川沿いの道を走るたび、靴底が
水気を含んだ風が肌を刺し、焦げた匂いが遠ざかる代わりに、川の生臭さと苔の匂いが濃くなる。
――水車小屋は、すぐそこだ。
道の先で、川に突き出すように建つ古い木造の小屋が、ぼんやりと黒い影となって浮かび上がった。
水車は回っていない。
川の流れに押されて、ぎし……ぎし……と、死んだ獣の骨みたいに軋むだけだった。
「……ここか」
モンティが息を吐き、剣を抜いた。
グレイスは視線を鋭くし、足元の泥を踏み締めながら周囲を見回す。
「静か過ぎるな」
その言葉が、嫌に胸に落ちた。
――確かに、静か過ぎる。
本当に逃げた片割れがここに居るのなら、きっとその奥で待ち構えているんだろう。
私は喉を鳴らし、痛む頬の傷に手を当てた。
血はもう止まっているけれど、体の芯が妙に熱い。
毒が、確実に私の中でも襲い掛かろうとしていた。
《無理しないで。微量の毒だから何とかなっているけど、本来なら安静にして、他に任せておくべきなんだから》
ナナの声が、私の頭の中で静かに響いた。
《息だって荒い。焦ってる証拠よ》
(焦るよ……!)
アロガが待ってる。
あの時のアロガは息が細く、目を閉じかけていた。
あの巨体が弱り、苦しんで、私を見て出来ることが、耳を動かす事だけだった。
思い出しただけで、胸が張り裂けそうになる。
「——リル」
グレイスが低い声で呼んだ。
「ここから先は、より慎重に行くぞ……。罠があったら――踏んだ瞬間に終わる」
私はただ、重々しく頷くしかなかった。
水車小屋の扉は半分壊れていて、隙間から冷たい空気が漏れている。
腐った木と油の匂いが混じって、キツイ匂いが鼻を刺した。
モンティが肩で扉を押し開ける。
ぎい、と嫌な音が響き、闇が口を開けたように奥が覗いた。
小屋の中は、荒れ放題だった。
割れた樽。錆びた工具。濡れた藁。
天井から垂れた縄が、風もないのに僅かに揺れている。
その揺れが、誰かの気配に見えてしまって、私は唾を飲み込む。
「地下への入口は……」
モンティが言いかけた時、床板の隙間から、冷たい空気が吹き上がった。
――匂いがする。
薬草の匂いじゃない。
腐ったような、甘ったるい匂い。
――毒だ。
「……こっち」
私は足元を指差した。
床板の一部が不自然で、釘の跡が残っている。
グレイスがすぐにしゃがみ、指で釘をなぞった。
「最近、打ち直したな」
「開けるか?」
「待て、モンティ」
グレイスは短く言い、耳を澄ませた。
私も息を殺して耳を澄ます。
水の音と、水車の軋む音。
そして――。
下から、微かに……人の呼吸音があった。
私は全身の毛が逆立つのを感じた。
「いる」
モンティが落ち着きなく肩を揺らしながら歯を食いしばり、グレイスは私を見て頷いた。
「リル、下がれ。扉を開けた瞬間、何が飛んでくるか分からない」
私は反射的に言い返しそうになったけど、直前で止めた。
ここで私がまた毒を受けたら、今度こそどうなるか分からない。
……アロガを救う者だっていなくなる。
「……分かった」
私は一歩引き、壁際へ寄る。
モンティが剣を構え、グレイスが床板に手を掛けた。
ぎり……と木が軋み、扉の端が浮く。
その瞬間。
――床板の下から、黒い影が跳ね上がった。
「——ッ!」
私は声も出なかった。
影は人間で、黒い外套を羽織り、顔にも同じ色の布を覆っている。
そして、両手に持つのは――何かの小瓶。
その瓶が、こちらへ投げつけられる。
「伏せろ!!」
グレイスが叫び、私の腕を掴んで引き倒した。
次の瞬間、瓶が床で割れ、白い煙が爆ぜた。
――息が詰まる。
鼻の奥が焼けるように痛み、目から勝手に涙が流れた。
そのうえ、咳が止まらない。
まるで、喉を小人に掻き毟られるみたいだった。
「毒煙か……!」
モンティが呻く。
私は必死に口を押さえたけど、もう結構、吸ってしまった。
肺の奥まで、熱が入ってくる。
《リル! 息を止めなさい! 布で口を覆って!》
(もう……遅い……!)
煙の向こうで、黒外套の男が逃げようとしているのが見えた。
でも、それより速く、ナナが風を操作する。
巻き上がった風は室内を乱舞し、毒煙を一か所に収束させて、出入口で蓋をした。
分厚い煙の壁が出来て、男を逃がさない。
「チィ……ッ!」
流石に、あの煙の中を突っ込むつもりにはなれなかったらしい。
舌打ちをすると同時に、地下へ飛び降りて戻っていった。
逃げるつもり――でも、どこへ?
秘密の通路とか、あるのだろうか。
「く……くそっ、逃がすか!!」
モンティが突っ込もうとするが、グレイスが腕で制した。
「――待て! まずは呼吸を落ち着けろ。煙の排除は、リルがやってくれたのかい?」
「うん……と、そう」
実際の所を言うとややこしくなるので、私は躊躇いながらも頷く。
「そうかい、良い腕だ。助かった。モンティ、逸って突っ込むな。罠が待ってる」
グレイスは腰の小袋から布を引き裂き、水筒の水をぶちまけた。
濡れた布を口元に当て、短く言う。
「これを使え! 同じ事をされても、まだマシだろう」
モンティが布を受け取り、同じように口を覆う。
私も真似をして、震える指で口を押さえた。
《大丈夫、空気の層を作ったわ。もう煙は入ってこない》
(ありがとう、ナナ)
煙はもう欠片すら見えなかったけど、肺の奥がまだ熱い。
心臓が異様に速くて、目の前が少し揺れていた。
「……リル?」
モンティが私を見て、訝しげに首を捻る。
私は弱った姿を見せたくなくて、敢えて気丈に頷いた。
「大丈夫……行ける……!」
本当は大丈夫じゃないけど……。
でも、言ったら絶対、止められる。
苦しみを飲み込んで、床下を覗き込んだ。
その下には、粗末な階段が続いていた。
腐った木で作られた、地下への入り口。
そこからは、湿った冷気が這い出してくる。
グレイスが長剣ではなく、背中側の腰に佩いていた短剣を抜き、先頭に立った。
「行くぞ。足元に注意しろ」
その声に無言で頷き返し、私たちは階段を降りる。
ぎし、ぎし、と音が響くたび、階段が崩れる気がした。
完全に降り切った先で辺りを見渡す。
地下は暗く、壁には苔が生え、酒樽が幾つも並んでいる。
密造酒の貯蔵庫――ナナの言った通りだ。
そして、敵が何処に居るのか目を凝らしていると、その奥から声が聞こえた。
「……来なければ、死なずに済んだものを」
低く、乾いた声がして、背筋が凍る。
そうして、樽の影から、男が姿を現した。
だが、手には剣ではなく――弓が握られていて、その弓の先には、既に矢が番えられていた。
矢尻が、鈍く濡れて光っている。
――毒。
「……くそっ!」
モンティが歯噛みする。
狭い地下に、逃げ道は階段しかない。
咄嗟に身を隠せる場所などなく、階段を登る間に誰かが射られるだろう。
男は弓を引き絞ったまま、笑うように言った。
「慌てるな。お前らが何を求めているか、分かっている」
グレイスが冷たく返す。
「ああ、そうとも。解毒薬だ、渡せ」
「渡せば帰るのか?」
「渡せば殺さない」
グレイスの声はどこまでも端的で、表情も動かなかった。
だが男は、ゆっくりと首を振った。
「……駄目だな」
男は樽の上に小瓶を置いた。
透明な瓶の中で、液体が小さく揺れている。
――あれだ。
あれが、本当の解毒薬だ。
私は一歩踏み出しそうになったものの、膝がぐらついて動きを止める。
《リル、落ち着きなさい》
ナナの声が叱るように響いた。
《あれは餌よ。飛びつこうと思えば、行けそうな絶妙な距離。だから、アイツにはそれをさせない手を、きっと持っているんでしょう》
ナナの冷静な解説を聞いている間にも、男は続ける。
「これは確かに解毒薬だ。だが、渡す気はない」
「なら、奪えば良いだけだな」
モンティが前に出ようとした瞬間。
男の弓がわずかに揺れ、矢が放たれた。
――速い。
矢はモンティの肩を狙って飛んだが、グレイスが剣で弾いた。
金属音が響き、矢が壁に突き刺さる。
「……チッ! その女、動きがいいな。だが――」
男は素早くもう一本、矢を番えた。
今度の狙いは、私だ。
狙われた瞬間、殺意が一本の線となって私を貫く。
ただの模擬戦や力比べでも、強い敵意をぶつけられた事はある。
でも、本気の殺意は未経験だった。
そして、本気の殺意は身体が凍り付かせるものなのだと、今日初めて知った。