アロガの咆哮は、ただの威嚇ではなかった。
まるで、この場にいる全員へ向けた宣言で――そして何より、私の胸の奥へ突き刺さる誓いの声だった。
その一鳴きで、ざわめきが静まる。
誰もが本能的に悟ったのかもしれない。
この獣は明確な理性と、戦う意思を持っている……と。
エルフは肩越しに、一度だけ振り返った。
金色の髪が揺れ、細い目がこちらを射抜く。
そこに浮かぶのは軽蔑でも嘲笑でもなく、もっと純粋な感情だった。
恐れとそれを悟られまいとする、虚勢。
そして――、殺意に近い憎悪。
でもエルフは結局、何も言わず、ただ去っていった。
その背中が人混みに消えるまで、私は目を逸らせずにいたけど……しばらくして、誰かがようやく息を吐いた。
「……行ったな」
そう呟いたのは、灰髪の女冒険者だった。
門番隊長が険しい顔で頷く。
「面倒な奴だ。エルフとは、皆あぁなのか? だがともかく、言っていること自体は、きっと……制度としては正しいんだろう」
その言葉に、モンティが舌打ちした。
「だから余計に腹立つんだよ。正論の顔して差別を混ぜるからな」
私は、拳を握りしめたまま俯いた。
胸の奥はまだ熱い。でも、その熱の中に、確かな冷たさが混じっている。
――椅子は六つしかない。
――奪わなければならない。
私は、誰かを倒さなければならないんだ。
その現実が、今になって重くのしかかってきた。
《考え込む必要はないわ》
ナナの声が、静かに頭の中で響いた。
《あなたは奪うのではなく、“正当に勝ち取る”のよ》
(でも、相手はS級……)
《だからこそ、挑む価値がある。……でしょ?》
ナナはむしろ喜々としている。
いつもと変わらぬ気楽さで、私の背中を押すように言う。
《あなたは魔女の娘。逃げない》
私は、アロガの首筋に手を置いた。
温かな、生命の強さを感じた。
この子もまた、私と同じように戦場を歩くのだ。
私が選んで、そしてアロガも、私を選んだ。
この気持ちをどう言ったら良いだろう。
迷っていると、獣人の男が大股で近づいてきた。
傷跡のある腕を組み、眉を顰めたまま言う。
「おい、嬢ちゃん」
「……はい」
「今の話を聞いても、引く気はねぇんだな?」
私は当然頷き、毅然として応えた。
「——引きません」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
獣人の男は一瞬だけ目を細め、次に歯を見せて笑った。
「なら、まず一つ覚えとけ」
彼は指を立てた。
「S級ってのは、強いだけじゃなれねぇ」
「……強いだけじゃ」
「そうだ。あいつらには“特権”がある」
その言葉に、周囲の冒険者たちも黙って頷く。
モンティが苦い顔で言った。
「さっきも言ったろ? S級には“役割”みたいのがあるんだよ」
「治安維持なんかは、とりわけ有名だな」
門番隊長が低い声で言った。
「そうしたものに責任を持つって事でもあるし、出来ない奴に後継はさせられないだろう?」
隊長は次に私を見た。
「お嬢さん、冒険者になったばかりだろう? そうした事に責任なんて持てるのかね」
私は喉が鳴るのを感じた。
普通なら、恐怖を感じたりするんだろうけど、逃げたいとは思わない。
それが自分でも不思議だった。
灰髪の女冒険者が、静かに口を開く。
「大事なのは、どのS級を狙うかだ」
「狙う……?」
「六席の中にも、それぞれの色がある。純粋な武闘派もいて、“特権”もそっち向き。魔術方面で研究して、研究こそ特権っていうのもいた。人脈こそが大事だとかも聞くが……いや、これは噂話の類いだな」
その言葉に、周囲の冒険者たちがざわめいた。
「……つまり、権力でS級にいるの?」
「噂だろ、噂。元貴族のもいるし、そういう事にされてるんだろ。実際、S級ともなれば、政治も絡んでくる」
そう、と頷いて、灰髪の女は淡々と続ける。
「だから、挑む相手を間違えれば、戦う前に潰される」
私は背筋が冷えた。
ただ強い相手と戦えばいいんじゃないんだ。
例えば……もしかして。戦う前に罠を張られたりすることもあるんだろうか。
そんな事を考えていると、そうよ、とナナが言った。
《情報を潰されたり、依頼を回されなくなったり……。そうしたら、お金が尽きるわよね。仲間が離れることだってあるかも。そういう形で、妨害って言うのはね、あるものみたいなのよ》
ナナはこれ見よがしに溜め息をつき、やれやれ、と首を振った。
《S級の六席は、名誉以上に誇りとなるものよ。それを守る為なら、何でもする者もいる。だからこそ、あなたは慎重にならなきゃね》
(……どうすれば?)
《まずは、情報を集めましょ。何をするにしろ、誰を相手にするにしろ》
その時だった。
ギルド職員の一人がオンブレッタさんに駆け寄り、何かを耳打ちする。
するとすぐに、慌てた様子で近寄ってきた。
「リルちゃん! 少し……!」
ひどく慌てた様子に、何だか嫌な予感がする。
「どうしたんですか?」
「今、ギルドの上層から通達がありました。S級特例試練の件……正式に承認されるようです」
私は目を見開いた。
「え……っと、つまり、エルフの妨害はもう終わり? 喜んでいいの?」
「まさか……!」
オンブレッタさんは、苦々しい顔で両手を左右に振った。
「エルフには素早く情報を伝達する手段があるんだけど、それで次なる一手を講じたんでしょう。いえ、違う。多分……最初から、殆ど決まっていたんだと思うの」
「最初、って……どこから?」
「難癖つけようとする前から、かしら。やり込めて、取り下げる言質を得られたら最善。失敗しても……既に次の策が用意してあった、とそういう事だと思うの」
「そうかぁ? アイツはそんな事、考えてるようには見えんかったけど……。絶対認めないってオーラ、プンプンさせてたろ」
モンティが呟く様に言った台詞に、オンブレッタさんは当然、と言わんばかりに頷く。
「それはそうでしょう。プライドの塊みたいな種族ですから、やり込めたい、と本気で思っていたでしょうし……。でも、それはそれとして、しっかり失敗した時を想定もしていた、と……」
「その場合、どうなるの? さっき正式に認めた、とか何とか言ってたけど……」
「えぇ、今回の試練突破を“仮承認”として扱い、三日後に首輪の刻印が完成次第、公衆の場で従属確認と登録を行う、と」
「首輪……? 首輪が作られるって、知ってたの?」
「いいえ、正式な文言としては、“証明する為の物”とあったから。何かしら用意する所までは予想されていた、のでしょうね」
モンティが面白くなさそうに息を吐き、それから何かに気付いて眉を上げた。
「……っていうか、公衆の場でやるって?」
「えぇ、ギルド前の広場で。街の代表者も呼ぶそうです」
灰髪の女冒険者が小さく息を吐く。
「……見世物にする気か」
「違います」
オンブレッタさんは苦い顔で首を振った。
「これは……“封じ手”です。こうなったら、多少強引にでも、エルフの都合が良い様に、正式な手続きを踏むつもり……なのだと予想します。誰にも異論を言わせないために」
門番隊長が頷く。
「なるほど。街を巻き込んで、嬢ちゃんに不利な証明やら約定やらを、確定させようってわけだ」
獣人の男が唸った。
「だが、そんなに上手く行くのか? ……実際、もうその狙いとやらは、見抜いてしまっているわけだろう?」
私は胸がざわつくのを感じ、嫌な想像が頭をよぎった。
公開された場で。
大勢の前で。
もし、誰かが――アロガを刺激したら?
もし、首輪が壊れたら?
もし、アロガに暴れさせる魔術を使われたら?
その一瞬だけで、全部がひっくり返る。
《来るわね》
ナナの声が低くなって、嫌悪の声が響いた。
《彼らは必ず、恥を掻かされた分を取り返しに来る》
(……アロガに何かする?)
《すると思うし、最悪……殺しに来る可能性すらある》
私は息を呑んで、思わず全身に力を込めた。
でも、不思議と怖さは薄かった。
代わりに、腹の底に沈むような怒りがある。
――また奪うのか。
――私から、また大切なものを。
私はアロガの頭を抱き寄せて、その毛並みに頬を寄せる。
「アロガ……」
アロガは小さく鼻を鳴らし、私の髪を舐めた。
温かく、そして優しい。
いつもの……よく知る感触に、ようやく身体から力が抜けた。
私は顔を上げると、周囲のヒトたちを見回して言った。
「三日後、絶対に成功させます。誰にも文句を言わせない形で!」
獣人の男が、歯を見せて笑った。
「そうとも。そうじゃないとな」
モンティもまた、それに頷いた。
「よし。なら、俺たちも準備するぞ」
「準備……?」
ミーナちゃんが首を傾げた。
「護衛だ。公開の場は危険があって、妨害が来るかもしれないんだろ?」
門番隊長も頷いた。
「門番隊も警戒を強める。ギルド本部前なら、詰所からすぐだ」
そこへ職員がオンブレッタさんとラーシュを交互に見ながら、慌てて付け加える。
「ギルドからも警備員を出します……出せます、よね? 可能なら、全冒険者に協力要請を……」
私は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
皆が動いてくれている。
でもそれは、私だけのためじゃない。
獣人全体の誇りのため――そして、エルフの歪んだ差別を叩き潰すためだった。
私は大きく首を動かして頷いた。
「お願いします」
その時、ふいに――。
広場の端で、子どもが泣き声を上げた。
「うわぁぁぁん!」
びくり、と身体が震える。
反射的にアロガの耳が立った。
筋肉が硬直し、金色の瞳が鋭くなる。
私は息が止まるかと思った。
――だめ!
ここで反応したら……、この程度で落ち着きをなくしたら、必ずそれを餌にされる。
動揺を誘う一手……あるいは、刺激する一手として。
でも、予想に反してアロガは動かず、私を見るなり、ゆっくりと身体と尻尾を伏せる。
私はホッと胸を撫で下ろした。
それを見ていた灰髪の女冒険者が、静かに呟く。
「ただの獣でさえ、命令もなしに本能を抑えるのは無理だ。それを視線だけで、とは……」
私はアロガの首筋を撫でた。
そして心の中で、誓う。
三日後、絶対にエルフの思い通りにさせない。
アロガの安全性を証明して……そして、その先へ行く。
六つしかない椅子の、一つを手に入れる。
お母さんの剣を取り戻すために。
私自身が、私の足で立つために。
アロガが静かに吠えた。
「グルゥ……!」
それは、私だけに聞こえる誓いだった。
――行こう、一緒に。
そう言っている気がした。