門番の一人が、詰所へと駆けて行く。
残された者たちは、槍を構えたまま一歩も動かず、視線は私ではなく――アロガの方に釘付けだった。
当然かな、と思う。
相手は巨大な
風が吹くたびに、銀灰の毛並みが揺れる。
それだけで、空気がびりつくかの様だった。
「……本当に、暴れないんだな?」
門番の一人が、疑いを隠しもせずに言った。
私は大きく頷いて、それからふと首を傾ける。
「はい。あぁ、勿論……お願いすれば、ですけど」
ぴくり、とアロガの耳が動いた。
《その言い方、ちょっと誤解招くわよ》
(あっ……)
ナナにそう忠告されて、慌てて付け足す。
「勿論、今だって大人しくするように言ってます。……ちゃんと話、聞いてくれから」
「……魔獣が?」
信じられない、という顔で首を振られる。
普通はあり得ないことだから、その反応も仕方ないと分かる。
けれど――。
「アロガ」
私は後ろを振り返り、いつもと変わらぬ気楽さで声を掛けた。
「そのまま待ってて。何をされても、怒っちゃダメよ」
「ウォフ」
返ってきた短い返事に、門番たちの表情が変わった。
ざわ、と小さなどよめきが広がる。
「……従った……?」
「今、返事したのか……?」
《ふふ、いい見世物ね》
ナナが楽しそうに笑う。
その時、詰所の扉が勢いよく開いた。
「どこだ!?」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこにいたのは――。
「モンティ?」
「リル!!」
叫ぶように言って、全力で駆けてくる。
その後ろには、ミーナちゃんと、数人のギルド職員もいた。
「お前、何やってんだ!?」
開口一番が、それだった。
「何って……、さっき言った通りだよ。ちょっと試練を……」
「“ちょっと”で済むか!! こんな騒ぎにしやがって……!」
モンティが頭を抱える。
けれど、その視線はすぐにアロガへ向いた。
「でもさ、この試練って、騒ぎにならない方がおかしくない? だって、魔獣を引き連れて来る条件でしょ?」
「……野放しとは思わないだろ! 縄でふん縛るとか、檻に入れてるとか……何かそう言う、対処してるもんだろうが!」
「でも、“友達になる”って内容なのに……」
「それはあくまで、例えって言うか……。最初に成功させた、S級の言葉そのまんまなだけで……。普通はもっと、力で従えたり、何かこう……分かりやすく、屈服させたりするんだ!」
言いたい事を言ってスッキリしたのか、乱れた息を整えて、それからポツリと言った。
「それ……
「うん」
「俺は絵姿でしか見た事ないけど……。こんなに大きなモンだったのか……?」
その言葉を聞いて、ミーナちゃんも息を呑みながら首を振った。
「ううん、違うと思う。資料では、もっと……。もしかして、貴種ってやつなのかな……」
「それ、どういうヤツだ?」
「他より強くて大きくて、群れのボスになれるような個体、って意味」
アロガは、そんな視線を気にも留めず、ただ静かに座っている。
けれど、完全に無関心ではない。
ちらり、とモンティたちを見る。
その一瞬で、二人は背筋をぞくりと震わせ、身体を縮めた。
「ひっ……」
ミーナちゃんが小さく息を呑む。
「アロガ」
私はすぐに声をかけて、その首筋辺りを撫でながら宥めた。
「大丈夫。敵じゃないよ」
「……ウォフ」
とりあえず納得は示してくれて、それ以上の威圧は出さず、視線も外した。
その変化に、また空気がざわつく。
「……完全に理解してるな……」
モンティが呟く。
「お前、本当に何したんだよ……」
「森から連れて来ただけだよ」
「“だけ”な訳があるか! 明らかに異常なんだよ!!」
モンティはあらん限りに叫び、頭を掻きむしった。
でも、それは事実と想定の食い違いから来るものだ。
きっとモンティは、私が先程すぐ森に入って、その場で見つけたものを捕獲してきた……とでも思っているんだろう。
だけど、それは事実とは全く違う。
“森から”連れて来たのは本当だけど、生まれた時からずっと一緒の、姉弟だから出来たことだ。
私も野生の
だから、これはもしかしたら、詐欺みたいなものかもしれなかった。
でも、魔獣を従わせているのは事実だし、条件がそれなら十分満たしている。
きっと、問題はないだろう。
ミーナちゃんはモンティに賛成みたいで、その横で何度も頷いていた。
そのやり取りに、少しだけ緊張が緩む。
その時――。
「話は聞かせて貰った」
低く、落ち着いた声が割り込んだ。
振り向くと、そこにいたのは、ギルドマスターのラーシュだった。
「偉いさんの登場だ……」
「早く、この異常事態を何とかしてくれよ……」
誰かが呟き、人垣が割れては道が出来る。
そこを通って、ゆっくりとこちらへ歩いて来て――そして、アロガの前で止まった。
アロガは行儀正しく座ったままだったが、ラーシュとは真正面から見つめる形になる。
普通なら、それだけで威圧に飲まれる距離だけど、ラーシュは虚勢か……あるいは意地か。
必死に震えを抑えて立ち続けていた。
「……な、なるほどな」
呟く様に言って、じっと観察してから、目を細める。
「確かに“連れてきている”し、使役している様にも見える……」
その一言で、場の空気が変わった。
門番たちが顔を見合わせる。
「これは何だ……? 冒険者ギルドの催しか?」
「いや、催しとは違う。違うが……何しろ二百年ぶりの試練だ。騒ぎになる前に止めたかったんだが……」
《まぁ、今更だけど……。モンティじゃなくて、この人か……じゃなければ、オンブレッタに言うべきだったわよね》
(そうなの?)
《あたしもその辺、ちょっと抜けてたから大きな事は言えないけどさ。魔獣が街の直ぐ傍まで来るんだから、警備する人達にも通達するとか、当日の警備体制の連携とか、色々あるんじゃないかと思うのよ》
(アロガは危なくない)
《それを決めるのはね、残念ながらリルじゃないの。完全に、完璧に、安全だって証明出来てないと、騒ぎになるのは当然だわ》
むぅ、と唇を尖らせて、アロガを撫でる。
こうしていれば、少しはその安全をアピール出来るのかな。
そうしていると、ラーシュは実に渋い顔をしながら息を吐く。
「条件を満たしているのは確かだ……」
はっきりと、そう告げた。
胸の奥が、どくんと跳ねる。
「本当ですか!?」
「ああ」
ラーシュは頷いたが、そこへ更なる別の声が割って入り、再び空気が締まった。
「――待て」
静かだけど、でも妙に通る声が、場を切り裂く。
一度閉じていた人垣が、また自然と左右に割れた。
現れたのは、白磁の様な肌を持つ、長身の男だった。
――エルフ。
胸の奥が、ざわりと音を立てる。
お母さんの仇……であると同時に、エルフの全てが敵ではない、と冷静な部分が言い聞かせる。
あのエルフは、仇のエルフじゃない。
ギルドで値踏みする様に見つめて来た、あのエルフだった。
多分、きっと……関係ないエルフだとは思う。
思うけれど、確信はないから睨む様になっていまうのは仕方なかった。
《いきなり暴れないでよ》
(……分かってる。エルフは嫌いけど……、何もしてない人まで恨んじゃいけない。……でしょ?)
《どうせなら、恨みも何やら全て忘れて、慎ましやかに生きて欲しいんだけどね……》
(もう何度も話したでしょ。止めないよ、お母さんの誇りを取り戻すまでは)
《それが純粋に、取り戻す事だけに、気持ちが向いてれば良いんだけどね……。敵討ちとか、余計なことまで考えてたら……》
(分かってるよ。ちゃんと分かってる)
心の中で話している間にも、エルフはこちらに向かって歩いて来ていた。
陽光を受けて、金色の髪が淡く輝く。
そして、細められた翠の瞳には、露骨なまでの侮蔑が宿っていた。
纏う外套も、装飾も、明らかに高位そうな物に見える。
けれど何より目を引くのは――その態度だった。
“自分がここで最も上だ”と疑っていない、その空気。
《また面倒そうなのが……》
ナナが露骨に嫌そうな声を出して、大袈裟に嘆息した。