アロガの低い唸りは、胸の奥まで震わせるような音だった。
それは威嚇ではない。戦う覚悟の声だ。
私はその首筋を撫でながら、静かに息を吐いた時、灰髪の女冒険者が一歩前に出た。
目を細め、私とアロガを交互に見てから言う。
「三日後が危険なのは分かった。だがそれ以上に危険なのは、“それまでの三日間”だ」
「……え?」
私が聞き返すと、女冒険者は短く頷いた。
「敵も当然、準備をする。準備する時間を与えられたのは、向こうにとっても同じ事だ」
門番隊長が眉をひそめる。
「確かに……。今すぐ襲うより、三日あれば罠も張れる」
獣人の男が舌打ちした。
「ギルド前の広場なんざ、見張りやすい場所だ。正面から来る妨害なんざ、物の数じゃないんだが……」
そこまで言うと、自信に満ちた声から一転、腕を組んで息を吐いた。
「まぁ、それは考えられんよなぁ……。もっと裏を掻いてくるだろうよ。
オンブレッタさんが顔を青くして呟く。
「……毒」
その一言に、場の空気が一気に冷えた。
私も予想していた事だけど、他人の口から出る意見だと、また別の恐ろしさがある。
「毒……やっぱり、使うと思う?」
「やるだけなら、そう難しい事じゃないから。食べ物に混ぜたり、水に混ぜたり。あるいは、魔獣にだけ効く薬草を使うという手も……」
オンブレッタさんはそう言うと、悔しげに唇を噛んだ。
「獣人は毒への耐性が高い人も多いけど、魔獣もまたその傾向が強い。
「ふざけんな……! 気高いエルフ様とやらは、毒なんて姑息な手、使うのかよ」
モンティが眉を吊り上げて言うと、それを見た灰髪の女冒険者が淡々と告げる。
「やるかどうかは分からない。だが、去り際の顔を思い返すと、打って損のない手は打って来る、と思えてしまう」
その声はどこまでも冷静で、的確に物事を判断しているだけに見えた。
「エルフは面子を潰された。しかも、大勢の前で。あれはもう、“負けた”というより、“晒された”って感じだったろう」
私は、喉の奥がひりつく思いがした。
だから……意趣返しをするのか。
こっちは何も悪くないのに……!
胸が痛い。怒りが込み上げる。
だけど、その怒りを無視するように、女冒険者は続けた。
「この三日間、お前たちは狙われる。まずは
私は小さく頷いた。
……そうだ。
面子を潰した張本人なのだ。
あわよくば、を狙って来てもおかしくない。
何も殺す必要はなくて、数日寝込む程度でも十分と考えるかもしれない。
私が倒れれば、アロガを守れなくなってしまうし、認定式の欠席により取り下げ、なんて考えているかもしれないし——何より、格好のチャンスだ。
害する事を許せば、認定前に
《敵はエルフだけじゃないわよ。街の誰かが、買収される可能性だってあるわ》
ナナが冷たい声音で言った。
《情報の伝達網が出来たということは、逆に言えば、情報が漏れる道も増えたってこと》
良いことばかりではないのだと、今さら気付いて私は息を呑んだ。
(……誰が敵で、誰が味方か分からない)
《そう。だから――この三日間、あなたは孤立しない様に気を付けなきゃ》
獣人の男が、私を見下ろして言った。
「嬢ちゃん、寝床はあるのか?」
「……いえ、街の外で野営をしようと……。アロガと一緒に居たいし」
男は即座に首を振った。
「駄目だ。それじゃあ、襲ってくれと言っている様なもんだ。……かと言って、宿は人の出入りが多すぎるし、何より、魔獣を預かる奇特な所があるとは思えん」
じゃあ、と門番隊長が、顎を撫でながら言った。
「ギルドの保護施設を使うのはどうだ? あそこなら見張りも付けられる」
「できます。ギルド長の許可さえあれば、特別措置として認められるものです」
オンブレッタさんが頷きながら言うと、モンティもしたり顔で腕を組んだ。
「ギルドの施設に入れたら、他よりずっと安全そうだな」
確かにそうだけど、私は少し迷った。
ギルドに守られる――それはありがたい。
でもそれは、逃げているみたいにも感じられて、何だか嫌だった。
《違うわ》
でも、ナナが私の心を見透かしたように、それを制してきた。
《これは逃げじゃない。戦うための準備よ。守られて当然で……何故なら、あなたは――あなた達は今、標的にされてるんだから》
私は小さく頷き、オンブレッタさんを見た。
「……お願いします。ギルドの保護施設に入ります」
オンブレッタさんはほっとしたように息を吐き、頷き返す。
「分かったわ。今すぐ手配する」
すると、灰髪の女冒険者が私の方へ近づき、視線を鋭くした。
「一つ忠告だ。その日が来るまで、
「……はい」
「餌も、水も、全部お前が用意するんだ。誰かが善意で差し出してきても、受け取るな。それが例え、旧知の仲でもだ」
私は背筋を正した。
「分かりました」
獣人の男が鼻を鳴らす。
「善意を疑うのは辛ぇが……この街には、エルフに媚びを売る奴もいる」
門番隊長がそれに頷き、低く言った。
「三日後、首輪の登録が終われば、ギルドが正式に責任を負う。だがそれまでは……嬢ちゃん自身が気を張らねばならん」
私がアロガを見ると、金色の瞳が見返してくる。
何も分からないはずなのに、私が不安なことだけは伝わっているようだ。
アロガは鼻先で私の頬を押し、軽く鳴く。
「ウォフ」
大丈夫、と言ってくれているみたいだった。
その時だった。
広場の奥で、誰かが叫んだ。
「おい! ちょっと! 大変だ!」
振り向くと、走ってくる男がいる。
汗だくで、顔色が悪い。
息が切れているのに、必死に声を張り上げていた。
「大変なんだ! 鍛冶屋が……鍛冶屋が襲われた!」
「――なに?」
ドワーフの鍛冶師、バルミーロ親方が目を剥いた。
「襲われた!? 店の方か! 誰の店だ!」
男は頷き、荒い息を整えながら続ける。
「今さっき、アンタの……! バルミーロの店が……火も出てるって……!」
その瞬間、広場の空気が一変した。
怒りが、爆発する。
「クソが……!」
「早速かよ!」
「エルフの仕業か!?」
獣人の男が拳を握り潰すように鳴らし、門番隊長が即座に叫んだ。
「門番隊! 消火の準備だ! 人員を回せ!」
「はいっ!」
オンブレッタさんが顔面蒼白になって呟く。
「そんな……三日どころか、一日すら待たずに……?」
灰髪の女冒険者が、その横で冷たく言った。
「三日待つ気なんて、最初からなかったんだ。よくもまぁ、とことんまで卑怯になれるもんだよ」
私はどうすれば良いか分からず、棒立ちになる。
でも心臓だけが、早ただ鐘を打っていた。
もう、攻撃は始まっている。
鍛冶屋が襲われたという事は、首輪を作る計画そのものへの攻撃だ。
――アロガの従属証明を潰す為に、最も簡単な所から突いてきた。
モンティが私を見る。
その目には、怒りと焦りが混じっていた。
「リル、どうする!?」
私は一瞬、判断に迷った。
ギルド施設に避難するべきか。
——それとも、鍛冶屋の救助へ向かうべきか。
守られるべきか。
戦うべきか。
《隠れていなさい、と言いたい所だけど……》
ナナの声音はどこまでも困ったものだ。
そこには諦めの様な色が見える。
《止めても結局、リルなら行くでしょうね》
(うん……、黙ってなんていられないもん!)
《そうね……。これはあなたが中心の出来事だから》
ナナの声は冷静で、そして揺るぎなかった。
私はアロガの首筋に手を置いて言う。
「……行くよ」
自分の声が、驚くほど落ち着いて聞こえた。
「鍛冶屋を守らないと、アロガの首輪が作れない。そうしたら、三日後も何もない」
「今だけは、ちっと目を瞑って貰おう。本当なら、
獣人の男がそう言って、灰髪の女冒険者が短く頷いた。
「言ってられないだろう。だから、私も行く。冒険者で周囲を固めて、民衆には安全性を確保していると見せる必要がある」
門番隊長が叫ぶ。
「門番隊、先行する! 冒険者は後に続け!」
「おう!」
オンブレッタさんが慌てて言った。
「リルちゃん、待って! ギルドの正式な許可を――」
「そんなの待ってたら間に合わないよ!」
私は叫びながら走り出したし、アロガもそれに続く。
地面を蹴る音が重なり、背後から無数の足音が追った。
――街の空気が変わった。
さっきまでの議論の熱はなく、代わりに焦りに満ちた熱が浮き上がっている。
鍛冶屋の方角へ向かう道の先には、黒い煙が立ち上っているのが見えた。
私は息を呑み、歯を食いしばる。
(……そこまで、するのか)
これが打って損のない手、なのだとしたら、非道と言うほかない。
まず行う妨害の一手として、首輪を作らせないのが一番――。
そう考えて、やる妨害が放火だなんて、こんなのは外道のすることだ。
――でも、今は。
余計な考えをしまって、前を向く。
今は、この卑劣な妨害を叩き潰すために、現場へ急ぐだけだった。