「手を貸してやるのは良いんだが……」
「良いのか……!?」
ラーシュは目の前に吊るされた餌に、躊躇う事なく食らい付いた。
テーブルに手を突いて、前へせり出して来る顔を、手で払って追い返した。
「しかし、ツケは既に五つ溜まってるんだぞ? その事実まで忘れられては困るな」
「……うっ! あぁ、分かってるさ……」
「で、ここからまた、ツケを貯めても良いのか? 言っておくが、貸し一つを小さく見てるなら大間違いだからな」
「わ、分かってるさ……!」
顔を引き攣らせている所からして、その重大さはしっかり理解出来ているらしい。
しかし、事の大きさまで、理解してるか怪しいものだ。
私が胡乱な視線を向けると、オンブレッタが胸を叩いて頷いて来た。
「その辺りは、私の方が管理しておきますよ。たかだか果物を奢った程度で、一つ返上できた、なんて思われては大変ですから」
「……そうだな。お前に分かって貰えてる方が、色々と安心できるか」
「えぇ。小さく見たり、反故した時、どうなるかなんて考えたくもないですから。きっちり返済して貰いますとも。その際は、是非私の方に報告頂けると幸いです」
私が満足気に頷くと、オンブレッタは全てを心得ている表情で一礼した。
しっかり者の彼女が請け負ってくれるなら、私としても安心できる所だ。
ラーシュに一任するなど、恐ろしくて出来たものではない。
これで牽制も出来た事だし、貸しを返さない内に新たな依頼など、これからして来なくなるだろう。
その事実だけでも、こうして話を聞きに来た価値があった。
「……さて。それじゃあ、さっさと済ますか」
私は静かな寝息を立てて、身体を預けているリルをそっと退かす。
そうして、自らもソファーから腰を上げると、そこに優しく寝かせた。
「何か毛布をリルに」
声音を落としてオンブレッタに頼むと、心得た彼女が足音を立てずに退室して行く。
そうして幾らか待つと、手には厚手の毛布を持って帰って来た。
それを受け取り、リルの肩までしっかりと毛布で覆ってやる。
幼い寝顔に、頬を緩めて見つめた。
「すぐに帰って来るからな……」
頭を撫でたい衝動を、グッと我慢して傍を離れる。
そうして、テーブルの上に置かれた羊皮紙を、改めて手に取った。
冒険者はギルド加入時に、親指で血判を押す。
自分の名前さえ書けない者が多いから、そうした制度がある訳だが、これた単にサイン代わりに捺す物、という訳でもなかった。
血液は魔術的にも個人情報の塊だ。
だから、そこを精査して位置情報を割り出すのは、決して難しい事ではない。
ラーシュ達が後数日で国境を越える、と判断したのも、対象の現在位置が分かったからだ。
しかし、それは相手も十二分に理解している事だ。
だから位置が分かったとしても、そう簡単に追い付けないルートを選ぶ。
馬が使えない山林であったり、断崖絶壁の山を越えようとしたりもする。
その上、距離が遠退くほど、その位置情報は割り出せなくなっていく。
海を越えて別大陸に、ともなれば、尚さら難しいだろう。
彼らとしては、全くの別大陸で一から始めるにしても、実力はあるからやっていける自信があるかもしれない。
一年程度は
私はソファーから離れ、羊皮紙を手に持つと、オンブレッタに尋ねた。
「空き部屋はあるか? 出来れば五人ほど入っても、問題ない広さが良い」
「では、一階倉庫へご案内します。多少、物音が鳴っても問題にならないでしょうし」
「おう、よろしく頼まぁ。俺はリルちゃんを見ておくぜ」
「いいや、お前も出てろ。リルに近寄るな」
にべもなく言うと、ラーシュはショックを受けて打ちひしがれた。
だが、良く心得ているオンブレッタが、その肩を掴んで立ち上がらせる。
そうして、そのままラーシュを引き摺って共に退室した。
「ご安心を。この後すぐ部屋に戻り、リルちゃんは責任持ってお預かりしますから」
「うん、お前なら少しは安心できる。それに、どうせ長くは掛からない」
一階に下り、ロビーを経由して倉庫へ向かう。
扉を開けると埃と黴の臭いが鼻をつき、思わず顔を顰めてしまった。
「では、後はお任せ致しますね」
「あぁ、捕縛する縄でも用意してろ」
「それもこの倉庫にありますので」
「なるほど、良い場所を選んだな」
私がチラリと笑ってオンブレッタに微笑み、次にラーシュへ顔を向ける。
「準備しておけよ。多分……、三十分と掛からないから」
「幾らなんでも速すぎ……いや、そうでもないのか。ともかく、待ってるぜ」
私はそれに無言で頷くと、倉庫の床にマーキングを施す。
それは目に見える分かり易い印などではなかったが、術者にだけ分かる、確かな印として刻まれた。
そうして、次に羊皮紙の拇印を指でなぞる。
本来は専用の設備なくして解析できない、血液からの情報を読み取る方法だが、私にとっては造作もなかった。
そうして解析が終了するなり、魔力を練ってその場から転移し、姿を消した。
※※※
次の瞬間、軽い浮遊感と共に視界が切り替わる。
それは高い山脈の尾根で、周囲は一面の銀世界に覆われていた。
急激に変わった標高と寒さに、一瞬、息が詰まる。
吹雪いてはないものの風は強く、下手をすればそのまま尾根から滑り落ちる所だった。
突然の状況に私も驚いたが、それ以上に驚いたのは“黒鉄の戦鎚”だろう。
彼らはろくな防寒具も身に着けておらず、今にも凍えそうな顔を引き攣らせていた。
「――な、何だッ!? お前ら、こいつ……ッ!」
仲間に警告を呼びかけ、自らも武器を取ろうとした――その一声。
それが、彼に出来た唯一の抵抗だった。
次の瞬間には、私の拳が顎先を掠める。
それで脳を揺さぶられ、呆気なく昏倒した。
背中に戦鎚を背負っている事から、彼がリーダーで間違いないだろう。
その戦鎚を構える事なく、彼は雪の上に倒れ込んだ。
抵抗しようとしたのはリーダーだけで、他の四人は既に戦意喪失している。
誰も彼に続いて、武器を手に取ろうとはしなかった。
震えているのは、寒さから来るものだけではないだろう。
この状況に絶望しているのは、彼らの表情からも明らかだった。
「ギルドに処刑人がいるって噂は、本当だったのか……」
「リーダーが一撃で……」
「だから俺は、素直に出頭しようって言ったんだ!」
彼らは皆一様に、戦意を喪失している。
そして、話を聞く限り、逃避行はリーダーが強行した事でもあったようだ。
しかし、そのリーダーを諌められなかった時点で、彼らが加担しているも同様だ。
文句を言いつつ、こうして人の通らない道を進んでいるのだから、新天地でやり直す計画に、仄かな希望を抱いていたのだろう。
ただ、ろくな防寒具も身に着けてないのは、これが突発的な逃避行である事も意味していた。
追手を恐れてこの道を選んだにしろ、防寒具なしに踏破するのは無謀極まる。
あるいは、その防寒具すら買い込む姿を見られたくなかったから、かもしれないが、どちらにせよ賢い選択ではない。
「……お前達、“黒鉄の戦鎚”で間違いないな」
「そ、そうだ……! 頼む、命だけは……!」
「それを決めるのはギルドだ。私じゃない」
にべもなく言い放つと、最後尾にいた冒険者が身体を翻した。
「い、嫌だ……! 嫌だぁぁぁ……!」
振り返った先は、男四人が歩いた事で、膝まで埋まる雪道となっていた。
幾ら逃げようとしても、土の地面同様には走れない。
しかし、私にとっては関係なかった。
誰も歩いていない雪の上を、僅かな足跡だけ付けて走る。
雪の上を土の地面と変わりなく走り抜けると、その背後に追い縋って捕まえた。
「い、嫌だ……! 嫌――ッ!」
男の抵抗は激しかったが、長く続かなかった。
掴んだ襟首を無理やり後方へ引っ張り、それで男は呆気なく宙を飛ぶ。
そうして元の位置まで戻され、雪の上を転がった。
私は雪の上を戻りながら、彼ら四人に指を突き付ける。
「――警告だ。これ以上の抵抗は、戦意ありと見做し、攻撃する。それが嫌なら手を上に挙げろ」
他の男達は従順だった。
只でさえ青かった顔が、死人の様に白くなっている。
私は息を一つ吐くと、彼らに認識阻害の術を掛け、ここで出会った記憶を飛ばす。
それでようやく、彼らを倉庫へと転送する準備を始めたのだった。