冒険者ギルドの建物の裏手には、広く開けた裏庭があった。
石の壁にぐるりと囲まれたその場所は、簡素ながらよく整えられていて、地面は踏み固められた砂地になっている。
どうやら普段は、冒険者たちが訓練に使う場所らしい。
実際、今も何人かの冒険者が素振りしたり、木剣で打ち合ったりしていた。
そこへ、ぞろぞろと人が移動してくるのだから、当然視線も集まる。
訓練していた冒険者の一人が、動きを止めて眉をひそめた。
「……なんだ?」
「揉め事か?」
怪訝そうな表情で、こちらを見つめた。
裏庭に来たのは、私とケレイだけではなかった。
モンティとミーナちゃんは勿論のこと、さっきギルドの中で野次馬になっていた連中まで、ぞろぞろとついて来ている。
どうやら皆、事の顛末を最後まで見届けるつもりらしい。
ざわざわと人垣が出来始める。
その中には、ギルドマスターのラーシュの姿まであった。
腕を組んで立っているが、その表情は明らかに穏やかではない。
眉間に深い皺が寄り、どこか心配そうな目をしていた。
それでも、止めに入る様子はない。
止めても無駄だと理解しているのか、それとも、どちらか一方に肩入れすることを避けているのか――。
《どっちもじゃない?》
ナナが軽く言って、私は小さく息を吐く。
「そうかもね……」
私はケレイの前へ歩み出た。
距離を測って十分な間を取り、ゆっくりと足を止める。
ケレイは壁を背にしていた。
後ろは五メートルほどで、石壁に突き当たる。
逃げ場のない位置だけど、攻撃される方向を限定させる狙いがあるのかもしれない。
もしくは、一歩も退かないという意思表明か——。
ケレイはその場で軽く屈伸運動をし、肩を回し、足をほぐす。
やけに念入りな準備で、少し意外な気持ちがした。
《案外、口ほどには侮っていないのかもね》
私はその様子を見ながら、心の中で小さく呟く。
(負けられないのは確かかも。だって、ここで大敗でもしたら……恥の上塗りだもんね)
その時、準備を終えたケレイが、腰の剣を抜いた。
金属の擦れる音が、乾いた空気に響く。
それを見て、周囲からすぐに声が飛んだ。
「おい!」
「訓練用の武器を使わないのか!?」
「本気の剣はやめとけ!」
しかし、ケレイはまったく取り合わない。
剣を肩に担ぎ、ふんと鼻で笑って吐き捨てる。
「真剣勝負だ。なら当然、真剣を使う」
文句を言う連中の方を睨みつけるその顔は、明らかに鬱憤を晴らそうとしている人間のものだった。
それを見たナナが、小さく鼻を鳴らす。
《訓練中の事故、ってことで片付けたいのかしらね。大怪我させてやろうって顔よ、あれは》
それは別にどうでも良かった。
どうせ負けないし、傷も負わない自信がある。
でも——だとしても、ふと思う事があった。
(お母さんなら……。こういう時、どうするかな)
《さぁて……?》
ナナは少し考えるようにしてから答えた。
《格の違いを思い知らせるんじゃない? 二度と刃向かう気が起きないくらいに》
(そっか。じゃあ、そうしてみようかな)
私もケレイに倣って、準備運動を始めた。
脚の腱を伸ばし、軽く飛び跳ねて調子を確かめる。
《――でも》
足の調子がいつも通りであることを確認した時、ナナから一言付け加えられた。
《その前に警告はするでしょうね》
確かにそうだ。
お母さんは、相手が格下だとしても――。
むしろ格下だからこそ、事前に引き際を与えていた。
無用な怪我をさせないために。
そして、無駄な恨みを残さないために。
「そうだね」
私は軽く息を吐き、ケレイへ向き直った。
「始める前に、警告だよ」
ざわ、と周囲から声が上がる。
「やめるなら今のうち。C級の看板を下ろすのも、今のうち」
「なんだと……?」
ケレイの眉がぴくりと動き、形相が怒りに染まる。
それでも構わず、私は続けた。
「新人相手に負けたら……、それ全体の格が落ちるよ?」
その瞬間、ケレイの怒りが爆発した。
「言いたいことはそれだけかよ!? ――お前ら獣人が、S級になれない理由を教えてやろうか! 魔術を使えねぇからだ!」
「う〜ん……?」
それは多くの点で間違っている。
使わないのではなく、使おうとしないのだ。
魔術はエルフのもの、という認識があって、まず忌避する部分があるし、そして魔法は精霊の領分だ。
そして精霊は敬うものであり、使役するものではない。
だからどうしても、魔術に頼らない戦い方が多くなる。
精霊に好かれれば魔法が使えても、愛し子として村落で大事にされるので、冒険者の様な形で表に出ないものだ。
それら複数の要因こそ、獣人が肉体派と思われてしまう原因だった。
私が注釈を加えるか迷っていると、ケレイは口汚く罵る。
「魔術を使える俺に勝てるワケがねぇんだ! さっさと構えろッ!」
「うぅん……まぁ、警告はしたからね」
それから、ゆっくりと息を吐く。
――そして。
腰にも背中にも手を伸ばさず、ただその場で足を開く。
武器を取らずに拳を軽く握った。
素手のまま、心は落ち着いている。
――これは遊びだ。
ナナが言っていた通り、ケレイにとってはともかく、私にとっては遊び以上の意味などなかった。
※※※
誰かが「合図を出してやる」と買って出て、野次馬の中から進み出た男が、両者の間に立った。
左右を見比べ、軽く頷くと、片手を高く掲げる。
「いいな――!」
ざわついていた空気が、一瞬だけ静まり返る。
そして男は、勢いよく腕を振り下ろした。
「始め!」
その声と同時に、ケレイが動いた。
剣を肩に担いだまま、地面を蹴る。
砂が弾け、一直線にこちらへ突進してきた。
——でも、遅い。
合図と同時に私も動いていて、既に地面を蹴っている。
距離が一気に詰まり、ケレイの目が驚きに見開かれる。
そして、次の瞬間――。
私はその勢いのまま、身体ごとぶつかっていた。
「はい、ドーン!」
いつも良くやる、工夫も技術もない、単なる体当たりだった。
そして、その一撃だけで、決着はついた。
ケレイは剣を振り下ろす暇すらなく、そのまま後方へ吹き飛ばされ、背中から石壁へ叩きつけられた。
鈍い音がして、ずるずると壁を滑り落ちる。
剣が地面に落ち、乾いた音を立てた。
周囲が一瞬、呆然とする。
「……おい、速すぎだろ。離れて、ようやく目で追えたレベルだ……」
誰かが呟いた。
「その上で打撃が軽いわけでもねぇ。一撃かよ……」
私は倒れたケレイを見ながら、小さく息を吐いた。
「お母さんなら……このくらい、平気で受け止めるんだけどな」
《それどころか……》
ナナがくすりと笑う。
《勢いと慣性を完璧に制御して、衝撃を感じさせずに高い高いしてくるしね》
「せめて躱すか受けるぐらい、すると思ったんだけど……」
そんなやり取りは、私とナナにしか分からない。
だから、挑発の様に聞こえてしまったかもしれない。
「くそったれ……」
視線を向けると、ケレイがまだ立ち上がろうとしている。
剣を杖代わりにして、震える身体をどうにか持ち上げようとしていた。
「もう……、勝った気で、いるのか……っ!」
息を荒く吐きながら、こちらを睨む。
「ふざけやがって……!」
私は少しだけ目を細めた。
ダメージは深刻そうだけど、骨が折れている様子はない。
さすがに、多少は鍛えているらしい。
けれど、足取りは明らかに不安定で、続行には不安がありそうだった。
周囲からも、心配そうな声が上がる。
「もうやめとけ! 勝負ついただろ!」
「実力差が分からねぇのか!?」
「無理すんな、下手すりゃ死んでたぞ!」
しかし、そんな声もケレイの耳には届いていない。
顔を歪めながら、どうにか身体を起こした。
剣を握る手が震えていて、気力で立っているのは明らかだった。
ぎり、と歯を食いしばる。
「まだだ……! こんなんで……終わるかよ」
《どうする? もう十分だと思うけど》
確かに。
格の違いは、誰の目にも分かったはずだ。
でも、ケレイはまだ立っている。
私は軽く息を吐いた。
「まだやりたいの?」
静かに問いかけると、ケレイは無言で剣を持ち上げた。
腕は震えていたが、それでも構えは取っている。
「……来いよ」
唾を吐くように言う、その威勢は大したものだ。
けど、先程の様に飛び込んでは来ない。
《来ないんじゃなくて、来れないんでしょ。踏み込むのが不安だから、迎え撃とうとしてるの。あとは……さっき見せた攻撃を、警戒してるのもあるんでしょうけど》
「あれは別に、攻撃のつもりじゃなかったけどね……」
でも、どっちにしろ、このまま収まりがつくとは思えなかった。
私は少しだけ考えてから、肩をすくめた。
「分かった。じゃあ、行くよ」
そして、今度はゆっくり歩いて、距離を詰めた。
ケレイは剣を握り直して、姿勢もそれに合わせて変える。
でも、その場から動こうとしないのは変わらない。
足を踏みしめ、重心を低く落とし、構えたまま、じっとこちらを見据えて、身体強化の魔術を重ねがけしていた。
《あら、今度は慎重だこと》
「こっちを待ってるみたい」
ケレイの狙いは分かりやすかった。
動かず、こちらに攻めさせる。
そしてその瞬間を狙って、剣で迎え撃つ。
つまり、カウンター狙いだ。
さっきの一撃で、真正面からぶつかっては勝てない、と理解したんだと思う。
ケレイの目は、さっきまでの怒りとは、明らかに違う色を帯びていた。
――きっとそれを、必死と言うのだろう。
意地でも、ここで一太刀入れてやろうという決意。
周囲の冒険者たちも、それに気づいた。
「待ち構えてやがるな」
「カウンター狙いか」
「まあ、そうするしかねぇよな」
ざわざわと声が広がる。
そこへ、モンティの声が、風に流れて聞こえて来た。
「リル……!」
「リルちゃん……」
ミーナちゃんは心配そうに、その手を握りしめながら見つめていた。
私は二人の方をちらりと見て、軽く笑う。
「大丈夫」
そして、ケレイへ向き直ると、今も油断なく睨む視線に噛みつかれた。
剣先はこちらの動きを逃すまい、と微かに揺れている。
《どうする? 下手に飛び込めば、刃の良い餌食でしょうけど》
「うん、でも……ナナも分かってるでしょ? 下手に突っ込まなければ、良いだけだよね」
私は無造作に一歩、踏み出した。
ケレイの剣がぴくりと動く。
しかし、まだ振らない。
もっと近づくのを待っている。
もう一歩――。
距離が詰まり、ケレイの肩がわずかに揺れた。
今だ、と言わんばかりの緊張があり、剣先が僅かに持ち上がる。
そして、次の瞬間——。
私は地面を強く蹴った。
緩やかな歩調から一転して、本気の一歩を踏み出す。
ただそれだけで、空間そのものが縮んだかのように、距離が詰まった。
ケレイの目が見開かれ、咄嗟に剣が振り上げられる。
だけど、その時には既に、ケレイの懐へ潜り込んでいた。
「ごめん。それ、遅いよ」
そして、握った拳を腹部へ、真っ直ぐに打ち込む。
「――ぐほっ!」
鈍い衝撃音と共に、ケレイの身体が大きく折れ曲がる。
肺の空気が一瞬で吐き出され、剣が手から滑り落ちた。
拳を引くと、そのままケレイの膝が崩れる。
直後。完全に力を失った身体が、前のめりに倒れ、砂が小さく舞った。
一瞬の静寂。
そして――。
「おおおおおおっ!!」
裏庭が歓声で揺れた。
「一撃だ!」
「今の見たか!?」
「カウンター狙いを、正面から潰したぞ!」
興奮した声が、あちこちから上がる。
モンティも両手を振り上げて、喝采を叫んでいる。
「リルぅぅ!! やってくれると思ってたぜぇぇ!!」
ミーナちゃんも満面の笑みで駆け寄って、あらん限りの力で抱き着いて来た。
「リルちゃん凄い! こんなに強いなんて!」
手放しに褒められている間にも、周囲の冒険者たちが口々に言う。
「素手でC級を倒しやがった」
「しかも、二発で終わりだぞ」
「いや、あれは実質一発だろ……」
腕を組んでいた男が唸った。
「今の時点で、少なくともC級の実力はあるんだろ? まぁ、楽勝勝ちしてるから、それより上なのは確実だが……」
別の男も、難しい顔をさせて頷いた。
「いや……下手すると、あの年で既に、A級の実力はあるぞ。S級を狙うって話も、あながち……」
そんな声が、次々に広がっていく。
そして、誰かが笑いながら言った。
「なんだよ、あいつ。最下級のくせに、一番強ぇじゃねぇか」
「あぁ、最強の最下級だな」
どっと笑いが起きて、私は少し困った顔で頭を掻いた。
《変な二つ名が付いたわね》
ナナからもくすくすと笑いを送られ、私はかっくりと肩を落とす。
「ほんとだね」
足元では、ケレイが完全に伸びたまま倒れていたけど、もう――。
誰も彼を見てはいなかった。