幾つかの書類への記入が終わると、手続きは最後の段階へと移った。
「あと一つだけね」
オンブレッタさんは、カウンターの下から小さな器具を取り出す。
銀色の細い針が、ほんのわずかに先端を覗かせていた。
「指先を少しだけ」
私は言われるまま、右手の人差し指を差し出した。
針の先に、指を軽く押し当てると、ちくり、とした小さな痛みが走る。
ほんの一滴、赤い血が滲んだ。
それを書類の片隅にある、魔法陣の紋様へと押し付けると、淡い光が一瞬だけ走る。
でもすぐに消えて、紙の上には何事もなかったかのように、ただ血判の跡だけが残された。
「これで登録は完了よ」
オンブレッタさんは、書類を軽く確認しながら説明を続けた。
「この血判には簡単な追跡魔術が組み込まれているの。万が一、冒険者が犯罪を犯した場合、その位置をかなり正確に読み取れる仕組みになっているわ」
思わず書類を見つめる。
小さな血の跡には、冒険者という存在を縛る“責任”が刻まれている。
「つまり……簡単には逃げられない、ってことですね」
「そういうこと」
オンブレッタさんは苦笑し、それから少しだけ声を柔らかくした。
「……でもね、位置情報が分かるというのは、何も悪いことばかりじゃないのよ」
書類を指先で、軽く叩きながら続ける。
「遭難した時や、危険な依頼で行方不明になった時……。ギルドはこの魔術を頼りに、救助を出すこともできる」
青い瞳が、私をまっすぐ見つめる。
「だから、何でもかんでも悪い方向に考えなくても大丈夫」
私は、素直に頷いた。
「……そうですね」
森で暮らしてきた私には、追跡されるということに少し抵抗もあった。
けれど、同時に“助けが届く可能性”は、捨てがたい魅力だろう、と思う。
その時だった。
「おい、まさか……!」
横合いから、ひどく驚いた声が飛んできた。
「ん……?」
「お前、リルか!? 本当にリルなのかよ!?」
声の方向に目を向けると、そこには、一人の青年――いや、冒険者が立っていた。
日焼けした肌に短い髪。
革鎧を身に着け、腰には剣を佩いている。
まだ若輩と言って良いのに、すでに幾つかの戦いを経験してきたような雰囲気があった。
けれど――その表情は、どこか懐かしいものを見つけた子どもの様だ。
言葉を返せずにいると、その隣からもう一人、顔を覗かせる。
「本当……? 本当にリルちゃん?」
こちらも軽装の冒険者装備だが、まだどこか幼さが残る。
栗色の髪を肩口でまとめた、私より少しだけ年上の少女が、心配そうにこちらを見つめていた。
二人とも、見覚えなどない――と、そう思った矢先だった。
青年の笑い方。
少女の首の傾げ方。
記憶の奥に眠っていた何かが、急に浮かび上がる。
「もしかして……!」
思わず声が上擦った。
「モンティとミーナちゃん……!?」
名前を呼んだ瞬間だった。
「やっぱりだ!!」
モンティが大声を上げ、その横でミーナちゃんは目を潤ませると、次の瞬間、勢いよく抱きついてきた。
「リルちゃん……!」
そのまま、ぎゅっと抱き締められて、突然のことに呆然としてしまった。
少しよろめきながらも、私はその身体を受け止める。
鼻腔をくすぐる匂いは、少しだけ石鹸の香りが混じった、懐かしい匂いだった。
昔、一緒に遊んだ時と、ほとんど変わっていない。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
懐かしさと――そして、申し訳なさ。
何も言わずに、離れてしまったこと——。
二人の前から、突然消えるように姿を消してしまった。
「……ごめんね」
自然と、抵抗なく謝罪の言葉がこぼれた。
「勝手に居なくなって……」
「いいんだよ……!」
ミーナちゃんは首を横に振って、肩口に顔を押し付けたまま、震える声で言う。
「きっと事情があったんだって……分かってたから……!」
肩に当たる部分が、じんわりと熱い。
……泣いている。
本当に、再会を喜んでくれているんだ。
胸の奥が、温かくなると同時に、少しだけ痛む。
そのとき、モンティが困ったように頭を掻いた。
「なぁ……」
周囲をちらりと見回しながら、申し訳なさそうに言う。
「積もる話もあるしさ……、ここじゃなんだから……」
言われて、私も気づいた。
いつの間にか、かなりの視線がこちらに集まっている。
珍しい再会を面白がる者。
単なる好奇心で見ている者。
そして、明らかに迷惑そうに、眉を顰めている冒険者もいる。
ギルドのど真ん中で、抱き合って泣いていれば当然だ。
「わっ……!」
ミーナちゃんも、ようやくその事に気づいたらしい。
慌てて顔を上げ、真っ赤になると、袖で涙を拭いながら、私の手を掴んだ。
「ご、ごめん……! こっち、こっち行こ!」
ぐいぐいと引っ張られ、モンティも苦笑しながら後ろについてくる。
ギルドの喧騒の中を抜け、壁際の少し静かな席へ。
そこでようやく、三人は向かい合って腰を下ろした。
六年ぶりの再会だ。
言いたいことも、聞きたいことも、きっと山ほどある。
けれど今は――。
ただ、こうして同じ場所に座っているだけで、胸がいっぱいだった。
※※※
壁際は依頼ボードから離れている事もあり、中央の喧騒から遠ざかった。
それでも冒険者ギルド特有の騒がしさは消えない。
笑い声や依頼内容を巡る口論――そんな音の波が遠くから押し寄せてくる。
けれど、私たちの周りだけは、どこか静かだった。
ギルドホール内に椅子などないので、三人で向かい合って立つ形になり、少し気まずい。
ミーナちゃんはまだ少し目を赤くしていて、何度か瞬きをしていた。
モンティは腕を組んでいるけれど、その視線はずっと私から離れていなかった。
心配しているのが、よく分かる。
「……えっと」
何から話せばいいのか分からなくて、言葉が詰まった。
森での暮らし。
母のこと。
この数年での出来事――。
話そうと思えば、いくらでもある。
けれど、最初に口から出たのは別の言葉だった。
「まず……、ごめん」
二人の表情が、少し驚いたように変わる。
「卒業式、出られなくて……」
二人を直接見られなくて、視線を床に落とした。
「あの時、どうしても……人前に出られる状態じゃなくて」
その時の事を思い出して、胸の奥が少しだけ重くなる。
「それに……そのまま、何も言わないまま居なくなっちゃって」
ミーナちゃんとモンティとは、あの頃いつも一緒にいた。
それなのに何も言わず、何も説明せず、突然いなくなった事で、悲しい思いをさせただろう。
「本当に、ごめんね」
頭を下げると、ほんの少し沈黙が降り、そして――。
「だから、いいって言っただろ」
モンティの声が、すぐに返ってきた。
顔を上げると、彼は少し困ったように笑っていた。
「事情があったのくらい、分かるよ」
「うん」
ミーナちゃんも頷く。
「リルちゃんがそんな不義理するとは思えないし、それから全然姿を見せなくなるなんて、よっぽどだよ」
あの日のことを思い出すように、言葉がゆっくり続く。
「だから、きっとリルちゃん、すごく辛いんだろうなって……」
優しい言葉を掛けられて、涙が出そうになった。
「私たちも、何回か自分達の方から行こうか、って話したんだよ?」
そう、と頷いて、モンティが言う。
「でもさ……、家の場所も知らないし、街の入り口で待ち構えるってのも……」
「うん……」
二人が顔を見合わせる。
「無理に会いに行ったら、余計辛いかもしれないって思って」
ミーナちゃんの声は、どこまでも優しく、気遣いに、満ちていた。
「だから……、待ってたの。いつかきっと、また昔みたいに話せる様になるって……」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
待っていてくれた。
何も言わずに消えた私を……。
責めるでもなく、ただ、待っていてくれた友達に感謝の気持ちが溢れる。
「……ありがとう」
素直な気持ちで言葉を落とし、それから、少しだけ深く息を吸う。
その時、モンティから窺う様な視線と共に、控え目な問いが飛んできた。
「この数年、どうしてたのか、訊いても良いか? お袋さんは……、今日は一緒じゃないのか?」
「うん、ちょっと来られなくて……」
「病気……とか?」
「うん、そんな感じ……。もう、街で姿は見られないと思う」
二人が真剣な顔で聞く。
「そんなに重い病気なんだ……。心配だね……。あ、だから、稼ぐために冒険者を? 薬代が必要になった、とか……」
「うん、まぁ……」
二人を騙すようで気が引ける。
でも、やっぱりまだ、正直に言う勇気は湧かなかった。
「そっか……。お袋さん、良くなると良いよな。大丈夫、上手くすりゃあ、薬代なんてすぐさ!」
無理に明るく言っているのだとは、その雰囲気から分かった。
私があまり話したがらないのも察して、だから深く追求しようともしない。
「でも、こっちじゃ手に入らないモノたから……」
「どういう事だ?
「私の求める
それは病ではなく、名誉に対する特効薬だ。
奪われた剣を取り戻さない事には、永遠にその名誉は回復しない。
モンティは腕を組み直し、ふと真顔になって言った。
「むしろそれで、冒険者登録したのか?」
さっきの受付のやり取りは、遠目に見えていたのだろう。
私は静かに頷いた。
「うん、西に行くには、それが一番早いから」
二人の表情が、同時に変わる。
そこには、驚きと戸惑いが浮かんでいた。
ギルドの喧騒が、遠くに聞こえる。
モンティとミーナちゃんは、しばらく黙ったままでいた。
そして――。
モンティが、小さく息を吐く。
「……なるほどな」
その声に、軽さはなかった。
ただ、真剣に受け止めてくれている響きがある。
ミーナちゃんは、そっと私の手を握り、優しい声を掛けてくれた。
「リルちゃん……、大変な道だと思うけど……」
一瞬だけ言葉を探し、それから笑った。
「でも、リルちゃんが決めたなら、あたしは応援するよ」
森を出てきてよかった。
そう、初めて思えた気がした。