リルは暫くのあいだ、母の死を受け入れられず塞ぎ込んでいた。
あれほど太陽みたいに明るかった笑顔は影を潜め、頬はいつも涙で濡れている。
泣き止んだかと思えば、またふとした拍子に崩れてしまうのもしばしばで、そうすると長く続く。
まるで、涙という器に穴が開いてしまったみたいだった。
アロガは片時も離れず、その傍に伏せて見守っている。
大きな身体を小さく丸め、鼻先でそっと背を押したり、温もりを分けるように寄り添ったりしていた。
だが――正直なところ、ほとんど意味をなしていない。
無理もない、と思う。
あれほど愛され、そしてあれほど、その愛に包まれていたのだ。
厳しくも優しい、庇護してくれる存在が、ある日突然、光となって消えた。
――そこに納得など、出来るはずがない。
家の中は、まるで火が消えた暖炉のようで静かすぎ、季節は夏に移ろうとしているのに、どこか寒々しい。
この家の中心は、あの魔女だった。
あの人が居るだけで、自然と浮き足立つというか、平穏を実感できるのだ。
それは例えば、湯気の立つ料理を嗅いだ時の様な、幸せの充足だ。
――それが欠けた。
分かってはいる。
それでも、ここまで暗い影を落とすものかと、あたしでさえ思ってしまう。
あたしは、なるべくリルの傍にいるようにしていた。
声を掛け、背を撫で、眠れない夜は隣に浮かぶ。
だが今のリルには、言葉は殆ど届いていない。
母の温もりを求めて、家の中を彷徨う姿は、見ていて胸が痛み……そして、何も出来ない自分を不甲斐なく思った。
ある日の夜更け、風が戸を揺らす音で、リルが飛び起きた。
「……お母さん?」
そう呟いて、裸足のまま廊下を走る。
しかし勿論、その先には誰もいない。
それでもすぐには諦めきれず、錬金小屋であったり、機織り小屋であったりと、母が居そうな場所を探した。
また別の朝、シルケが台所で支度をしていれば――。
「お母さんは?」
と、当たり前のように尋ねる。
シルケはその度に、出せない言葉を詰まらせる表情をしていた。
そうして、決まって抱き締めようとするのだが、シルケではその温もりを与えてやれない。
どんなに思っていても言葉にも出来ず、態度でしか表わせないのは、とても残酷だと思った。
――そこにあって当然のものが、突如、喪われる。
それがどういうことか、まだ幼いリルには、感情としてしか理解できない。
理屈ではなく、空白として――。
自分の深い拠り所が消えた空虚を、どう扱っていいのか、きっと分からないのだろう。
けれど、それだけではない。
リルには――どこか、受け入れることを拒む節がある。
母は消えた。
でも、最期に言葉を交わし、握った手の温かなものは残っている。
結界は今も脈打ち、森は守護されている。
「消えたのに、そこにある」
その矛盾が、余計に心を混乱させているのかもしれない。
葬儀は、精霊王の名の下で、盛大に行われた。
森中の妖精と精霊が集まり、光と花と歌で満ちた。
それは確かに、荘厳で、美しく、誇らしいものだった。
だがリルは、ほとんど理解していなかっただろう。
涙に滲む視界の中で、ただ立ち尽くしていただけだ。
「すごい葬儀だった」
「偉大な魔女だった」
「その魔女に相応しい規模だった」
そんな言葉は、何の意味も持たない。
母の喪失とは、それほど理解から遠いものなのだ。
けれど……。
このままではいけない、と思った。
悲しむのは悪くない。
だが、その悲しみに沈み続ければ、いずれ必ず溺れてしまう。
必死の声掛けも、妖精たちの慰めも、今は梨のつぶてだ。
それでも、あたしは声掛けをやめない。
リルの背に寄り添い、夜中に起きれば手を握る。
泣き疲れて眠れば、そっと毛布を掛ける。
あたしは、リルの契約者だ。
あたしは、リルの姉代わりだ。
あたしは――リルが何より大事だ。
ただし……、あの母と同じにはなれない。
それでもいい。
代わりにはなれなくても、隣には立てる。
いつかリルが、涙の奥から前を見るその日まで。
あたしはずっと、傍にいる。
アロガと一緒に、傍にいる。
※※※
転機は、ひどくささやかな形で訪れた。
ある夜のことだ。
リルはまた、風の音で目を覚ました。
寝台から半身を起こし、暗闇の中で息を詰める。
「……お母さん?」
掠れた声を聞くなり、あたしはすぐ隣に浮かび、そっと肩に触れた。
「……いつもの風よ」
短く告げると、リルは唇を噛んだ。
分かっている。
もう、リルだって分かっているのだ。
それでも、期待するのを止められないのだろう。
もしかしたら、唐突に……平然として帰って来るのかも……。
確かにあの母には、そうした超然とした所があった。
だが、今回の件だけは違う。
あの母は、間違いなくその身を犠牲にして、森の奥地を不可侵の領域へと変えたのだ。
「うん……」
やがてリルは、ゆっくりと膝を抱えた。
「……分かってるよ」
ぽつり、と零すように言葉を落とす。
「もういないって、ホントは分かってる……」
その言葉を聞くのは、初めてだった。
理解ではなく、認めるという行為――。
あたしは何も言わず、ただ隣にいた。
長い沈黙のあと、リルは続ける。
「でも、さ……」
涙が、静かに頬を伝う。
「いないって思うと、胸が空っぽになる……っ」
そう言って、リルは自分の胸に手を当てる。
「ここ、すごく寒い」
あぁ……。
ようやく、そこまで来たのか。
否定でも、混乱でもない。
空虚を、空虚として感じている。
「寒いなら――」
あたしは少しだけ声を和らげた。
「火を灯せばいい、って思わない?」
リルは顔を上げる。
「火……?」
「リルの中にはね、それがもうしっかりある筈よ」
あの母が残したもの――。
それは数多の知識であったり、あるいは戦闘方法や、生き方そのものに対する覚悟など……。
本当に多くの事を学んだ筈だ。
「埋める必要はないわ。なくなった穴は、そのままでいい」
それは大切だったものの、証なのだから。
「でも、その周りに灯を増やすことはできる」
リルはしばらく考えていた。
それから、ゆっくりと寝台から降りる。
「どこ行くの?」
「……外」
夜はまだ深い。
だが、結界は今も穏やかに張られている。
目に見えるものではないが、マナを通してしっかりと、脈打つのが感じられていた。
アロガも当然、リルが起きると同時に目を覚ましていて、リルの後ろに付いていく。
扉を開けると、森は静まり返っていた。
月光が木々の間に落ち、白く道を描く。
リルは家の前に立ち、両手を胸の前で組んだ。
その所作はぎこちなく、また微かに震えてもいる。
「……がんばる」
そう小さく、呟いた。
「お母さんから受け取ったんだもん。ぜったい、無駄にしたりしない」
風が、ふわりと吹いた。
結界が応えるように、淡く光る。
森の奥で、精霊たちが微かにざわめく。
リルは涙を拭った。
泣き止んだわけじゃない。
悲しみが消えたわけでもない。
でも、例え空っぽのままでも、立っている。
それだけで、今は十分だ。
「……ねぇ」
リルが空を見上げる。
「見てる?」
返事はない。
けれど、月明かりが少しだけ強まった気がした。
リルは小さく息を吐く。
「じゃあ、ちゃんとやるから。きっと、お母さんの剣も取り返すから」
その声は、まだか細い。
だが確かに、前を向いていた。
あたしは、そっと微笑む。
母の代わりにはなれない。
でも――。
新しい火は、今、確かに灯ったのだ。