川の匂いが濃くなるにつれて、街の喧騒が背後へ遠ざかっていく。
燃える木材の爆ぜる音や怒号、それに悲鳴もまだ聞こえるのに、まるで別世界の出来事のようだった。
今、私の世界にあるのは――アロガの息遣いだけだ。
隣を走る巨体の足音は重いのに、動きは驚くほど滑らかで、獣の身体が本来持つ美しさがあった。
でも、その呼吸は確かに荒い。
――毒が回ってるんだ。
それを意識した途端、胸がきゅっと縮む。
走るたびに、その時間が削れていく気がして、私は更に足を速めた。
「リル! 待て!」
後ろから、モンティの声が飛ぶ。
息を切らしながらも、必死に追ってくる足音が聞こえた。
それだけじゃない。
獣人の男の重い足音と、灰髪の女冒険者の軽い足音、門番隊の鎧の音も続く。
少数精鋭――僅かな人数だけど、今はとてと心強く感じる。
ありがたい、と思うのと同時に、怖くもあった。
――これ以上、巻き込みたくないのに……。
川沿いの道へ出ると、風が冷たくなった。
湿った土の匂いが鼻を刺し、草むらの中で虫が鳴いている。
街の外れは、急に暗い。
家の灯りもまばらで、道の端には古い木柵が並んでいるだけだった。
「……あれが」
私は思わず息を呑む。
前方に、薄汚れた木造の建物が見えた。
傾いた看板が、かろうじて文字を残している。
――《川の畔亭》。
ケレイが言った宿だ。
私は喉が鳴るのを感じた。
——ここだ。
ここに解毒薬がある。
ここに毒の調合元がある。
そして――もしかすると、ここにまで、エルフの手が伸びているかもしれない。
《大丈夫よ》
ナナの声が静かに響いた。
《あの女冒険者が言った通りだわ。エルフは確かに知恵が回るみたいだし、“火”と“毒”の罠も、突発的にしては良く出来てた。でも、この短時間で、あちこちに手を回せる筈がない。……そうでしょ?》
(……うん)
私は足を止め、仲間たちを振り返った。
「ここ……、だよね?」
モンティが短く頷く。
「そうだな、間違いない。けど、突っ込む前に作戦だ」
獣人の男が鼻を鳴らし、周囲を見回した。
「窓は二階に二つ。裏口もあるな。逃げ道は川沿いの小道か」
門番隊からは三人も来てくれていて、それぞれが剣の柄に手を置く。
「一応、包囲するべきじゃないか? 何者かが潜んでいるかも……」
灰髪の女冒険者が私を見てから、宿の方へ顔を向けた。
「二号室はどこだ?」
私もそれにつられて、宿を見上げた。
古い建物の二階、右側の窓……そこには何故か視線が吸い寄せられる。
特別、何かがある、という訳ではなくて、匂いが微かに漂っている気がした。
薬品の、鼻を突く
「……あそこ」
私が指差すと、女冒険者は短く頷いた。
「よし。門番隊は裏を塞げ。ベリシスは正面を抑えて、モンティは私と上がる」
「了解だ、グレイス」
ベリシスって誰、と声を上げる前に、獣人の戦士から野太い声で返事があった。
そして、的確な状況判断や、冷静沈着な女冒険者の名前はグレイス、と……。
未だに自己紹介していなかった事に気付き、遅まきながらする方が良いのか迷った。
でもすぐに、モンティから声が上がる。
「おう、それで良いぜ。リルは?」
聞かれるまでもない。
私は迷わず、強い瞳で答えた。
「当然、私もアロガと行くよ」
それを聞いた、グレイスの目が細められる。
「毒の影響が出た
「でも――」
「分かってる。お前が焦るのも、置いて行きたくない理由も」
グレイスは一拍置いて、それから一段声を低くして言った。
「だけど、
理屈の上では正しいし、そうする他ないのだとも分かる。
でも、どうしてもアロガを置いていくのは不安があった。
そんなアロガは私を見下ろし、小さく鼻を鳴らす。
「……グゥ」
嫌だ、と言っているように聞こえた。
私は唇を噛んで考える。
置いていくのは怖い。
だけど、アロガを連れて入れば、グレイスの言うとおり、宿屋その物を倒壊してしまうし、身動きだってろくに出来ないだろう。
そして最悪の場合、倒壊に加え、単なる一般客を巻き込んで、怪我させてしまうかも……。
《リル……》
ナナがそっと声を発した。
《ここは理性が必要よ。アロガはきっと、あなたが危険なら、毒が回るのもを顧みず、戦おうとするでしょう。そうなったら……三日後の証明どころじゃなくなる》
(……うん)
《アロガを信じなさい。待てる子よ》
私はアロガの首筋を抱いて、額を寄せた。
「……アロガ。ここで待ってて。絶対戻る」
アロガは一瞬だけ瞳を揺らし――それから、低く唸った。
「……ウォフ」
不満そうだったけれど、明確な拒否ではない。
私の気持ちを汲み取って、何とか飲み込もうとしているのが分かった。
ひそかに胸の内を温かくしていると、獣人の男――ベリシスが、アロガの横に立つ。
「俺が見てる。嬢ちゃんが戻るまで、絶対に誰も近付けさせねぇ」
彼の声には真摯な響きがあった。
それを信じて頷いたその時、門番隊が短く指示を出す。
「行くぞ」
そして私たちは、宿へ向かって歩き出した。
走りたい。
今すぐ突っ込みたい。
でも、ここで焦って……もし何かを失敗したら、アロガは助からない。
待ち構える罠はない――という話だったけど、用心まで捨てて良い、と言う訳ではなかった。
お母さんならきっと、こういう時こそ注意しなさい、と言うだろう。
一歩ずつ、慎重に進む。
宿の入り口に立つと床板が軋み、今はそんな音すら、耳障りに感じた。
宿の扉を、グレイスが乱暴な手付きで、まるで殴り付けるかの様に開ける。
「邪魔するぞ」
扉がそっと押し開けられた。
中は薄暗く、酒と汗とカビの匂いが混ざっていて、客の姿は見えない。
カウンターの奥で、宿の主人らしき老人が、うっそりと顔を向けてきた。
「何だ、まさか客じゃないよな……? おめえさんらみたいな、身なりの整った奴らが来る所じゃねぇぞ」
しかし、それを無視してグレイスが声を細めて詰問する。
「二号室には誰かいるか?」
「と、突然、何だ? 知らねぇよ……今日は客なんて……」
嘘だ。
声や視線には、明らかな動揺が漏れている。
グレイスがカウンターを飛び越え、主人の胸倉を掴んだ。
「知らないで済むと思うな。毒が回った
主人は青ざめ、震えながら叫んだ。
「あ、あぁ……! すまねぇ、来てる! 金だけ置いて、勝手に鍵を取って上がったんだ! 本人は来れないから、代わりに引き払うと言って……!」
私は息を呑んだ。顔が歪むのを抑えられない。
――既に手を回され、ここに来た何者かがいる。
「すまないね、リル。あたしの読み違いだ。エルフの奴め……、予想以上に手が早い」
それはナナも同様だったので、攻める気にはならない。
でも、今はとにかく急ぐ方が先だった。
私たちは階段を慎重に駆け上がる。
木の階段がぎしぎしと鳴り、今にも崩れそうだった。
二階の廊下は狭く、暗い。
そして、右端の扉からは、僅かに光が漏れていた。
あれが、二号室……。
グレイスが目で合図して、頷き返すと一歩踏み出す。
「――行くぞ」
扉を蹴り飛ばすと板が砕け、扉が内側へ吹き飛んだ。
「動くな!!」
部屋の中には、簡易な机があり、薬瓶がいくつも並んでいた。
その他にはすり鉢、乾燥した草、黒い粉末など……。
強烈な薬の匂いが鼻を突き、調合の痕跡が露わとなっている。
ここが二号室で間違いない。
でも、そこにいるはずの人物が――何処にもいなかった。
「……逃げた!?」
モンティが叫ぶと同時、グレイスは即座に窓へ走り寄り、外を覗き込んだ。
「下だ!」
その瞬間、窓の外で何かが跳ねる影が見えた。
黒い外套を身に付けた、いかにも姿を隠したい者がするような格好だ。
「追うぞ!」
門番隊が叫ぶのを聞きながら、私は机に飛びつき、薬瓶を掴んで中身を確認する。
透明、赤、黒……。
種類は幾つもあって、どれが解毒薬なのか分からない。
でも、一つずつアロガに試す訳には、あまりにも危険すぎた。
どうすれば……。
《嗅いでごらんなさい》
ナナが真剣な調子で言った。
《毒と同じ匂いの反対――薬草の匂いが強い瓶があるはず。苦い匂いよ》
私は鼻を寄せ、次々に瓶の栓を嗅ぐ。
――甘い匂いは違う。
――酸っぱいのも違う。
そして、最後の一本。
強烈な苦味の匂いがして、鼻の奥が焼けるような刺激があった。