馬車が止まったのは、大通りから少し入った、落ち着いた佇まいの、石造りの宿の前だった。
その看板には『鹿の蹄亭』と刻まれていて、柔らかい魔術秘具の灯に照らされている。
「ここですよ、リルさん。中庭を通ってすぐの離れを押さえてあります。アロガさんも、そこなら誰に気兼ねすることなく、休めるはずです」
青年の言葉通り、案内された離れは驚くほど立派なものだった。
高い天井に、獣の爪が立たないよう工夫された頑丈な石床。
そして、アロガの巨体でも余裕を持って横たわれる室内、その一角には厚手の毛布が敷き詰められていて、アロガが休むのに良さそうだった。
「……すごいね、アロガ。王都の宿って、こんなに綺麗なんだ」
私が感心して声をかけると、アロガは鼻を鳴らし、まずは部屋の隅々を丹念に嗅いで回った。
安全を十分に確認してから、ようやく大きな身体を毛布の上に横たえる。
「では、明日の朝、また迎えに来ます」
青年はそう言い残し、深々と一礼して去っていった。
扉が閉まり、部屋に私とアロガ、そしてナナだけの時間が訪れる。
誰も居ない場所だから、今だけはナナも私の中から出て姿を見せた。
「ふぅ~……っ! いやぁ、やっぱり外は良いわねぇ……! あ、リルの中が、イヤって意味じゃないわよ」
「分かってる」
私はそう言って笑い、窓の隙間から夜の王都を眺めた。
街灯の光はどこまでも明るいのに、建物の影はそれ以上に濃く、深い。
「ねぇ、ナナ。あの路地裏にいた人……」
「ええ、間違いないわ。関所の隊長や、カスティエルと同じ――感情を法で塗りつぶしたような冷たい感じ。……監視されているわね」
ナナの声は、部屋の空気をピリつかせるほど鋭かった。
「やっぱり、エルフの息がかかった人……なんだよね? 私に、S級の席を取らせない為の……」
「それだけじゃないかもね。……アロガの存在そのものを危惧しているから、暴れないか見張っている、とか……」
「これまで一度も……王都に入ってからだって一度も、そんな素振り見せてないのに?」
「安全だって思えるほど、信頼して貰えてないからね。彼らからすると、魔獣は決して懐かない、調教できない……そういう類いのものの筈だから」
――アロガは暴れたりしないのに……!
鼻息荒く、息をつく。
そんな私を見ても、ナナは苦笑するだけで、一緒に怒ったりはしてくれない。
それどころか、どこか遠くを見つめて、呟く様に言う。
「――リェーシェ婆さんが言った通り、この都は言葉の裏に毒を潜ませているわ」
私は懐から、あの透明な水晶を取り出した。
掌に載せると、石はまだ微かに熱を持っていて、ほのかな明かりを漏らしていた。
リェーシェ婆さんは、これを“心に小さな光と道を灯してくれる”と言った。
「……カトリーヌさんは、味方になってくれるかな」
私は、昼間に会ったあの豪快な女性を思い出す。
圧倒的な暴力の象徴――なんだろうけど、私にはどうにも頼りなく思える。
お母さんを基準にしているからそう見えるのか、それとも別の理由があるのか、私には分からなかった。
けれど、あの人の言葉には、エルフたちが持つ“冷たさ”とは対極の、火傷しそうなほどの熱があった。
「彼女は面白いわね。S級という特権階級にいながら、体制の不純さを嫌ってる。……でも、リル。彼女に頼り切るのも危ういわよ。政治っていうのはね、一人の武力だけでどうにかなるほど甘くないの」
「セージの事は、難しくて分からないよ……。でもとにかく、自分の足で立たなきゃいけないんだよね」
私はアロガの身体をソファー代わりに座り、その銀色の鎖――バルミーロ親方が打ってくれた、絆の証――に触れた。
アロガは静かに目を開け、金色の瞳でじっと私を見つめる。
不安に揺れる私の心を見透かし、それを支えようとするかのような、強く、慈愛に満ちた眼差しが、そこにはあった。
「……ありがと、アロガ。大丈夫。私、負けないから」
※※※
翌朝――。
窓から差し込む朝日は、昨日よりも少しだけ厳しく感じられた。
私は短剣と長剣の調子を確かめ、短弓の弓弦を張り直す。
そうして次に、アロガの毛並みを丁寧に整えた。
S級に挑むと、改めて申請しに行くのだから、だらしない所は見せられない。
それはアロガだけでなく、私も同じなので、あろかあの方をしっかりと終わらせてから、私自身の身支度に移る。
そうして耳の先、尻尾の先まで整え終わると、鏡へと向き合った。
そこに映るのは、まだ幼さの残る獣人の少女。
頼りない――様に見えるけれど、その瞳には王都の喧騒にも消せない、決意の火が灯っていた。
一つ気合いを入れて、宿を出る。
すると――。
「おはようございます、リルさん! 準備はよろしいですか?」
昨日の青年が、清々しい笑顔で馬車を用意していた。
私は思わず驚いてしまったけど、彼らからすると、このぐらいの配慮は当然……なのかもしれない。
私は大きく深呼吸をして、頷いた。
「おはようございます。うん、行きましょう。……ギルドへ」
馬車が石畳を叩く音が、静かな闘志のリズムのように響く。
王都ギルド本部――。
あそこには、昨日見た冷徹な事務官だけでなく、彼らを操る“毒”の主たちが待ち構えているはずだ。
カトリーヌさんが言った通り、今日は私の『推薦状』を正式に処理させる日。
それは、名実ともに私が“王都の敵”として認識される、本当の戦いの始まりを意味している。
手の中で弄んでいた水晶が、朝日に反射して一瞬、鋭く輝いた気がした。
※※※
ギルド本部の大きな石扉は、昨日よりもずっと重く感じられた。
扉を開けた瞬間、冷ややかな空気が肌を刺す。
ホールの喧騒は、私とアロガが足を踏み入れた途端に、潮が引くように静まり返った。
壁際に立つ剣士や、すれ違う事務官たちの視線――。
そこにあるのは、純粋な驚きではない。
まるで、“不浄なもの”が入り込んできたかのような、隠しきれない忌避感だった。
「……おはようございます」
私が受付でそう告げると、昨日の事務官が嫌そうに顔を上げた。
彼は私の顔を見るなり、あからさまに深く、長い溜息をついた。
「……昨日も申し上げましたが、S級の審議には時間がかかるのです。ましてや、その……あなたが連れている個体が、本当に『従属』しているかどうかの証明も……」
「――おいおい、昨日のあたしの言葉、忘れちまったのかい?」
背後から、低く、けれど雷鳴のように響く声が降ってきた。
振り返ると、そこには燃えるような赤髪を揺らし、長大な大剣を背負ったカトリーヌさんが立っている。
「カ、カトリーヌ様……っ!」
事務官が、椅子を蹴立てる勢いで立ち上がる。
彼女は堂々とした足取りで受付まで来ると、どん、とカウンターに身を乗り出した。
「リルの持ってる推薦状は、あっちのギルド長と、そこの有力商会……ベントリーの親父さんからのものだ。形式に不備はない。さっさと受理の判を押しな」
「し、しかし……。過去の規定は三百年も前のものです。『魔獣を伴う場合の安全性評価』を、上層部で確認する必要も……」
「その安全性は、今あたしがこの目で保証してる。それとも何か? S級第二位のあたしの『眼力』より、どこの馬の骨かも分からない評議会の役人が書いた紙切れの方が、あんたは信じられるってのかい?」
カトリーヌさんの周囲の空気が、じりじりと熱を帯びる。
それは魔力というよりも、彼女自身の圧倒的な“意志”が、物理的な圧力となって襲っている。
事務官は真っ青な顔で、助けを求めるように周囲を見渡した。
けれど、誰も彼女の機嫌を損ねてまで、口を挟もうとする者はいなかった。
《……ふん、いい気味ね。法の網を潜るには、もっと巨大な網をぶつける。これが王都流の『力押し』ってわけ》
ナナの楽しそうな声が、頭の中で響く。
事務官は震える手で、私の差し出した推薦状を受け取った。
そして、まるで呪われた呪文でも唱えるかのような苦渋の表情で、受理を証明する判――金属製で、複雑な形をした判を押し込んだ。
ガシャン、と重厚な音がホールに響く。
「……受理、いたしました。ただし、リル殿」
事務官は、受理した書類を私に返しながら、最後にあがきのような言葉を付け加えた。
その瞳には、カスティエルとはまた違う、卑屈で暗い色があった。
「受理されたからといって、S級になれるわけではありません。これから始まるのは、実技試験……そして、王都の有識者たちによる『資格審査』です。あなたは、己の力だけでなく、存在そのものの価値を証明しなければならない」
「……資格、審査」
現在のS級には、それぞれ“既得”やら“派閥”やらが関係しているという。
その座を押し退ける価値があるかどうか、それを問いたいのだろう。
もしかしたら、実力以上にそちらの方が重要視されるのかもしれない。
私は、魔導印が押された書類をしっかりと握りしめた。
冷たいインクの匂いがする……。
でもそれこそが、私がこの泥沼のような戦いの舞台に、正式に登った証拠だ。
「よし、第一段階はクリアだね」
カトリーヌさんは私の肩をバシッと叩くと、アロガに向かってニヤリと笑った。
「さて、次は『毒』の総本山へご挨拶といこうか。……リル、昼からは評議会広場にある、法務院へ行くよ。あんたの獣人としての籍と、魔獣の『所持権』を法的に確定させる必要がある」
「評議会……?」
「ああ。エルフたちが一番大好きな、言葉の牢獄さ」
カトリーヌさんの目は笑っていなかった。
ギルドを出ようとする私たちの背後に、またあの“冷たい気配”を感じた。
昨夜の監視者。
あるいは、カスティエルの手先――。
アロガが小さく唸り、私を守るように歩調を緩めた。
見上げる王都の空は青く澄んでいるのに、私の心には、リェーシェ婆さんが言った“言葉という名の毒”が、霧のように立ち込めていた。
(負けない。お母さんの剣を、必ず取り戻すんだから)
私は意思の力を高めて、一歩、石畳を強く踏み出した。