少し緊張した足取りで、受付カウンターへと近づいた、その瞬間だった。
「え……? ……リル、ちゃん?」
柔らかく、それでいてはっきりとした声音が耳を打つ。
顔を上げた受付の女性と目が合って、私もハッとした。
淡い栗色の髪をきちんと結い上げ、落ち着いた青の衣を纏った女性で、穏やかな笑みと、鋭すぎない観察眼を持つ人だった。
最後に見た時と、その見た目は殆ど変わりない。
懐かしい気持ちが、胸の中に満ちる。
「レッタお姉ちゃん――ううん、オンブレッタさん……」
冒険者ギルドの受付嬢であり、そしてギルドマスターの妻。
幼い頃から何度も顔を合わせてきた、数少ない“街の大人”のひとりだ。
「……お久しぶりです」
久々に顔を合わせる気不味さも手伝って、自然と背筋が丸まる。
オンブレッタさんは、書類を置き、カウンター越しに身を乗り出した。
「本当に……、あなたなのね。ずっと姿を見せなかったから、どうしているのかと……」
その目には、責める色はない。
ただ、純粋な心配が滲んでいる。
それだけの思いを向けられて、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「大きな問題もなく……、元気に暮らしていました」
「ええ、噂は少し……。買い出しには来ていたみたいだけれど、すぐ帰ってしまうって」
そう言って、小さく苦笑する。
……やっぱり、知られていたんだ。
だけど、情報通でなければギルドなどやれないだろうし、むしろ知られているのは不思議じゃないのかもしれない。
「本当に、心配していたのよ。でも、あなたのお母様は……?」
慎重に選んでいると分かる言葉遣いで、オンブレッタさんは、そっと続ける。
「卒業式にも来なかったでしょう? 何かあったんじゃないかって、ミーナちゃんも、モンティくんも、すごく心配していたわ」
胸の奥が、きゅっと締まる。
隠す事ではないし、むしろ教えるべきなんだろう。
それに、特に親しくしていた二人には、せめて何か伝えておくべきだった。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ」
即座に返ってきた声は、優しかった。
「きっと色々、事情はあったんでしょうから……。今も無事で元気なら、それでいいの。昔は可愛らしいだけだったけど、今は凛々しさも加わって……。面影はあったから、もしかしたらと思ったら……、本当にそうなんだもの……」
その言葉がまっすぐ胸に刺さり、喉の奥が熱くなった。
「でも、とにかく……」
オンブレッタさんは、少しだけ表情を改めた。
「今日は……どうして、ここへ?」
問いは穏やかだが、その奥には察するものがある。
私は一度、深呼吸をして、真っ直ぐに見つめながら言った。
「冒険者登録を、したくて来ました」
一瞬、周囲の喧騒が遠のいた気がした。
オンブレッタさんは驚いたように目を見開き、それからゆっくりと細める。
「……そう」
否定も、即答の賛成もない。
「あなたのお母様は、なんて……?」
「賛成は……してくれる、と思います」
頷く途中で動きを止め、それから首を傾げた。
「つまり……、許可は得ていないのね?」
「でも、必要なんです。目的のために。情報と、実績と、信用が要るから」
――濁して伝える意味はない、と理解していても、正直に言うのが怖かった。
何より、お母さんの訃報を伝えなくちゃいけないのが辛い。
その勇気が出ないままでいると、オンブレッタさんは、しばらく私を見つめて言った。
まるで、子どもの頃から知る少女が、本当にその道を選ぶ覚悟があるのか、見極めるように。
「……随分、強い目をするようになったわね」
そうして、ふっと微笑む。
「どうやら、それなりの心得はあるみたいだし……。昨日、今日の思い付きで、家出同然にやって来た訳でもなさそう」
「……分かるんですか?」
「えぇ、そういうヒト、結構多いから。でもあなたは、しっかり鍛練して来たみたい」
その発言に、アロガやナナとした、厳しい鍛錬の日々がよぎる。
独力でやってきた訳ではない。
お母さんが遺してくれた、指南書もあった。
それらのお陰で、まだまだ発展途上だった実力も、そこそこ見られるものになったと思う。
……お母さんには、まだまだ全然、届かないけれど。
そんな事を考えている間に、オンブレッタさんは、カウンターの下から一枚の書類を取り出した。
「登録自体はできるわ。でもね、リルちゃん。ここは“覚悟”だけでは足りない場所よ」
紙を差し出しながら、話を続ける。
「怪我の原因は一つじゃなくて、冒険者同士って事もある。裏切られることだって……。命を落とす者も、少なくない」
視線が、私の奥を覗き込む。
「それでも、来るのね?」
私は迷わず、挑む様にして頷いた。
「はい」
お母さんの剣を取り戻すため。
お母さんの誇りと責任を取り戻すため。
何より、あの日の恐怖から逃げ続けないために必要な事だった。
私の目を正面から見つめていたオンブレッタさんは、ゆっくりと頷いた。
「分かったわ。……なら、私はあなたを“紫銀の方の娘”としてではなく、一人の志願者として扱います」
その声音は知人のものではなく、受付嬢としてのものへと切り替わっていた。
「じゃあ、こちらの書類に記入して下さい」
羽根ペンを受け取り、私は書類の所定欄にゆっくりと名前を書き入れる。
――リル・シャムラ・シャムシット。
森で何度も写本を取り、母の蔵書を筆写してきた。
線の強弱、余白の取り方、文字の呼吸。
自然と身についた癖が、紙の上に現れる。
そうして、さらり、と最後の一画を払ったときだった。
「……へぇ」
低く、よく通る声が、横合いから飛び込んで来た。
振り向いてみれば、奥の階段から大柄な男が降りてくるところだった。
茶色の髪を後ろで束ね、広い肩幅に濃紺の外套を背負っている。
ともすれば、頼りなさを感じさせる優しい目元は、時を経て、それが更に顕著になった様に思う。
ギルドマスターの、ラーシュだった。
この街の冒険者たちを束ねる男であり、オンブレッタさんの夫でもある。
「久しいな、リルちゃん」
「……はい、お久しぶりです」
小さく礼を取ると、ラーシュは困った様に頭を掻いて笑った。
「リルちゃんに、そんな態度を取られるのは……何て言うか、妙な気分だ。昔はもっと……いや、まぁ、それは良いか」
ラーシュはカウンターへ近づき、私の書いた書類を覗き込むと、片眉を上げる。
「これは……お前さんが書いたのかい?」
「はい」
短く答えると、彼は感嘆の息を吐いた。
「綺麗な字だなぁ。均整が取れているし、筆圧も安定している」
そう言って、指先で紙の端を軽く叩きながら続ける。
「これなら書士にだってなれるぞ。下手な役人より、よっぽど上等な文字だ」
思わぬ方向からの賛辞に、少し戸惑う。
「お母さんに、よく綺麗に書きなさいって、言われていたので……」
「なるほど。あの人らしい」
ラーシュは一瞬だけ、遠い目をした。
「お前さんの母親からは、よく自慢話を聞かされたよ。あの子は手先が器用で、根気もあるとか。頭が良くて、飲み込みが早いとか」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
でも同時に、嬉しいやら恥ずかしいやら、複雑な気分になった。
「だが同時に、こうも言っていたな」
視線が、まっすぐに私を射抜く。
「“あの子を冒険者にはさせたくない”と」
空気が、少しだけ張り詰める。
その遣り取りを、オンブレッタさんが、そっと窺っているのが分かった。
ラーシュは声を荒らげない。
むしろ穏やかなもので、その口調は諭すものだった。
「冒険者は、選ばれし者の職じゃあないんだ。誰でもなれる……だからこそ、その死亡率ってのはなぁ、結構高いものなんだ」
静かな言葉が、染みるように伝わる。
「お前さんの母親は、その現実をよく知っていたんじゃねぇのかな。だから、別の道を歩ませたかったんだろう」
視線が、再び書類へと落ちる。
「この字を書けるなら、役所勤めもできる。俺だって、書士見習いとして紹介もしてやれる。収入の安定は段違いだ。命を削る必要もない。——それに聞いてるぜ。学舎では計算も、得意だったみたいじゃないか。そっちを生かす方法もある」
提案は気遣いに満ちたもので、理にかなっていた。
お母さんから授けられ、培った知識と筆の技術——。
それらを確かに、生かす道はある。
「今なら、まだ間に合うぞ」
ラーシュの声は、心から案ずるものだった。
「登録は保留にしてもいい。考え直せ。母の望みを、無下にしてまで、なるもんじゃない」
胸の奥が揺れ、お母さんの言葉が蘇る。
——『命を金に換える場所だよ』
あの苦笑までもが、目の前に見える気がした。
でも。
それでも――。
「……お母さんは、私が無事に大きくなること、人並みの幸せを見つける事を、望んでいたんだと思います」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「でも、私は……生きるために来ました」
ラーシュの目が、僅かに細まる。
「生きる、と言うのは?」
「はい。森に閉じ籠もることもできて……そしてきっと、その方が安全で、平和でした」
それだけの下地を、お母さんは残してくれた。
最期には自分の身体さえ差し出して、精霊王を含んだ多くの精霊たちを味方にして——。
「……でも、それでは死んでないだけ。取り戻す物を取り戻せないと、私は止まったままなんです」
母の剣。
あの日、奪われた誇り——。
「西へ行くためには、実績と信用が必要です。それには冒険者であることが、一番早いと耳にしました」
真っ直ぐに、ラーシュを見る。
「これは、憧れでも反発でもありません」
一呼吸置いてから、更に続けた。
「必要だから、選びました」
ギルド内の喧騒が、遠く感じる。
ラーシュはしばらく何も言わなかった。
でもやがて、ふっと息を吐く。
「……目が変わったな。昔は、ただ守られるだけの、何処にでもいる子どもだったのに。……いや、平均よりもずっと裕福だったかもしれないが……」
腕を組み、私を見下ろす。
「今は、自分の足で立とうとする目をしている」
完全な賛同ではない。
でも、頭ごなしの否定でもなかった。
「最後に聞かせてくれ」
これまでとは違う、重く挑む様な声だった。
「死ぬ覚悟はあるか?」
一瞬だけ、森の景色が脳裏をよぎる。
アロガの背。ナナの風。母の笑顔――。
「死ぬ覚悟はありません」
腹に力を入れて、はっきりと口に出した。
ラーシュの眉が、ピクリと動く。
「でも、生き抜く覚悟ならあります」
しばらく静寂が続くと、ラーシュは低く笑った。
「はは……、なるほど。あの人の娘だな、間違いなく」
そう言うと、書類を取り上げ、オンブレッタさんへ渡す。
「登録を進めてくれ。ただし――」
そこで一度、私へ視線を戻す。
「最初は最低のGランクからだ。実力主義だからな。情けはかけられない」
「はい」
「そして、いつでも引き返せることを忘れるな。意地で突っ走るとな、簡単に転ぶもんだぞ」
そこまで言うと、それまでの重かったものから一転、声が和らぐ。
「お前さんには、帰る森も、帰る街もあるだろ」
その言葉に、胸の奥が静かに温かくなった。
「……ありがとうございます」
ラーシュは頷き、背を向ける。
「んじゃ、改めて……。オンブレッタ、手続きを」
「ええ」
笑顔で頷くと、羽根ペンが再び走り出す。
こうして私は――。
母の望みと向き合いながら、それでも自分の選んだ道へと、正式に足を踏み入れたのだった。