街へ来た時とは逆の順を辿り、南の森に入って暫くしてから転移した。
見慣れた畑が視界に入ると、リルは私の傍から離れて、飛ぶように駆け出す。
「お昼寝も済んでいるから、元気いっぱい、って感じだな」
微笑ましく見送っていると、家の物陰からアロガが飛び出す。
恐らく、リルの鼻はアロガの匂いを感じ取っていて、だから駆け出す事にしたのだろう。
先程アロガも寂しがっている、と話した事も、無関係ではあるまい。
果たしてリルはアロガに抱き着くと、その顔や首の辺りを乱暴な手付きで撫で回した。
「アロガ、ただいま! さびしかった?」
本当に寂しかったかどうか分からないが、アロガの尻尾は千切れんばかりに大きく振られ、そしてリルの顔をベロベロと舐める。
最近は素っ気なかったリルに構って貰えて、アロガも嬉しそうだ。
遂にアロガはリルを押し倒して、顔中を涎まみれにしてしまう。
「もぉ〜! アロガ、やめて〜!」
言っている程に、嫌がってはなさそうだ。
リルはきゃっきゃと笑いながら、アロガの顔を押し退ける。
そうして顔の涎を服の裾で拭きながら、私の方へ振り返って言った。
「あそんでくる!」
「すぐ暗くなるから、少しだけだぞ」
「はぁ〜い!」
リルは元気良く返事して、そのままアロガを引き連れ駆け出した。
余所行きの服だし、あまり汚して欲しくないなぁ、と思いながら、私は購入した食材を仕舞いに倉庫へと向かった。
※※※
その日の夕暮れ、夜の帷が降り切っていない、という夜との
今日の疲れを落とそうと、お風呂を浴びる事にした。
アロガはやはり、お湯の気配を察するや否や姿を消し、リルと二人だけの入浴になる。
「アロガはどうして、おふろキライなのかなぁ」
「獣というのは、大概そういうものさ。余計な匂いが付くのを嫌がるし、お湯その物が嫌い、という事もある。アロガはどっちも、かもしれないな」
リルの頭を洗ってやりながら言うと、気のない返事をして頷いた。
分かったような、分からないような……という態度なのは当然で、アロガの気持ちはアロガにしか分からない。
それにアロガは、単なる獣ではなく魔獣でもある。
獣の本能が特に強く、本来は飼えたりする動物ではないのだ。
「まぁ、最近洗ってやったばかりだし、少しは今のままでいたいだろう。好きにさせるさ」
「でも、アロガのきもち、リルもわかるなぁ。あんまり好きじゃないもん」
「リルの場合は、ただ面倒なだけだろ」
「ちがうよぉ〜!」
汗を掻いた日でも、別にいいやと入りたがらないのが、子供というものだ。
リルも口では違うと言いつつ、本心でどう思っているかなど、その顔を見れば明らかだった。
「ほら、流すぞ。目を瞑って息を止めなさい」
桶で掬ったお湯を、ゆっくりと流しかける。
それ二度、三度とくり返し、髪を綺麗にすると、次に身体を洗ってやり、そうして湯船へと誘導した。
私も自分の身体を手早く洗い終え、そうして湯船に浸かると息を吐く。
……何だかんだと、慌ただしい一日だった。
単に買い物をするだけなのに、何故あぁも次々と厄介事が舞い込むのか……。
「これだから、街というのは好かない」
「お母さん、キライなの? リルはすき!」
「恐ろしい目に遭ったばかりだろう?」
「こわかったけど……。でも、たのしかった!」
こちらを振り返って、にっかりと笑う。
豪胆なのか、それとも、向こう見ずなだけなのか……。
もしくは、喉元過ぎれば熱さ忘れる、というパターンの方かもしれない。
どちらにせよ、恐怖で塞ぎ込んでしまうより、健全なのかもと思い直す。
「まぁ、怪我もなかったみたいだしな……」
リルの身体を洗いながらチェックしてみたが、打撲の跡すら見受けられなかった。
バルミーロの弟子は、言葉通りにしっかりとリルの安全を第一に守り通したようだ。
それは喜ばしいが、リル自身の危機に対する無頓着さは問題かもしれない。
森の危険について、口では酸っぱく言っているものの、実際に体験したわけではない。
依然として、その危機については未知のままだった。
だからこその楽観なのだろうし、それについては今後、ゆっくりと教え込むしかない。
とはいえ、森の中で暮らしたままでは、教育に良くないのかも……。
同い年の友人であったり、人との関わり、育む情緒を学ぶには、この森は不適格だ。
森での生活が長くなるにつれ、世間との常識は乖離していくだろう。
それを良しとすべきかどうか……。
四阿の屋根を見上げ、難しく唸りを上げる。
すると、様子の変化に気付いたリルが、身体ごとこちらを向いてきた。
「どうしたの? なんかヘンなこえ、でてた!」
「いや、リルのお勉強をどうしようかと、考えていたわけさ。街に行くなら、読み書き、計算、それ以外にも色々と、覚えないといけないから」
「んぅ……、なんか……。たいへんそう」
「リルの考えている程じゃないよ。慣れの部分も大きいから。剣と一緒さ。基礎が一番大事で、そしてそこがしっかりしていれば、後は応用の範囲だ」
「じゃあやっぱり、たいへんそうだよ?」
私は笑ってリルを正面に向かせる。
肩までしっかりお湯に浸けてやり、それからふと、遠くを見て気付いた。
四阿の屋根と森の木々の間には、雲が殆ど見えない夜空がある。
まだ完全に日が落ち切っていないものの、月は既に木々の高さを越え、その顔を見せている。
「そうか、明日は満月か。……秋の名月だな」
「めーげつ?」
リルもまた、小さく浮かび上がる月を見ながら、首を傾げた。
「秋の満月は綺麗だな、って事だよ」
「なんで? どうしてあきだと、まぁるいつきがキレイなの?」
「そうだな、何と言ったものか……」
「つきがまるいとき、けっこうあるよ?」
「……そうだな、毎月見られるものだからな」
満月は年に十三回ある。
だから月が丸いだけで、なぜ秋に限って、とリルが思うのは当然だ。
秋の月ばかりが、名月ともてはやされるのには、ふたつ理由がある。
一つ目は月の高度、そして二つ目は空気の透明度に関係する。
夏の月は高度が低く、冬の高度が高くなり、そして春と秋は、その丁度中間だ。
この中間というのが絶妙で、それが月を美しく見せる理由だった。
月は時刻によって、刻々と色が変化していく。
地表付近に出たばかりの月は、赤み掛かった色をしていて、昇っていくにつれて黄色から白に色を変える。
夕焼けで太陽が赤く染まるのと同じ原理で、それが月にも働くから、そう見えるのだった。
夏は高度が低いため、色の変化が緩やかなものだ。
その一方、冬になるとあっという間に高度が上がってしまう。
だから、すぐに色が変わって見える。
刻々と変化する色を楽しむには速すぎ、だから春や秋がちょうど良い、とされてきた。
しかし、春だと秋よりも空気が霞んでいて、月がくっきりと見え難い。
それ故、秋の方に軍配が上がり、年で最も綺麗に見えるのだ。
とはいえ、これらをリルに説明しても、納得は得られそうにない。
もう少し、柔らかい内容で、説明しなければならなそうだった。
「そうだな……。月の出始めというのは、まわりの風景との調和も、大事なものなんだ。秋の風情に、良く合うだろう?」
「……わかんない」
どうやら、言葉選びを間違えたらしい。
それ以前に、調和や風情など言っても、今のリルに分かる筈もなかった。
「まぁ、何というか……。一年を通して、一番綺麗に見えやすいんだ。冬みたいに、あっという間に昇ってしまうと、楽しむ時間があまりない。誰だって、見たいものがあったら、なるべく長く楽しみたいだろう?」
「ん〜……? そう……そうかも?」
「秋は月を鑑賞するのに、ぴったりな季節なんだ。丸い月は、お団子にも似てるしな。丸い物を見ながら、それに見立てた丸い物を食べる。……それがちょっと、面白可笑しいって事かもな」
「オダン……? オダンゴってなに? おいしいの?」
「そうか、リルはまだ食べたことなかったな」
振り向いて来たリルに、私は丸いほっぺたを撫でてやりながら、また正面を向かせる。
丁度かぼちゃも収穫する所だ。
明日は満月を見ながら、かぼちゃ団子でも食べよう。
「明日、一緒に作ろうか。何故、秋の月がもてはやされるのか、それで分かるかもしれないぞ」