逃げる黒い影は、川沿いの草を踏み散らしながら走っていた。
外套の裾が泥に濡れ、グレイスに手傷を負わされている筈なのに、その足は異様に速い。
――エルフに使われるだけはある。
モンティとグレイスが追い縋ろうとしたけど、距離がじわじわ開いていく。
グレイスの脇腹が血で濡れていた。
肩で息をしているのが見える。
モンティはもっと酷い。
片腕を押さえ、走るたびに身体が傾いている。
……あの地下で、何か上手いことしてやられたんだ。
まだ何かを隠していて、それで不意を打たれたりしたのかもしれない。
「アロガ……!」
私は短く声を掛けると、アロガは返事の代わりに、喉の奥で低く唸る。
まだ足元が不安定で、踏み出すたびに筋肉が震えているのが分かった。
でも、その目は――間違いなく、狩人の目だった。
毒に沈みかけていた時の、曇った光じゃない。
森で獲物を狙う、鋭い黄金の瞳だ。
私は一度だけ息を整え、喉の奥の熱を押し込めた。
解毒薬は飲んだけど、まだ毒が残っているのは分かってる。
頭が少し重い。視界がわずかに霞む。
けれど――今、止まるわけにはいかなかった。
「行くよ!」
私は走り出した。
アロガも遅れて踏み込み、巨体が地面を震わせる。
泥が跳ね、草が潰れ、川辺の空気が裂ける。
アロガが本気で走る音は、戦鼓みたいだった。
襲撃者が振り返る。
その瞬間、布の奥の目が見えた。
――怯えだ。
今まで余裕を見せていた目が、明確に揺れていた。
「……チィッ!」
襲撃者は川沿いから林へと、方向を変えた。
木々の間に逃げ込めば、矢も罠も使いやすいと踏んだのだろう。
でも、その判断は間違いだ。
木々の中こそ、アロガの領域だった。
街の中に残された林だから、そもそも全然深くない。
木々の間から、向こうの光が漏れ見えるくらいだから、歩いても五分で横断できる規模だと思う。
だから、こちらの有利には変わりない。
アロガは速度を上げた。
木の根を踏み越え、倒木を跳び、泥濘を裂く。
私は遅れないように付いていくので、精一杯だった。
ベリシスも最初こそ付いてきていたけど、今や完全に遅れている。
巨漢の見た目通り、走るのが苦手らしい。
そうは言っても、私の方にも余裕は全くなかった。
肺が焼けて、胸の奥が痛む。
足が重くて、毒の熱が全身を這い回る。
いつも通りなら、アロガの横を走るのは、苦にならないのに……!
――それでも。
アロガの背中が見えるだけで、私は走れる。
前方で、襲撃者が木の間を縫いながら片手を懐へ突っ込むのが見えた。
きっと、また小瓶を取り出すんだろう。
「……また毒煙!?」
私が叫ぶより早く、襲撃者は地面へ瓶を叩きつけた。
ぱん、と割れる音がするのと同時に白い煙が爆ぜ、林の湿った空気の中に広がる。
鼻を刺す匂いと共に、喉が焼けるように痛んだ。
――やっぱり、同じ手だ。
でも、アロガは止まらなかった。
巨体が煙の中へ突っ込み、咆哮を上げる。
煙が吹き飛び、葉が舞い、白い霧が裂かれた。
アロガの体毛は濡れていて、毒煙を纏っても、即座に内部へ染み込むことはない。
何より――息を止めていれば、効果は最小だ。
獣の本能の方が、ヒトのものよりずっと強い。
だから、猛然と追走を続けるアロガに、襲撃者は目を見開いた。
「馬鹿な……!」
そう叫ぶのと同時、襲撃者は背中の弓を捨て、短剣を抜いて木陰へ飛び込んだ。
でも、逃げるためじゃない。
きっと迎撃するためで、罠の場所に誘導するつもりだ。
――来い。
――こっちに来て踏め。
そう言っているように思えた。
私は一瞬、足を止めた。
視線が木の根元に縫い付けられる。
草の下が不自然に盛り上がっていた。
細い糸――そして、張られた針金。
――罠だ。
「アロガ、止まって!」
そう叫べば、アロガは直ぐさま足を止めた。
でも、その瞬間――襲撃者が肩越しに何かを投げてくる。
宙を舞うのは、銀色の針の束だった。
そう認識するのと同時、小さな刃物が雨のように飛び散る。
「……ッ!」
私は反射で腕を上げたけど、見極めに時間を使い過ぎた。
間に合わない――と思ったところで、既にアロガは私の前に滑り込んでいた。
肩を捻り、背を向けた体勢で庇ってくれる。
針が毛皮に刺さり、鈍い音が連続して聞こえた。
「グルゥ……!」
アロガが短く唸った。
それは痛みではなく――怒りだった。
「……ウォオオオォッ!!」
咆哮が林を震わせ、鳥が一斉に飛び立つ。
襲撃者の身体が、それで僅かに硬直した。
――恐怖だ。
私は歯を食いしばった。
怒りを魔力に変えて、指先に集める。
風の力ではなく、純粋な魔力の糸を伸ばし、罠の針金を探る。
《無茶しないで!》
ナナが叫ぶ。
《こんな極限状態で使ったことないでしょ! 失敗すると、無駄に消費するだけじゃなくて……!》
(でも、ここで止めないと!)
指先が震える。視界が少し暗い。
でも、無理したかいあって、針金の感触を捉えた。
私は魔力でそれを絡め取りつつ、引き千切る。
ぱん、と弾ける音と共に、罠が不発のまま外れた。
「馬鹿な! 何が起きた!? 獣人は魔術など使えるはずが――!」
「アロガ! 行って!」
その言葉を無視して、アロガに指示を出す。
エルフの配下だからなのか、獣人を甘く見る浅はかさに腹が立つ。
でも、それが今は役に立った。
襲撃者は舌打ちし、木々の間をさらに奥へと走る。
だけど、もうアロガからは逃げ切れない。
アロガは獲物を追う時、距離を測り、確実に仕留める。
焦って飛びついたりしないし、獣の狩りは、理性より正確なものだ。
襲撃者が木陰を抜けた瞬間、アロガが地を蹴った。
巨体が宙へ浮き、影のように襲撃者の背へ落ちる。
「――ッ!?」
襲撃者が振り返り、短剣を突き出した。
けれど、もう遅い。
アロガの前脚が襲撃者の腕を弾き、剣牙が喉元に迫り――皮膚を軽く裂いただけで止まる。
血の匂いが、林の中に広がった。
襲撃者は硬直したまま、動けない。
「グルルル……!」
アロガが唸り……そしてその唸りは、「いつでも殺せる」という宣告だった。
私は息を切らしながら追いつき、剣を抜いた。
「……終わりだよ」
襲撃者の目が、私を睨む。
憎悪と恐怖が混じった、濁った光が差していた。
「……ガキが」
掠れた声が吐き捨てる。
「獣を守ったところで、何になる。お前らは結局――」
「喋らないで」
私の声は冷たかった。
胸の奥の熱が、怒りで燃え上がっている。
「アロガを殺そうとした。私を殺そうとした。モンティとグレイスさんも……」
襲撃者は笑うように口元を歪めた。
「命なんて、そんなものだ。奪える奴が奪う。強い奴が――」
次の瞬間、アロガが剣牙をわずかに近づけた。
襲撃者の首筋に流れていた一筋の血が、更に太くなって流れる。
「……ッ!」
襲撃者は言葉を失い、喉を鳴らした。
私はアロガの首に手を置く。
「殺さないでね」
アロガは唸り声を落とし、牙を引いた。
でもその目は、まだ獲物を捉え続けている。
私は襲撃者の胸倉を踏み付け、体重をかけながら問う。
「誰の命令?」
襲撃者は唾を飲み込んだだけで、答えようとしない。
でもそれは殆ど予想通りなので、落胆はなかった。
私は仕方なく、踵で腹を蹴る。
「ぐっ……!」
襲撃者が折れ曲がり、苦悶の声を漏らしたが、それでも口を割ろうとはしなかった。
《リル、焦らないで。それに、らしくないわよ》
ナナが落ち着いた声音で語り掛けてくる。
《こういう輩は、殴っても喋らない。喋らないように訓練されてるんだわ》
(じゃあ……、どうすれば)
《――彼の“持ってるもの”を探しなさい》
私は襲撃者の腰を探った。
小袋がいくつも見つかる。
毒瓶。針。火打ち石……。
そして、胸元の内側で、布の下に何か硬いものを見つけた。
引きずり出して出てきたのは、薄い金属板だった。
護符のように首から提げられる様になっている。
そして、その護符には刻印があって、葉と絡み合う蔦の紋章が刻まれていた。
《エルフの紋章ね……》
驚きはない。
でも、誰の手先なのか、その確証が手に入ったのは大きかった。
私が睨み付けると、襲撃者は顔を背ける。
その時、背後から声がした。
「リル!!」
モンティとグレイスが、息を切らして追いついて来た所だった。
モンティの肩から血が滲んでいて、良く見れば、グレイスの額にも浅い切り傷がある。
でも二人とも、生きている。
私は胸の奥のモヤモヤが、少しだけ緩むのを感じた。
「捕まえたんだな……!」
モンティが笑みを浮かべ、襲撃者を見た。
グレイスは大股で近寄ると、襲撃者の顔布を乱暴に取り、顎を掴んで顔を上げさせた。
「……この顔、覚えがある」
グレイスの声が低くなる。
「冒険者ギルドに出入りするエルフの周囲を、時々うろついていた奴だ」
「つまり、使いっ走りか?」
モンティがそう言って襲撃者は歯を食いしばり、吐き捨てるように言った。
「……捕まえたところで無駄だ。どうせ俺は切り捨てられる。失敗した時点で、この命に価値なんてない」
「それがエルフのやり方かよ。お前はそれで満足なのか、えぇ!?」
モンティが怒鳴って詰め寄ったけど、グレイスはそんな感情は見せず、むしろ短く笑う。
「……価値なんてない、か。だが安心しろ。お前を生かす価値はあるぞ。なにしろ、エルフが暗殺しようとした、その証拠になるからな」
襲撃者の目が揺れる。
グレイスは淡々と続けた。
「喋って貰うぞ。喋らないなら、喋らせる方法はいくらでもあると知っておけ。お前の毒より、よほど確実なやり方がある、とな」
襲撃者は唇を噛み、それ以上は何も言わなかった。
私は紋章の金属板を握り締めた。
冷たい感触が、現実を突きつける。
――エルフは、本気だ。
ただ試練を邪魔するだけじゃない
私たちの命を、最初から奪う気で動いている。
“格”が足りない。
獣人を下に見てるから――。
そんな下らない理由で、S級への道を閉ざそうとしている。
今まで、S級に獣人はいなかった、という。
史上初めてのS級冒険者の獣人を出したくない――。
それか理由かも、と考えたけど、それだけが原因とも思えなかった。
私はアロガを見た。
アロガはまだ少し息が荒い。
興奮状態なだけでなく、もう元気を取り戻しつつあるからだった。
一時は危なかったけど、既にもう何でも無い。
それが何より嬉しかった。
私は喜びを噛み締めてから呟く。
「……帰ろう」
グレイスが頷いた。
「まずはラーシュと所へ戻る。宿屋で捕らえた捕虜も合わせて拘束し、ギルドへ引き渡す」
モンティが息を吐き、肩を押さえながら言った。
「……俺、死ぬかと思った」
「死ななくて良かったよ」
冒険者に危険はつき物だし、それを覚悟してなるものだけど、本当の死に直面したら笑えない。
林の空気は冷たく、川の音が遠くから聞こえていた。
そして、胸の奥で疼く毒の熱は、少しずつ消えていく感触があった。
《……リル》
ナナが静かに呼ぶ。
《これが失敗したからって、諦めるとは思わない方が良いわ。エルフは、もしかしたら、次はもっと確実な方法で殺しに来るかも……》
(分かってる)
《でも、同時にチャンスよ。試練を受け入れておいて、その裏で殺しに来るなんて、許される筈ないもの》
私は捕まえた襲撃者を見た。
彼の目は憎悪で濁っていたけど、その奥には別のものもあった。
――恐怖。
命令に逆らえない者の恐怖。
エルフは知恵を尊び、その知恵を力に――魔術として表に出す。
隔絶した魔術は、抗えない暴力そのものだ。
エルフに協力するのは、単に強いから——そして、力で支配するからに違いない。
三日後の試練まで、残り二日と少し。
時間はまだ多く残されている。
でも――最早、馬鹿正直に待つ必要などなかった。
エルフの犯罪の証拠は、こちらが握っている。
私は歯を食いしばって、歩き出した。
アロガの温かい体温が、隣で確かに揺れている。
S級になって……そして、“お母さんの誇り”を取り戻すまで、私は決して止まらない。
――今度は、こちらが攻める番だ。