転移陣の淡い光が足元から消え、視界が静かに晴れていく。
森の外縁へと一瞬の内に到着し、私は一応周囲を警戒する。
転移直後はどうしても無防備になりがちたから、こうした気構えは必要だった。
ここの周囲だけ地面が踏み固められていて、また刈り払われた低木が、ここが“境界”であることを示している。
深く息を吸うと、森の湿った匂いに、街道の乾いた土の匂いが混じっていた。
五分ほど進み、街道へと出る。
左右に視線を走らせて、今はまだ人影も、馬車の軋む音もない事を確認した。
「良かった……。とりあえず、アロガも一緒に歩けるね」
胸を撫で下ろしてそう言うと、背後から低い声が返る。
「ウォフ……」
呆れ半分、面倒臭さ半分、といった響きだった。
振り向けば、堂々たる体躯——見上げる程の位置にあるアロガの頭から、金色の瞳を向けられている。
「仕方ないでしょ。魔獣は普通、ヒトと一緒にいないんだから」
《——しかもそれが、
風が耳元で揺れ、ナナの声が溜息混じりに響く。
この地方では子どもでさえ知っている、森の頂点に立つ魔獣の名。
剣のように鋭利な牙と、刃のように硬質化した前肢の爪は、単体でさえA級冒険者数人を相手に取って負けない、と言われる存在だ。
それが、街道を少女と並んで歩いていて、それを見咎められたとなれば――。
軽い騒ぎでは、きっと済まないだろう。
衛兵が駆けつけ、鐘が鳴り、討伐隊が編成される。
せっかく一緒に出てアロガが、いかなり“討たれる側”になるのは、ちょっとした悪夢だった。
「だから、街の中にも入れてあげられないからね。ちゃんと近くの茂みとかに隠れてるのよ」
「グルル……」
不満げな唸りが上がり、私もつい溜め息をついた。
――分かっている。
アロガにとって私は“守るべき群れ”の一員で、傍にいなければ意味がない、と本気で思っているのだ。
けれど、街は森とは違う。
見知らぬ視線。噂好きな口。過剰な正義感――。
それら全てが、アロガとの堂々かを邪魔する。
「大丈夫だから、アロガ。ここは私の知ってる場所だよ」
ゆっくりと歩み寄り、その首筋に手を当てる。
温かく、力強い鼓動が伝わって来た。
「危険があるとしても、精々ゴロツキくらい。アロガが見つかって、討伐隊が動く方が、よっぽど危険なの」
辛抱強く言い聞かせると、しばらくしてから、低い唸りが小さくなった。
納得はしていない。
けれど、私の言葉を信じてくれた。
その首筋に顔を沈めてぐりぐりと動かし、それから離れる。
私達は改めて街道を歩き出した。
そうしていると、やがて視界の先に灰色の影が浮かび上がる。
街を囲む石壁——。
その中央には開かれた大門があって、木製の分厚い扉には、鉄の補強が重々しく光っていた。
人の流れも、少しずつ増えて来ていて、農夫らしき男が荷車を引き、旅装の商人が馬を曳く。
ここまで来ると、流石に衛兵の姿も見えてきた。
「ほら、アロガ。そこの辺り」
街道から少し外れた草原の一角を指差す。
疎らに生えた木々と、背丈のある下草が風に揺れている。
草丈は十分。
あの巨体でも、伏せればきっと隠れられるだろう。
アロガは一度、街の方を見た。
そして次に、私を見る。
「ほら、行って」
最後に、鼻先を私の肩に押し付けるようにしてから、音もなく草地へと向かった。
その間、何度も振り返る。
そのたびに私は、笑って手を振って応えた。
本当は引き留めたい。隣にいてほしい。けれど、それでは意味がない。
やがて、目的場所に辿り着くと、その体躯は完全に下草の中へと消えた。
森の狩人の名は伊達ではない。
あの巨体が、ほんの数息で風景に溶け込んでしまった。
知らなければ、そこに
私は小さく安堵の息を吐き、再び街へと向き直る。
そうして門前に並ぶと、次々と流れる順番を待った。
旅人は荷を検められ、名前と目的を簡単に問われる。昔と変わらない見慣れた光景だった。
そうして私の番が来る。
「入市か?」
「はい。買い付けと、少し用事が」
顔を覚えられているのか、衛兵は深く詮索せず、足税の額を告げる。
小袋から銅貨を数え、手渡した。
特に確認もせず、硬貨が木箱に落ちる音と共に、手を街の方へと示す。
「通っていいぞ」
短い言葉で許可を得て、一歩、石畳の内側へ踏み込む。
その瞬間、喧騒が一気に押し寄せてきた。
商人の呼び声と、鍛冶屋の槌音。
焼き立てのパンの香りと、肉を焼く香り。
人々の笑い声に混じって、言い争う罵声も聞こえてくる。
この光景を前にすると、否が応でも思い出が甦り、胸がきゅっと締まった。
けれど、今は立ち止まっていられない。
私は人混みの中へと歩き出した。
森の狩人としてではなく、目的を持った旅の始まりとして——。
門の外、ここからではもう見えない茂みの中には、アロガがいる。
そして、ナナは私と一体となって、心の中で控えていた。
独りじゃない。
それでも――ここから先は、私が切り開く道だ。
石畳を踏みしめながら、私は街の奥へと進んで行った。
※※※
向かう先は、最初から既に決まっていた。
石畳を踏みしめながら、私は迷いなく冒険者ギルドの方角へと歩を進める。
目的は、お母さんの剣を取り返すこと。
あのとき森を攻めた軍隊は、西大陸から派遣された奴ら、と精霊たちは言った。
だったら、手掛かりはきっと西にある。
そう改めて意識していると、胸の奥で風がそよぐ感覚があった。
《まぁ、東に住むヒトが西に行く手段は、とても限られてるものねぇ……》
ナナの声が悩ましげに響く。
東大陸と西大陸を繋ぐのは、ただ一本の橋だけで、しかもその橋には船で乗り付ける必要があるらしい。
“境界橋”と呼ばれる巨大な石橋が、唯一の公的な往来手段なのに、陸続きにはなっていなかった。
それを無視して船による入国も不可能ではないけれど、それは橋を渡る以上に、厳しい審査と監視を受ける。
密航など論外、正規の許可なくしては辿り着けない——、という話だった。
ただし、ここ数年で制度は幾分か緩和された、とも聞く。
けれど――それでも尚、一般人が気軽に行き来できるほど甘くはない。
《緩和されたってのも、つまりお母さんを打ち倒したからでしょ》
ナナの声が少しだけ低くなる。
《封鎖されてた理由も単純よ。顔も姿も自在に変えられるって言われる相手を、迂闊に入国させない為だもの。あの時代……、西は本気で怯えていた》
「臆病なんだね……」
思わず、そんな言葉が口から零れた。
《まぁ……、殆ど病的だったのは間違いないわね。どちらかが滅ぶまで終わらない、って本気で思い込んでたんでしょうし》
東大陸と西大陸。
魔女と、その討伐を掲げた側。
正義と恐怖が絡まり合い、それが執拗な追撃を続けさせていたのだろうか。
「どうして、そんな事になったんだろう……」
私の問いに、ナナは少しだけ沈黙した。
《さぁ……。そこまで流石に、風にも分からないわね》
風は噂を運ぶ。
けれど、真実の根までは掘り起こせない。
それはあくまで、風の噂を届けるが故の、仕方ない部分だった。
――やがて、視界の先に大きな建物が現れる。
木と石を組み合わせた重厚な造りで、入口の上には、剣と盾を交差させた紋章が見えた。
目的の冒険者ギルドだった。
外にまで溢れ出すような喧騒と活気があり、笑い声や怒鳴り声、そして武具の擦れる金属音などが聞こえた。
私は足を止め、建物を見上げる。
ここに遊びに来たことは何度もあった。
お母さんに連れられて、依頼掲示板を眺めたり、受付の人と世間話をしたり……。
もしくは、ミーナちゃんやモンティと、遊び場としてやって来たこともある。
あの頃の私は、ただの見学者だった。
けれど、今日は違う。
“求めて”ここに、やって来た。
――冒険者になるためだ。
胸の奥が、少しだけ痛む。
お母さんは、冒険者になることに反対だった。
『あそこはね、命を金に換える場所だよ』
そう言って、苦笑と似た――何かを隠す笑みを浮かべていた。
危険を承知で飛び込み、怪我をするだけならまだしも、命を落とす者も少なくない。
自由の裏に、責任と無謀が潜む世界——。
もし今の私を見たら、お母さんがっかりするのかな。
それとも……必要だと、理解してくれるんだろうか。
私は拳を握って、意識を整える。
私は名誉を求めるのではなく、ただただ西へ渡るための資格を求めていた。
情報網や信用といったものも、私が求めるものを探すには有用だろうけど、S級冒険者の肩書きが、“西”へと渡れる資格になる。
「……必要なことだから」
小さく呟き、扉へと手をかける。
重い木扉を押し開けた瞬間、熱気が一気に押し寄せた。
汗の匂い。そして、革と鉄の匂い。
荒々しい笑い声が飛び交い、壁一面の掲示板には無数の依頼書が見えた。
屈強な戦士、軽装の斥候、ローブ姿の魔術士……。
様々な装いの人々が、思い思いに席を陣取っていた。
一瞬、視線が集まったけれど、すぐに興味は失せる。
見慣れぬ少女が一人やって来る程度、ここでは別に、珍しい光景でもないのだろう。
私は一歩、二歩と中へ進む。
受付カウンターが見えた。
その向こうで、書類を捌く女性職員が顔を上げる。
見知った顔が見えて安堵するのと同時、事情の説明が必要に思えて気分が暗くなった。
私は、意を決して息を吸い込んだ。
森で暮らす獣人としてではなく、お母さんの娘としてでもなく……。
目的を持つ、一人の剣士として、私は喧騒の只中へと踏み出した。