目が離せない。
矢の先が、私の胸に向いている。
男は笑うように言った。
「
――まただ。
また選ばせようとする。
アロガの命と、私の命、それら二つを天秤に掛けさせて――。
でも、私は知っている。
この男は、私が死んでも、薬を渡したりしない。
——あの言葉は全て嘘だ。
ただ、楽しんでいるだけなのか、それとも、もっと別の思惑があるのか、そこまでは分からない。
でもどうせ、ろくでもない事に違いない。
私は、震える息を静かに吐いた。
胸の奥が熱い。
これが、毒の回る感覚か……と、他人事の様に思った。
でも、それでも――。
「……選ぶ必要なんてない」
私の声は、自分でも驚くほど低かった。
モンティが目を見開く。
「リル……?」
私は前に出た。
矢が狙っているのが分かるのに、足が止まらない。
怖い。
死ぬのは怖い。
でも――アロガが苦しむのだって、同じくらい怖かった。
「私は生きて……アロガも助ける」
「ならば、死ね」
男が笑い、弓が鳴った。
矢が飛ぶ。
私は避けなかった。
恐怖に固まっていた身体が、アロガの事を思う程に
一瞬が一秒に引き延ばされ、視界の周囲が歪む代わりに、正面だけはむしろ鮮明に見えた。
私は殆ど反射で動いて、寸でギリギリのところで矢を躱す。
顔の真横を矢が通り過ぎるのと同時、私は地面を蹴り付け、樽の上へ飛びついた。
次の矢を番えるまでが異常に速い。
それでも私の方が、なお速く、小瓶をその手に掴んだ。
冷たいガラスの感触が、確かな希望として手の中に握り込まれる。
その瞬間、男が私の眉間を狙って矢を放った。
「渡せ!!」
私はまたも矢は躱せたけど、足がもつれた。
視界が揺れる。
毒のせいだ。
――次の矢が番われる。
男の矢が、次は私の腹を狙った。
私は小瓶を守りたい一心で、胸の内へと抱き締める。
これが割れたら終わりだ。
そして、何かに対して覚悟した瞬間――。
モンティが男に体当たりし、床に叩きつけた。
「リル! 行け!!」
モンティの声は必死だった。
グレイスも直後に飛び掛かり、男の肩を押さえ込む。
腕を極めて拘束に成功すると、目だけ向けて低く言う。
「ここは私たちが抑える。早く戻ってやれ……!」
グレイスはともかく、モンティに任せて大丈夫か、という思いがよぎった。
敵は手練れで、モンティはまだ未熟者。
体格だけ立派なだけで、まだ冒険者見習いに過ぎないから、不覚を取りそうにも思える。
——でも、迷っている暇はなかった。
「……絶対、生きて戻って!」
そう叫んで、私は階段へ走った。
地下の空気が、背中にまとわりつく。
階段を駆け上がるたび、肺が焼ける様で、視界まで白く霞んだ。
それでも――。
地上へ飛び出した瞬間、風が頬を打ち、私は倒れそうになりながら走る。
川沿いの道。
先ほど来た道を逆に辿り、アロガのいる場所へ――。
足音が泥を蹴り、胸が裂けそうなほど痛い。
――でも。
――だけど。
それでも走ることだけは止められず、とにかく足を前に動かした。
そして、――見えた。
高身長のベリシスが傍に居るから、すごく目立つ。
その足元には、伏せたままのアロガがよこになって休んでいる。
アロガはもう、ほとんど動かない。
息が細く、いつもの見慣れた巨体が、ひどく小さく見えた。
「アロガ!!」
私は駆け寄り、膝をついた。
震える手で瓶の栓を抜くと、薬草の匂いが周囲に漂う。
「お願い……、飲んで……!」
私はアロガの口を開かせようとする。
だが、アロガの反応は遅く、舌が動かない。
――飲もうとしない……どころか、反応そのものが薄い。
心臓は早鐘を突く様に速いのに、身体は凍りつくみたいに冷たかった。
《リル、焦らないで》
ナナの声が鋭く響いた。
《顎を支えて、喉の奥に少しずつ流し込みなさい! 無理に流すんじゃなくて、少しずつよ!》
「……うん、うん……!」
私はアロガの顎を抱え、首筋を支える。
そして瓶を傾け、ほんの少しずつ、液体を口へ落とした。
ぽた、ぽた、と。
最初は喉が動かない。
でも、更に数滴が入った瞬間――。
アロガの喉が、ごくり、と鳴った。
「……っ!」
泣きそうになりながら、もう一滴。
更に一滴。
アロガの喉が動き、少しずつ、薬が飲み込まれていく。
……やがて、アロガの耳が、ぴくりと動いた。
瞼がわずかに開き、私を見る。
焦点の合わない目だったけど、それでも、私をしっかりと見ていた。
「アロガ……! 大丈夫、絶対大丈夫……!」
アロガの喉が、もう一度鳴る。
そして――。
巨体が、ぶるり、と震えた。
痙攣のような震えで、毒が押し出されているのか、それとも苦しんでいるのか分からない。
私はアロガの首にしがみつき、必死に声を掛け続けた。
「頑張って……頑張って……!」
アロガの痙攣はしばらく続いたけれど、それも次第に落ち着いてくる。
更に数分経つと、痙攣そのものがなくなった。
「良かった……っ! 間違いなく効いてる……!」
私は瓶を傾け続け、半分以上――多分、七割近くを飲ませた。
そうして残りの分を自分で飲むと、私は崩れるように座り込む。
息が切れて、目の前が暗い。
だけどその代わり、アロガの呼吸は少しだけ、深くなった。
まだ荒い息だけど、でも、さっきのような死にそうな細さではない。
一部始終を見ていたベリシスが、驚いたように言った。
「……どうやら、峠は越えたみたいだな」
私は笑おうとして――笑いたいのに、どうしても無理で唇が震えた。
「……アロガ……生きて……」
その時だった。
遠く、水車小屋の方角から――悲鳴と金属音が聞こえた。
モンティの声と、そこにグレイスの怒鳴り声も混ざる。
「クソっ! すまねぇ!」
「泣き言はいい! 逃がすな!!」
私は顔を上げて、声のする方向を睨んだ。
アロガは助かったけど、でも――まだ終わっていない。
それどころか、まだ始まったばかりに過ぎなかった。
S級への試練を阻もうとするエルフの陰謀は、とりあえず阻止できたかの様に見えたけど……。
でも、試練までは、まだ三日もある。
それまで、一体どれだけの妨害があるだろう。
宿屋と地下室に隠れていた襲撃者は、エルフに繋がる糸口だ。
糸の一本は既に捕らえたけど、嘘の供述、情報の擦り合わせなんかを考えると、その糸口は多ければ多いほど良かった。
《リル》
ナナがいつになく真剣な声音で呼び掛ける。
《あなたの決意は分かった。でも、今は――とにかく慎重にね。あそこまで追い詰めたのに、逃げられたなんて異常だわ。間違いなく手練れよ。気を付けなさい》
(うん……!)
私はアロガに目を向けた。
アロガはまだ伏せていたけど、その目は見開いている。
私の方を見返して、弱々しく――けれど確かに鳴いた。
「……ウォフ」
その声は、もう“死にかけの獣”のものじゃない。
私は歯を食いしばり、拳を握り締めた。
アロガは助かった。
そして、助かったからこそ、終わらせなければならない。
モンティとグレイスを助ける。
逃げた敵を捕まえる。
そして――三日後の証明を、必ず成し遂げる。
「……行こう、アロガ」
私はアロガの首に腕を回し、立ち上がるのを支えた。
アロガの巨体が、ゆっくりと起き上がる。
足は震えていたけど、立って暫くすると、それも次第に落ち着いた。
ベリシスが低く唸る。
「……もう少し、大人しくしていても良いんじゃないか。毒が完全に抜けたのかも分からんのだろう」
「うん、でも……」
暗い川沿いの道の先。
そこへ黒い影が走って行くのが見えた。
外套を翻し、血の匂いを纏ったその姿は、間違いなくあの襲撃者だ。
そして、その後ろから、モンティとグレイスが追っている。
襲撃者は一瞬だけ振り返り、私と立ち上がったアロガを見て、また逃げる方向を変えた。
息を吸い込むと、喉の奥——そして胸が痛んだ。
それを無視して気合いを入れる。
「逃がす訳にはいかない……!」
アロガが低く唸ると、その牙は陽光を受けて白く光った。
毒は最初ほど酷くない。
もう殆ど癒えた。
私だって戦える。
――ここからが、反撃だった。