走る勢いに任せて、私はひたすら前に進んだ。
いつの間にやら門番隊を追い越してしまい、後ろから制止の声が届いて、それで気付いた。
「先行し過ぎだ! 護衛の冒険者を置き去りにしてどうする!?」
それでも足は止められない。
気ばかりが焦る。
背後では門番隊の鎧ががしゃがしゃと鳴り、その横から冒険者たちの怒号が重なっていた。
その彼らも制止の声を上げていたけれど、無理と分かれば、すぐに別の声が重なる。
――鍛冶屋を守れ。
――卑怯な真似を許すな。
道の先を進めば、アロガに面食らって逃げる者も現れる。
その背後では門番隊が追っているので、事態を勘違いしている者までいた。
それらを無視して、私は走る。
少しでも速く着けば、それだけ早く火を抑えられる。消火が進む。
道の先を見ていれば、煙が濃くなっていくのが分かった。
黒い煙と、焦げた匂い。
それが風に乗って鼻を刺した瞬間、胸の奥が冷たくなった。
冗談でも比喩でもない、本物の火が屋根の間から僅かに顔を出している。
アロガが前へと出て走り、低い唸りを漏らした。
「グルルル……!」
毛が逆立ち、鼻先がぴくぴくと動く。
嗅ぎ取っている匂いは、煙だけじゃない。
私もまた、スンスンと鼻を動かした。
焦げた木の匂いの奥に――血と汗の匂いが混ざっている。
(誰か……怪我してるの?)
そう思った瞬間、心臓が跳ねた。
更に駆けて角を曲がった先では、ようやく鍛冶屋の通りが見えた。
そしてそこでは、地獄みたいな光景が広がっていた。
バルミーロ親方の鍛冶屋の屋根から、炎が噴き上がっている。
火の粉が舞い、熱風が吹き付けた。
周囲の店の人間たちが桶を持って走り回り、泣き叫ぶ声が飛び交う。
「水だ! 水を回せ!」
「隣に燃え移るぞ!」
「子どもをどこか遠くへ!」
怒号と悲鳴が響き渡り、そこへ木材の爆ぜる音が挟まる。
炎の赤と煙の黒が、街の空を汚していた。
門番隊長が追い付くなり、前へ出て叫ぶ。
「門番隊! 左右に展開! 消火班と警戒班に分けろ!」
「了解!」
隊員たちが一斉に散り、桶を運ぶ者と、剣を抜いて周囲を警戒する者に分かれる。
まるで本物の戦場みたいだった。
私は何をするべきか迷い、その場に立ち尽くしてしまう。
炎の熱が頬を刺す。
汗が噴き出し、喉が渇く。
それでも目が離せなかった。
バルミーロ親方の鍛冶屋が燃えている——。
お母さんに連れられて入った、思い出の場所……。
抱き上げて貰いながら、武具が立ち並ぶ物珍しさに、はしゃいで……。
――お母さんにとっても、大事な場所だったはずだ。
それが燃えている。
「グルダーニィ……!!」
バルミーロ親方が叫びながら駆け出す。
だが、門番隊の一人が腕を伸ばして止めた。
「危険です! 屋根が落ちます!」
「うるせぇ! 儂の弟子が……弟子はどうなった!? 中にある炉は!? 爆ぜたら隣まで吹っ飛ぶぞ!」
親方は歯を剥き、必死に暴れようとする。
その姿は職人の誇りと、弟子への労りに満ちていた。
命を賭しても惜しくないものが、あの炎の中にあるのだ。
私は拳を握りしめた。
きっとそれは師弟愛であったり、家族愛であったりするんだ。
――お母さんと同じように。
その為ならば、炎の中にさえ投げ出せるに違いない。
私が一歩、踏み出そうとしたその時、灰髪の女冒険者が私の肩を掴んだ。
「惑うな。探せ」
「……探す?」
「放火犯だ。火は陽動の可能性が高い」
私は息を呑んだ。
陽動――。
つまり、狙いは別に……?
それは何だろう、と思ったその瞬間、アロガが唐突に唸り声を強めた。
「ガルルル……!」
牙が覗き、耳が鋭く立つ。
そして次の瞬間――アロガは私の前に回り込み、私を庇うように立った。
身体が低く沈む。
獣の戦闘態勢だ。
「……え?」
私が反射的に周囲を見ると、煙の向こう――人影が一つ、屋根の上にいた。
黒い外套を身に付け、顔は布で覆われている。
人間か、獣人か、それすら分からない。
ただ、その手に握られているものは、ハッキリと見えた。
――弓だ。
それも取り回しや持ち運びし易い短弓で、既に弦は引かれていて――狙いは、私。
まっすぐ、私の胸を狙っていた。
「――ッ!!」
声にならない悲鳴が漏れる。
それと同時に矢が放たれた。
風を切る音と共に、一直線に飛んでくる。
――だが。
それより前に、アロガが跳んだ。
轟音のような踏み込みと共に身体を捻り、矢を剣のような牙で弾いた。
鉄の矢尻が砕け、火花が散る。
アロガは着地と同時に低く唸り、屋根の上の影を睨んだ。
「なっ……!」
それで周囲の冒険者たちも気付く。
「弓だ!」
「襲撃者がいる!」
「リルを狙ってるぞ!」
門番隊長が即座に怒鳴った。
「警戒班! 弓兵を押さえろ!」
「了解!」
門番隊の数人が盾を構え、矢の射線を切るように前へ出る。
でも、屋根の影に動揺は見えなかった。
次の矢を番え、今度の狙いを――アロガに変える。
てっきり二の矢も私を狙うと思って、対応が一瞬、遅れた。
(やめて……!)
矢が放たれる。
狙いは首筋、致命の一撃――。
《任せて!》
血の気が冷えている間に、ナナが風の道を作り、矢を逸らした。
軌道が変わったのを理解してか、アロガは避けず、矢が毛皮を掠める。
血が一筋だけ飛んだ。
その間に我を取り戻した私は、咄嗟に弓を取り出し、矢を番えた。
斜角が悪く、上手く相手を狙えない。
屋根の上の相手を狙うには、いかにも地の利が悪かった。
(ナナ、お願い!)
私は曲射で影を狙う。
普通なら、命中する筈のない矢だけど――。
「うそ……!」
誰かが驚愕の声を漏らす。
襲撃者が一瞬だけ怯み、背を向けて逃げようとした所へ、矢が襲った。
まるで襲撃者の動きを読んで命中させたかの様だが、勿論これは、全面的にナナのお陰だ。
命中した矢が襲撃者の外套を裂いて、肩に命中する。
「ギャアッ!!」
悲鳴が炎の中に響き、弓が手から落ちた。
その頃には門番隊も屋根へと上り終わっていて、走り込んで取り押さえる。
「捕らえろ!」
「縄だ、縄よこせ!」
「動くなよ、容赦せんぞ!」
襲撃者はまだ抵抗しようとしたが、門番隊の数には勝てず、押さえつけられ腕を捻られた。
もう片方の手で握っていた矢が地面に落ちる。
その矢尻が、ぬらりと黒く光った。
オンブレッタさんが何かに気付いた様子で駆け寄り、息を呑む。
「……これ。毒だわ……!」
灰髪の女冒険者は、目を細くさせて見て、ひどく冷静に言った。
「火事の陽動……いや、リルが来るとは限らなかった筈だから、あわよくば、一挙両得を狙った形か。鍛冶屋が焼けるだけでも、それで十分意味はある」
獣人の男が怒りで歯を鳴らす。
「あの耳長野郎……!」
私にも怒りはある。
それでも今は、アロガの方が心配だった。
駆け寄って手傷を確かめると、肩の傷から血が滲んでいた。
「アロガ! 大丈夫!?」
アロガは私を見て、鼻を鳴らした。
「ウォフ」
平気だ、と言いたげで、実際傷自体は大したことなさそうだった。
でも、傷は浅かろうと、問題は毒の方だ。
《まずいわね》
ナナが深刻そうに呟いた。
《アロガは魔獣だから、毒にもそれなりに強い。でも、エルフが用意した毒なら、“それなり”で耐えられる毒じゃないと思うわ》
私は震える手で、傷口に触れようとし――慌てて引っ込めた。
触れたら、毒が移るかもしれない。
オンブレッタさんが叫ぶ。
「治癒術を使える人を! すぐに!」
「ここにいるぞ!」
誰かが叫び、白衣の冒険者が駆け寄って来た。
その人はアロガの傷を見た瞬間、顔色を変える。
「……この毒、かなり強い。手に余るかもしれない」
聞きたくない言葉に、私は息が止まりそうになった。
「助かりますか!?」
即答しない……してくれない。
それが一番怖かった。
白衣の冒険者は、短く祈りの言葉を唱えすと、傷口に手をかざす。
白い光が傷を癒し、血は止まったのに、その顔は未だ険しいままだった。
「応急処置は出来た。しかし毒は……、自然のものじゃないな。調合毒だから、解毒薬なしには無理だ。せめてレシピがあれば、もう少し何とか出来るんだが……」
「そんな……」
「症状を遅らせる事は出来る。でも、可能な限り速く、解毒薬を手に入れないと……」
この先は言わなくても分かる。
そして、毒の持ち主など分かったようなものなのに、手に入れるのは絶望的だった。