混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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エルフの矜持、折れない牙 その3

 逃げる黒い影は、川沿いの草を踏み散らしながら走っていた。

 外套の裾が泥に濡れ、グレイスに手傷を負わされている筈なのに、その足は異様に速い。

 

 ――エルフに使われるだけはある。

 

 モンティとグレイスが追い縋ろうとしたけど、距離がじわじわ開いていく。

 グレイスの脇腹が血で濡れていた。

 肩で息をしているのが見える。

 

 モンティはもっと酷い。

 片腕を押さえ、走るたびに身体が傾いている。

 

 ……あの地下で、何か上手いことしてやられたんだ。

 まだ何かを隠していて、それで不意を打たれたりしたのかもしれない。

 

「アロガ……!」

 

 私は短く声を掛けると、アロガは返事の代わりに、喉の奥で低く唸る。

 まだ足元が不安定で、踏み出すたびに筋肉が震えているのが分かった。

 

 でも、その目は――間違いなく、狩人の目だった。

 毒に沈みかけていた時の、曇った光じゃない。

 森で獲物を狙う、鋭い黄金の瞳だ。

 

 私は一度だけ息を整え、喉の奥の熱を押し込めた。

 解毒薬は飲んだけど、まだ毒が残っているのは分かってる。

 

 頭が少し重い。視界がわずかに霞む。

 けれど――今、止まるわけにはいかなかった。

 

「行くよ!」

 

 私は走り出した。

 アロガも遅れて踏み込み、巨体が地面を震わせる。

 

 泥が跳ね、草が潰れ、川辺の空気が裂ける。

 アロガが本気で走る音は、戦鼓みたいだった。

 

 襲撃者が振り返る。

 その瞬間、布の奥の目が見えた。

 

 ――怯えだ。

 今まで余裕を見せていた目が、明確に揺れていた。

 

「……チィッ!」

 

 襲撃者は川沿いから林へと、方向を変えた。

 木々の間に逃げ込めば、矢も罠も使いやすいと踏んだのだろう。

 

 でも、その判断は間違いだ。

 

 木々の中こそ、アロガの領域だった。

 街の中に残された林だから、そもそも全然深くない。

 

 木々の間から、向こうの光が漏れ見えるくらいだから、歩いても五分で横断できる規模だと思う。

 

 だから、こちらの有利には変わりない。

 アロガは速度を上げた。

 

 木の根を踏み越え、倒木を跳び、泥濘を裂く。

 私は遅れないように付いていくので、精一杯だった。

 

 ベリシスも最初こそ付いてきていたけど、今や完全に遅れている。

 巨漢の見た目通り、走るのが苦手らしい。

 

 そうは言っても、私の方にも余裕は全くなかった。

 肺が焼けて、胸の奥が痛む。

 

 足が重くて、毒の熱が全身を這い回る。

 いつも通りなら、アロガの横を走るのは、苦にならないのに……!

 

 ――それでも。

 アロガの背中が見えるだけで、私は走れる。

 

 前方で、襲撃者が木の間を縫いながら片手を懐へ突っ込むのが見えた。

 きっと、また小瓶を取り出すんだろう。

 

「……また毒煙!?」

 

 私が叫ぶより早く、襲撃者は地面へ瓶を叩きつけた。

 ぱん、と割れる音がするのと同時に白い煙が爆ぜ、林の湿った空気の中に広がる。

 

 鼻を刺す匂いと共に、喉が焼けるように痛んだ。

 ――やっぱり、同じ手だ。

 

 でも、アロガは止まらなかった。

 巨体が煙の中へ突っ込み、咆哮を上げる。

 煙が吹き飛び、葉が舞い、白い霧が裂かれた。

 

 アロガの体毛は濡れていて、毒煙を纏っても、即座に内部へ染み込むことはない。

 何より――息を止めていれば、効果は最小だ。

 

 獣の本能の方が、ヒトのものよりずっと強い。

 だから、猛然と追走を続けるアロガに、襲撃者は目を見開いた。

 

「馬鹿な……!」

 

 そう叫ぶのと同時、襲撃者は背中の弓を捨て、短剣を抜いて木陰へ飛び込んだ。

 

 でも、逃げるためじゃない。

 きっと迎撃するためで、罠の場所に誘導するつもりだ。

 

 ――来い。

 ――こっちに来て踏め。

 

 そう言っているように思えた。

 

 私は一瞬、足を止めた。

 視線が木の根元に縫い付けられる。

 

 草の下が不自然に盛り上がっていた。

 細い糸――そして、張られた針金。

 

 ――罠だ。

 

「アロガ、止まって!」

 

 そう叫べば、アロガは直ぐさま足を止めた。

 でも、その瞬間――襲撃者が肩越しに何かを投げてくる。

 

 宙を舞うのは、銀色の針の束だった。

 そう認識するのと同時、小さな刃物が雨のように飛び散る。

 

「……ッ!」

 

 私は反射で腕を上げたけど、見極めに時間を使い過ぎた。

 間に合わない――と思ったところで、既にアロガは私の前に滑り込んでいた。

 

 肩を捻り、背を向けた体勢で庇ってくれる。

 針が毛皮に刺さり、鈍い音が連続して聞こえた。

 

「グルゥ……!」

 

 アロガが短く唸った。

 それは痛みではなく――怒りだった。

 

「……ウォオオオォッ!!」

 

 咆哮が林を震わせ、鳥が一斉に飛び立つ。

 襲撃者の身体が、それで僅かに硬直した。

 

 ――恐怖だ。

 剣虎狼(ウルガー)という強大な魔獣に対し、適わないと悟ったのかもしれない。

 

 私は歯を食いしばった。

 怒りを魔力に変えて、指先に集める。

 風の力ではなく、純粋な魔力の糸を伸ばし、罠の針金を探る。

 

《無茶しないで!》

 

 ナナが叫ぶ。

 

《こんな極限状態で使ったことないでしょ! 失敗すると、無駄に消費するだけじゃなくて……!》

 

(でも、ここで止めないと!)

 

 指先が震える。視界が少し暗い。

 でも、無理したかいあって、針金の感触を捉えた。

 

 私は魔力でそれを絡め取りつつ、引き千切る。

 ぱん、と弾ける音と共に、罠が不発のまま外れた。

 

「馬鹿な! 何が起きた!? 獣人は魔術など使えるはずが――!」

 

「アロガ! 行って!」

 

 その言葉を無視して、アロガに指示を出す。

 エルフの配下だからなのか、獣人を甘く見る浅はかさに腹が立つ。

 

 でも、それが今は役に立った。

 

 襲撃者は舌打ちし、木々の間をさらに奥へと走る。

 だけど、もうアロガからは逃げ切れない。

 

 アロガは獲物を追う時、距離を測り、確実に仕留める。

 焦って飛びついたりしないし、獣の狩りは、理性より正確なものだ。

 

 襲撃者が木陰を抜けた瞬間、アロガが地を蹴った。

 巨体が宙へ浮き、影のように襲撃者の背へ落ちる。

 

「――ッ!?」

 

 襲撃者が振り返り、短剣を突き出した。

 けれど、もう遅い。

 

 アロガの前脚が襲撃者の腕を弾き、剣牙が喉元に迫り――皮膚を軽く裂いただけで止まる。

 

 血の匂いが、林の中に広がった。

 襲撃者は硬直したまま、動けない。

 

「グルルル……!」

 

 アロガが唸り……そしてその唸りは、「いつでも殺せる」という宣告だった。

 私は息を切らしながら追いつき、剣を抜いた。

 

「……終わりだよ」

 

 襲撃者の目が、私を睨む。

 憎悪と恐怖が混じった、濁った光が差していた。

 

「……ガキが」

 

 掠れた声が吐き捨てる。

 

「獣を守ったところで、何になる。お前らは結局――」

 

「喋らないで」

 

 私の声は冷たかった。

 胸の奥の熱が、怒りで燃え上がっている。

 

「アロガを殺そうとした。私を殺そうとした。モンティとグレイスさんも……」

 

 襲撃者は笑うように口元を歪めた。

 

「命なんて、そんなものだ。奪える奴が奪う。強い奴が――」

 

 次の瞬間、アロガが剣牙をわずかに近づけた。

 襲撃者の首筋に流れていた一筋の血が、更に太くなって流れる。

 

「……ッ!」

 

 襲撃者は言葉を失い、喉を鳴らした。

 私はアロガの首に手を置く。

 

「殺さないでね」

 

 アロガは唸り声を落とし、牙を引いた。

 でもその目は、まだ獲物を捉え続けている。

 

 私は襲撃者の胸倉を踏み付け、体重をかけながら問う。

 

「誰の命令?」

 

 襲撃者は唾を飲み込んだだけで、答えようとしない。

 でもそれは殆ど予想通りなので、落胆はなかった。

 

 私は仕方なく、踵で腹を蹴る。

 

「ぐっ……!」

 

 襲撃者が折れ曲がり、苦悶の声を漏らしたが、それでも口を割ろうとはしなかった。

 

《リル、焦らないで。それに、らしくないわよ》

 

 ナナが落ち着いた声音で語り掛けてくる。

 

《こういう輩は、殴っても喋らない。喋らないように訓練されてるんだわ》

 

(じゃあ……、どうすれば)

 

《――彼の“持ってるもの”を探しなさい》

 

 私は襲撃者の腰を探った。

 小袋がいくつも見つかる。

 

 毒瓶。針。火打ち石……。

 そして、胸元の内側で、布の下に何か硬いものを見つけた。

 

 引きずり出して出てきたのは、薄い金属板だった。

 護符のように首から提げられる様になっている。

 

 そして、その護符には刻印があって、葉と絡み合う蔦の紋章が刻まれていた。

 

《エルフの紋章ね……》

 

 驚きはない。

 でも、誰の手先なのか、その確証が手に入ったのは大きかった。

 

 私が睨み付けると、襲撃者は顔を背ける。  

 その時、背後から声がした。

 

「リル!!」

 

 モンティとグレイスが、息を切らして追いついて来た所だった。

 モンティの肩から血が滲んでいて、良く見れば、グレイスの額にも浅い切り傷がある。

 

 でも二人とも、生きている。

 私は胸の奥のモヤモヤが、少しだけ緩むのを感じた。

 

「捕まえたんだな……!」

 

 モンティが笑みを浮かべ、襲撃者を見た。

 グレイスは大股で近寄ると、襲撃者の顔布を乱暴に取り、顎を掴んで顔を上げさせた。

 

「……この顔、覚えがある」

 

 グレイスの声が低くなる。

 

「冒険者ギルドに出入りするエルフの周囲を、時々うろついていた奴だ」

 

「つまり、使いっ走りか?」

 

 モンティがそう言って襲撃者は歯を食いしばり、吐き捨てるように言った。

 

「……捕まえたところで無駄だ。どうせ俺は切り捨てられる。失敗した時点で、この命に価値なんてない」

 

「それがエルフのやり方かよ。お前はそれで満足なのか、えぇ!?」

 

 モンティが怒鳴って詰め寄ったけど、グレイスはそんな感情は見せず、むしろ短く笑う。

 

「……価値なんてない、か。だが安心しろ。お前を生かす価値はあるぞ。なにしろ、エルフが暗殺しようとした、その証拠になるからな」

 

 襲撃者の目が揺れる。

 グレイスは淡々と続けた。

 

「喋って貰うぞ。喋らないなら、喋らせる方法はいくらでもあると知っておけ。お前の毒より、よほど確実なやり方がある、とな」

 

 襲撃者は唇を噛み、それ以上は何も言わなかった。

 私は紋章の金属板を握り締めた。

 

 冷たい感触が、現実を突きつける。

 ――エルフは、本気だ。

 

 ただ試練を邪魔するだけじゃない

 私たちの命を、最初から奪う気で動いている。

 

 “格”が足りない。

 獣人を下に見てるから――。

 

 そんな下らない理由で、S級への道を閉ざそうとしている。

 今まで、S級に獣人はいなかった、という。

 

 史上初めてのS級冒険者の獣人を出したくない――。

 それか理由かも、と考えたけど、それだけが原因とも思えなかった。

 

 私はアロガを見た。

 アロガはまだ少し息が荒い。

 

 興奮状態なだけでなく、もう元気を取り戻しつつあるからだった。

 一時は危なかったけど、既にもう何でも無い。

 

 それが何より嬉しかった。

 私は喜びを噛み締めてから呟く。

 

「……帰ろう」

 

 グレイスが頷いた。

 

「まずはラーシュと所へ戻る。宿屋で捕らえた捕虜も合わせて拘束し、ギルドへ引き渡す」

 

 モンティが息を吐き、肩を押さえながら言った。

 

「……俺、死ぬかと思った」

 

「死ななくて良かったよ」

 

 冒険者に危険はつき物だし、それを覚悟してなるものだけど、本当の死に直面したら笑えない。

 

 林の空気は冷たく、川の音が遠くから聞こえていた。

 そして、胸の奥で疼く毒の熱は、少しずつ消えていく感触があった。

 

《……リル》

 

 ナナが静かに呼ぶ。

 

《これが失敗したからって、諦めるとは思わない方が良いわ。エルフは、もしかしたら、次はもっと確実な方法で殺しに来るかも……》

 

(分かってる)

 

《でも、同時にチャンスよ。試練を受け入れておいて、その裏で殺しに来るなんて、許される筈ないもの》

 

 私は捕まえた襲撃者を見た。

 彼の目は憎悪で濁っていたけど、その奥には別のものもあった。

 

 ――恐怖。

 

 命令に逆らえない者の恐怖。

 エルフは知恵を尊び、その知恵を力に――魔術として表に出す。

 

 隔絶した魔術は、抗えない暴力そのものだ。

 エルフに協力するのは、単に強いから——そして、力で支配するからに違いない。

 

 三日後の試練まで、残り二日と少し。

 

 時間はまだ多く残されている。

 でも――最早、馬鹿正直に待つ必要などなかった。

 

 エルフの犯罪の証拠は、こちらが握っている。

 私は歯を食いしばって、歩き出した。

 

 アロガの温かい体温が、隣で確かに揺れている。

 S級になって……そして、“お母さんの誇り”を取り戻すまで、私は決して止まらない。

 

 ――今度は、こちらが攻める番だ。

 

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