呼吸を整えずに出来ない。
「私はね……、リルの本当のお母さんじゃない」
「知ってる……! 知ってるよ、そんなこと……!」
「うん、でも……ちゃんと言ったことがなかった。怒られるのが怖くて……、拒絶されるのが怖くて……」
「しないよっ! わたしのお母さんは、お母さんだけだよ。そんなの……、そんなのずっと、当たり前だよ……っ!」
涙がボロボロと零れる。
産んでくれたお母さんの事は、ちっとも知らないけど……。
でもだからって――本当のお母さんじゃなくたって、わたしのお母さんは、一人しかいない。
いつだって、優しく包んでくれて、惜しみなく愛してくれた。
「わたしは、お母さんが大好き。誰よりも大好きだよ。だからね、お母さん……っ!」
「私は……」
お母さんの手にしがみ付いて、だから逝かないで、と叫ぶ。
けど、慰める様に指の腹で撫でるだけで、願いを聞き届けてくれなかった。
むしろ、無視する様に、話を続ける。
「私は、一つの予言を受けていた」
「……え?」
「子を設けると、それが原因で死ぬだろう、と……。だから、家庭を持つのは無理だ、と諦めていた……」
呆然としている間にも、お母さんの話は続く。
その手を握る力が、更に弱った。
「でも、ニコから子を預かる時になって、これはチャンスなんじゃないか、と思った。家庭を持たず、でも子どもが持てると……」
「……お母さん」
「だけど、そのせいで死ぬ、と言いたいんじゃないんだ」
そう言うと、定まらない視線を合わせたまま、柔らかく微笑んだ。
それは後悔とは無縁の、澄み切った笑顔だった。
「この十年程度の時間は、それまでの空虚な数百年より、ずっと幸せな時間だった」
そう言うと、肩の方から力が抜けた。
まるで、もう悔いはない、最後の
「ありがとう、リル。私を……リルのお母さんにしてくれて……。ありがとう、リル」
「うぅ……っ、うぁ……!」
涙が止まらない。
少しでも、お母さんの温もりを感じたくて、その手を自分の頬に当てた。
「最後に、ひとつだけ」
お母さんは、わずかに視線を天井へ向けた。
「このまま死ねば、わたしの身体は、呪いに喰われて異形と成り果てるだろう」
「……っ!」
フェリカの村を襲い、多くのヒトを殺し、触れるもの全てを腐らせた怪物。
そんなのになってしまったら……。
放っておいたら大惨事になると分かっていても、わたしには絶対、倒せない。
「だから、異形になり果てる前に、終わらせる」
「そんなの……!」
「心配するな。準備はしてある」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
お母さんの身体から、淡い光が滲み出す。
黒い痕が、逆に光に包まれていく。
「わたしの身体そのものを触媒に、術を発動させる」
窓の外、森の奥まで、見えない波が広がっていくのが分かった。
地面に描かれた古い紋様が、順に輝き始める。
家の柱、梁、床板、石垣――それら全てが呼応して、何かを成そうとしていた。
「これは守護の結界だ」
光が家を包み、森へと伸びていく。
「外敵は拒む。だが、味方と認めた者は迎え入れる結界さ」
お母さんが言葉を口にする度、まるで呼吸のように、結界が脈打つ。
それまで黙って控えていた精霊王が、お母さんから立ち昇るマナを掴み、何かをしているのが分かった。
きっとお母さんの言っていた“準備”は、精霊王の力を借りる所まで含まれているんだろう。
「これで……マナ溜まりは、この森は……守られる」
それに頷いて応えた精霊王から、巨大な気配が立ち上った。
そこから……深い、深い感謝の波が流れ込む。
「――この恩、必ずや娘に返そう」
空気が震え、気付けば窓の外には、大小様々な精霊が揃っていた。
妖精達もそれに混じり、今回だけは真面目に感謝の視線を向けている。
お母さんは、微かに笑う。
「……なら、安心だ」
光が更に強まると、身体の輪郭が、少しずつ透けていく。
「リル」
「なに……?」
唇が微かに動いて、懇願する様に言った。
「キスしておくれ……」
涙が溢れる。
もうさっきから、ずっと出しっ放しなのに、涙が涸れる気配がない。
わたしは身を乗り出し、お母さんがいつもしてくれたみたいに――。
そっと、おでこに口づけた。
その瞬間――。
温かなものが、わたしの身体を流れた。
血とは違う、光の流れ。
優しくて、懐かしくて、安心するもの。
「……愛しているよ、リル」
声が、空気に溶ける。
「いつも見守っている。いつも……」
最期の言葉が、風のように消えた。
そうして――。
お母さんの身体は、細かな光の粒子となって、ふわりと浮かび上がる。
窓から差し込む、朝の光の様な安心する温かさを出しながら……。
でも、触れようと伸ばした手は、空を切つた。
その瞬間、光が弾けて、後にはもう何も残らない。
遺体も。
影も。
墓に納める骨さえも――。
ただ、温もりだけが、まだベッドに残っていた。
「……お母さん……っ! うぅ、うぅぅ……っ!」
声が、崩れた。
嗚咽を抑えられない。
ベッドに突っ伏し、顔を押しつける。
涙が布を濡らし、鼻に匂いを嗅いだ。
まだ、ここにいるみたいに。
「うぁぁん……っ! ……いやぁぁぁ……っ! おかぁさぁぁん……!」
声を上げながら、わたしは泣いた。
アロガは隣で慰めようと、涙を舐め取ろうとしている。
ナナは気遣わしげに肩を撫でていたけれど、声を掛けたりしてこなかった。
その時、家の外で結界が静かに脈打った。
森は守られている。
マナ溜まりは、息づいている。
そしてわたしの胸の奥には、確かに、あの温かな流れが残っていた。
お母さんは、消えてしまった。
でも――。
本当にいなくなったとは思えない。
今もすぐ近くにいる感覚があって、だからわたしも壊れず、かろうじて今を繋ぎ止めていた。
お母さんは、満足そうに目を閉じていた。
満足して逝ったんだ。
――それでいい。
お母さんなら、きっとそう言ったと思う。
部屋は静かだった。
涙が止まらない。
でも――。
その横で、わたしは帳面を握る。
涙で滲んだ文字を、目でなぞった。
お母さんが遺した、最後の――。
更に涙が溢れそうになった時、ナナが控え目に声を掛けて来た。
「今日もらった言葉は、きっと遺言のつもりじゃなったと思うわ」
「どう、ちがうの……」
もう会えない時、森に帰る時に遺すのが、遺言ってやつだと思ってた。
「あれはきっと、継承のつもりで言った事だったのよ。傍に居られなくても、リルにとって必要なことを託したの。きっと、そうだと思うわ」
そうなのかな。
頭の中はぐちゃぐちゃで、上手く考えられない。
「あの言葉は、指針よ。あの言葉通りに、全てを為せるかは分からない。でもね、お母さんが終わりへ向かう中で、リルは始まりとなる言葉を受け取ったの」
ナナの言う事は難しい。
今日は特にそうだ。
アロガの首に抱き着いて、涙を押し殺そうとしたけれど、全く無駄だった。
温もりは優しいし、慰めようとしてくれるけど、今はアロガの慰めさえ、虚しいだけだった。
「難しく考える必要はないわ。今日はたっぷり泣きなさい。そしてまた、あの人に恥じない生き方をするの。あたしも精一杯、助けるから」
うん、と言う言葉さえ、今は出せなかった。
アロガの毛皮に埋まって、ただ泣き声を上げる。
妖精も、精霊も――そしてシルケも、その日はずっと傍に居てくれた。