(これだ……!)
私が瓶を握り締めた、その時――。
床板が、ギシ、と鳴った。
背後へと、私は反射的に振り向き――息が止まった。
部屋の隅で、布が掛けられていた場所から、ゆっくりと人影が立ち上がろうとしている。
——もう一人いた!?
二号室には二人で来ていて、その一方が逃げずに隠れていたのだ。
やはり、その身体には黒い外套をまとい……そして、その手には細い短剣が握られている。
その刃が、ぬらりと不吉な光りを放った。
――毒だ。
「……っ!」
身体が凍る。
男は何も言わず、音すら立てず、一瞬の内に飛びかかってきた。
純粋な殺意に当てられて恐怖する。
私は咄嗟に瓶を抱えたまま後ろへ下がる事しか出来ず、短剣が頬を掠め、血が滲んだ。
「リル!!」
モンティが叫ぶと共に、剣を抜く。
でも、狭い部屋で振り回せば、味方を巻き込む危険があった。
動ける場所が少ない。
男がもう一度、突きを放つ。
瓶を落とせば、アロガが死ぬ。
その余裕のなさが、私の身体を固くしていた。
《リル! 右!》
ナナが叫び声で咄嗟に身体を捻り、刃を避けた。
短剣は壁に突き刺さり、木材が割れる。
その隙に、グレイスが男の腕を掴んだ。
「捕まえた!」
そのまま腕を捻り上げ、関節を折る勢いで締め上げる。
「ぐっ……!」
そこへモンティが背後から男を押さえつけ、喉元に剣を当てた。
「動くな」
男は抵抗しようとしたが、数の有利は覆せず、そのまま押さえ込まれた。
でも――だと言うのに、男の口元が笑みで歪んでいる。
「……来るのが少し、遅かったな」
低い声だった。
その一言が、私の背筋を凍らせる。
「ちょっと待て! こいつ、操られてないのか!? 自主的な協力者……? お前、エルフの部下か手下かよ!?」
モンティが怒鳴り付けると、男は薄く笑ったまま、呟くように言った。
「解毒薬は……、それでは足りまい」
「……え?」
思わず、私の口から震える声が漏れた。
男は続ける。
「……
私は手の中の瓶を見た。
確かにこれは、一般的には小瓶の部類だ。
大人一人には十分でも、アロガには少な過ぎる気がする。
もし、全身に毒が回っているなら――。
もっと量が必要だった。
男は私の反応を見て、その笑みを深めた。
「……だが、お前が飲む分には、十分かもしれないな」
ぞわり、と鳥肌が立つ。
その考えに吐き気がした。
こいつは、最初からこうするつもりだったんだ。
逃げようと思えば逃げられたのに――。
もう一人の仲間と一緒に逃げられたのに、敢えて残って、誰かを毒に犯そうとした。
「ほんの少しでも傷を与えれば……、我らの勝利みたいなものだ。そして、選ばせる」
「この……ッ!」
――アロガを助けるか。
――自分が助かるか。
命を天秤に乗せ、どちらに傾くか楽しんでいる。
そしてきっと、アロガを見捨てる、と思っているんだろう。
アロガを見捨てれば、当然S級への試練は終わりで、そしてアロガを助ければ……そんなの言うまでもない。
怒りの衝動そのままに殴りつけたくなり、私は拳を強く握り込んだ。
「……ふざけるな」
震える声が抑えられない。
「アロガは、アロガは……私と一緒に、ずっと一緒にいるんだ!」
男は笑う。
「それは無理だ。その内きっと、誰かを喰ってしまうに決まっている。逆に感謝して欲しいものだ。誰かを害する前に、魔獣を仕留めるのだから……」
「うるさい!」
アロガの事を、何も知らない癖に……!
アロガは、絶対そんな事しないなのに……!
怒りで視界が白く染まりそうになったその時、ナナが低い声音で言った。
《リル。瓶の中身を、ちよっと精査してみたんだけど……》
(……え?)
《これ、解毒薬じゃない。“毒の巡りを止める薬”だわ。つまり――単に症状を遅延させるだけの薬》
私はまたも怒りで、我を忘れそうになった。
解毒薬の振りをして、実は全くそんなものではなかった。
結局、共倒れを狙ったのだ。
剣の柄に手を当てたその時、ナナから再び声が掛かる。
《大丈夫、敢えて遅延させるだけの薬を作れるんだもの。解毒薬もきっとある。それにね、致死毒には必ず、万が一に備えて解毒薬も用意するものよ》
(万が一……? 間違って、自分の指を切りつけた時とか?)
《かなり間抜けなケースだけど、つまりそういう事ね》
私は男を睨んで、床板を蹴り付ける。
「……本当の解毒薬はどこ?」
男の笑みが、一瞬だけ固まった。
その瞬間、確信する。
――ある。
本当に、これとは別の薬が、何処かにあるんだ。
グレイスは男の髪を掴みんだかと思うと、躊躇なく頭を床に叩きつけた。
「吐け!」
鈍い音がもう一度響いたけど、男の方は呻き声を上げるだけで、返事はろくにない。
グレイスは、容赦なくもう一度叩きつけた。
「我慢比べなんて、やるだけ無駄だ。苦しみが長引くだけだぞ」
額が割れて、血が床に滲む。
そこで初めて、男の目に恐怖が滲んだ。
私は震える息を吐き、瓶を握り締める。
もうこれ以上、時間の猶予はない。
アロガは外で待っていて、今も毒が回っている。
そのアロガに、もしもの事があったら……。
嫌な想像を追い出したくて、堪らず私は叫んだ。
「言え!! アロガが死んだら、お前を絶対に許さない!!」
男は、血混じりの唾を吐き――笑ったまま言った。
「……川の……下……」
グレイスが眉をひそめる。
「川の下だと?」
男はかすれた声で続けた。
「……水車小屋の……地下……」
「そんな場所が、あるの?」
本当かどうか疑わしい。
口から出任せの可能性だってあった。
《あるわ》
でも、ナナがそう言って断言した。
《古い密造酒の貯蔵庫が、そこにあるって噂。何かを隠すには打ってつけだし、逃げた片割れも、そこに身を隠しているかも……》
グレイスがモンティを見て、一つ頷く。
「急げ」
「分かった! 水車小屋に向かう!」
私もまた、瓶を握り締めたまま、モンティを追うようにして走り出した。
廊下を抜け、階段を駆け下りる。
宿の扉を飛び出した瞬間、冷たい水気を含んだ風が肌を刺した。
そして私は、外で待つアロガを見て顔を歪める。
アロガは伏せた姿勢で、息が荒く、目も半分閉じている状態だった。
それでも、私を見た瞬間だけ、耳がぴくりと動く。
「アロガ!!」
すかさず駆け寄り、膝をついて瓶の栓を抜く。
苦い匂いが立ち上がり、アロガは少しでも遠ざかろうと顔を背けた。
「飲んで……お願い、飲んで……!」
アロガの口元へ瓶を押し当てると、アロガは難色を示した。
どうあっても飲みたくないみたいで、動くのも億劫そうなのに、顔だけは瓶から逃げようとした。
「大丈夫だよ、アロガ。ほら、お薬だから」
私も毒を受けている。
だから少量口に含み、しっかりと飲み込む所を見せてやる。
「ほら……ね? お薬!」
何度もする懇願に負けて、弱々しく舌を動かし、液体を飲んだ。
ごく、と喉が鳴る。
その音が、涙が出るほど嬉しかった。
私はアロガの額に手を当てる。
――熱い。
毒が燃えるように身体を蝕んでいる。
モンティはその場で足踏みしながら身も守っていてくれていたが、遂に焦れて身体の向きを変えた。
「リル、先に行ってるぞ!」
その頃にはグレイスも出て来ていて、モンティの直ぐ傍に立った。
「アイツはとりあえず、拘束して転がしておいた。宿屋の主人には、見張っていろと伝えてある。――それより、急ぐぞ。本命はそこだ」
それは勿論、分かっている。
でも、苦しむアロガの傍を離れたくなかった。
《解毒薬を持ち去ったのは、手元にその毒があるからだわ。万が一の為に、必要だから持ち去った。でも、もし宿屋の方が失敗したと知れたら、破棄するかもしれない。スピードが大事だわ。何より――》
一度言葉を切って、それから意を決したかの様に言う。
《あなただって、毒を受けているのよ。小さなかすり傷だったから、まだ動けているけど、それも時間の問題。動かないならそれでも良いから、さっさと二人に任せちゃいなさい》
「……ううん、行くよ。大丈夫、動ける」
私は立ち上がり、アロガの首筋を撫でた。
「……もう少しだけ。絶対、助けるからね」
アロガは弱々しく鳴いた。
「……ウォフ」
それは、信じてる、と言っている声にも聞こえた。
私は前を向いて、モンティが動くのと同時、弾く様に走りだした。
水車小屋へ向かう途中、相手を見失ったのか、門番隊とすれ違い、グレイスが何事かを言って宿に向かわせる。
それを気にするより、今は水車小屋の地下へ――!
火事は始まりの合図に過ぎず、一の矢で毒を。
そして、解毒薬を求めた先には二の矢の罠があった。
だったら、この先にだって、何かあっても驚かない。
更に気を引き締めて進む。
——ここからが、正念場だった。