季節は既に冬が終わりを迎え、春の芽吹は十分に感じられる時期になっていた。
干し肉や燻製も、保存壺の中に整然と並んでいて、冬越しが終わった今も、まだ少しの余裕がある。
けれど私は、それらを見渡しながら、にわかに思い悩んでいた。
――本当に、このままで良いのかな。
ここに留まり続けるだけでは、お母さんの剣は戻らない。
月日が経つ事に、思いが募る。
お母さんは呪いによって亡くなったのかも知れないけど、その手を下し、劇的に悪化させたのは――エルフの軍団だった。
お母さんが万全の状態なら決して負けたりしなかったし、そもそもの呪いを持ち込んだエルフに恨みもある。
――お母さんは、エルフに殺されたんだ。
“風の噂”と言うのは森にも聞こえて来て、そうしたものは風の精霊の領分だ。
だから、森の中に居ながらにして、外の様子を知るのは難しくなかった。
小精霊が教えてくれる事もあれば、ナナが直接、出向くこともある。
その場合は、ナナの目と耳を通して知れるので、より確度の高い情報を見聞き出来た。
その中で知ったのは、エルフの台頭だった。
お母さんがいなくなった途端、東大陸を我が物顔で闊歩し始めた。
既に支配も始まっていて、武力衝突ではない、水面下からじわじわと影響を与える方法で、その力を強めている。
鼻薬を嗅がされて絆される領主も多く、様々な便宜を図っていて、今は少ない影響も、いずれ無視できなき規模になる――とは、ナナの考えだ。
それを思う程に、エルフへの怒りは募り……。
いつしか、お母さんにやった事の報いを受けさせたい、と思う様になった。
※※※
十五歳の春。
森は芽吹きの匂いに満ちていた。
雪解け水が小川を膨らませ、鳥たちが枝を渡る。
新しい季節が、背中を押しているかのように感じられて——。
私は裏庭の木陰で、何度も考えていた想いを抱えて立ち上がった。
「……行こうと思う」
同じくすぐ近くで、寄り添う様に伏せていたアロガが、ぴくりと耳を動かす。
銀灰色の体毛が朝日に照らされ、黄金の瞳がこちらを射抜いた。
――ようやくか。
まるで、そんな声が聞こえて来そうな支線だった。
風が揺れると同時、困った様に笑う気配がして、ナナの声が耳元を撫でた。
「ずっと準備はしてたものね……。止めなさいと、そう何度も言ったものだけど、我慢の限界も、そろそろだとは思っていたわ」
図星だった。
私はここ数ヶ月、ずっと“長旅仕様”の備えを整えていた。
保存食は軽量化を意識して干し肉を薄く削ぎ、乾燥野菜は粉末にして布袋へ。
火打石は二組用意し、予備の弓弦は三本作った。
お母さんの蔵書から必要な写本を選び、要点を抜き書きして小冊子にまとめる。
重い原本は持てない。けれど、持てる知識は持っていきたかった。
棚の奥から、お母さんの外套を取り出す。
深い暗色のそれは、あの日の夜、お母さんが身に付けていたものだ。
単なる外套以上に丈夫で、魔力耐性その他諸々、頼りになる付与がされていて、下手な防具より頑丈だ。
肩に羽織ると、わずかに残る懐かしい匂いが、胸を締めつけた。
「……借りるね」
誰に聞かせるでもなく呟き、次に剣を手に取った。
これは武器庫にあった一振りで、お母さんが持つ数ある予備の内の一つだ。
直剣を鞘から抜き、陽光に翳す。
刃こぼれはなく、研ぎも十分。魔力伝導の刻印も安定している。
腰帯を締め直し、背に弓を負い、矢筒の中身を確かめた。
矢羽に歪みはなく、矢尻も鋭く研がれている。
矢尻には一工夫してあって、ここにも魔力刻印を宿してあった。
炎の刻印は、着火と爆発を。
雷は貫通と痺れ、氷は拘束と鈍化を——。
風魔法しか使えない私には、こうした用意で不利を補う。
魔力刻印も、手札を補う方法も、全てお母さんの本に書いてあった。
私は、改めて家の中を見回す。
母娘で暮らすには、十分過ぎるほど広い家。
お母さんと過ごし、泣き、笑い、学び、沢山の愛情を受け取ってきた場所。
「……帰ってくるよ」
今度は、はっきりと言葉にした。
リビングの掃除をしていたシルケは、その言葉で気付いて手を止める。
それから、泣きそうな顔で引き留めようとした。
しかし、シルケは私に触れられず、その手は素通りするだけだった。
「ゴメンね、シルケ。こんな突然で。……でも、もう決めたことだから」
引き留められないと分かると、シルケはきびすを返して、家の奥へと入っていく。
「怒らせちゃったかな……」
「シルケは、そんなに狭量じゃないと思うけど……」
ナナの呟きは、直後に正解だと分かった。
その手には多くの保存食やら、火打ち石など、旅に役立ちそうな物で溢れている。
「シルケ、大丈夫だから。そういうの、もうちゃんと持ってるんだよ」
私が背中を示すと、それでも、とグイグイ押し付けて来る。
私は仕方なく、保存食だけ受け取った。
「ありがとう、シルケ。そんな顔しないで。ちゃんと帰って来るから。拍子抜けするくらい、すぐ帰って来るかもよ」
おどけて言うと、泣き笑いの表情で抱擁してくる。
勿論、触れられはしないから、あくまで形だけだ。
私はシルケを抱き返して——そう見える形で腕を回して——、数秒間そうした後、そっと身体を離す。
――森を出る。
安全な鳥籠から飛び出す。
これは、尊厳と、お母さんの責任を取り戻すための一歩だ。
アロガが立ち上がる。
その巨体が静かに伸びをし、剣のような牙を誇示する様な仕草をした。
その背の上には、いつの間にか妖精が座っていて、咎める様な視線を飛ばしてくる。
「ホントに行くのかよ、リル?」
「うん、そうするって決めたから」
「まだ春になったばかりだぜ? 後続の仲間もまだ来てないしさ、見送りしたいって奴は大勢……」
「いらないってば。それに、ちょくちょく顔を出すつもりなのは、本当だし」
「そうなのか? じゃあ、収穫時期には帰って来いよな」
「また、そんなこと言って……」
一度は焼けて全滅した畑だが、今ではすっかり元通りになっていて、三年前からもう、以前とそう変わりない収穫量となっていた。
そして、お母さんの代わりに収穫を手伝うのも、最早恒例となっている。
「……ま、無理すんな、とは言えないけどさ。何しろ、エルフを相手にしようってんだ」
「リルぅ~……、やっぱり止めときなよぉ~……。ここで楽しく暮らそうよぉ」
「そうだよ! ここなら何の苦労もないだろ?」
どこに潜んでいたものか……。
ぴょこりぴょこりと、姿を見せた妖精が、口々にそう言う。
しかし、既に決意は固まっているのだ。
その表情を見て取ってか、最初の妖精が諦めの溜め息と共に言った。
「危ないことだけはすんなよ。無理をするにしろ、無茶と無謀を履き違えたりしないようにな。駄目だと思ったら、すぐに逃げて来いよ」
「うん、そうする。お母さんの剣を取り戻すのは大事だけど、それで死んじゃうなんて、お母さんは絶対望まないもの」
「……だな」
妖精が笑って頷くと、ナナが肩に手を置いて言う。
今ではすっかり身長差が逆転してしまったから、傍目に見ればナナの方が妹みたいだけど、お姉さん風を吹かせるのは今も変わらない。
「いいこと? お母さんならどうするか、それをいつも考えるの。そうすれば、早々悪いことにはならないでしょ?」
「……うん、かもね」
私が頷き応えると、妖精は遠く空を見つめながら言う。
「行く先をどうするか、もう決まってるのか?」
「まずはいつもの街に行こうと思う。西大陸に渡る近道は、冒険者になる事だと思うから」
あの軍団が消えて以降、表立った動きはない。
でも、母の剣を奪った者が無傷でいるはずがない。
噂は必ず、どこかに残る。
噂話程度のものでも、それらを集めて情報力を高めていけば、必ずその尻尾を掴めるはずだった。
ナナが風を集め、私の周囲を軽やかに巡る。
「外の世界は、森とは違う危険がいっぱいなのよ? 分かってる?」
「もう……、分かってるってば」
森では常に有利を取れた。
地の利も、精霊も、アロガもいた。
けれど街だったり、その先にある荒野などでも、同じ様に行くとは限らない。
奇襲を受けることもあるだろう。
罠に嵌ることもあるかもしれない。
――それでも。
私は深く息を吸う。
森の匂いを、胸いっぱいに満たした。
「それでも、取り返したいから、行くんだもの」
そのために足りないものがあるなら、外で掴む。
シルケと妖精、そしていつの間にやら集まった、小精霊達から見送りを受け、私は家を出る。
十歩ほど歩いてから振り返ると、シルケを初め、妖精達も泣きながら手を振っていた。
朝霧の向こう、木々の間に差し込む光が揺れている。
この森で育ち、この森に守られ、この森で生きてきた。
その包み込んでくれた皆が、別れを惜しんで手を振ってくれている。
溢れそうになる涙を、ぐっと堪えて前を向く。
「……行ってきます!」
静かな宣言と共に、アロガが先を歩き出す。
その後には、ナナが風となって道を拓く。
私は一歩、また一歩お森の外へ踏み出した。
十五歳の春。
それは、守られるだけだった私が、奪い返すための戦士へと変わる、旅立ちの日だった。