《嫌なやり方ね。アロガの圧倒的な暴力を周囲の役人に見せつけ、『やはり危険な魔獣だ』と印象づけるための罠よ。殺しても、殺さなくても、奴らの言い分が通るようにできているわ》
私は歯嚙みして拳を強く握る。
ここでアロガが、もひガルムを無残に引き裂いたら——。
傍聴席の官吏たちは「これほど危険な獣を、子供一人に預けられない」と騒ぎ立てる。
その姿が目に浮かぶ様だ。
「どうしました? 命令が下せないのですか? ならば、その獣は管理下になく、ただ気紛れであなたに同行しているだけと判断せねばなりませんね。それは即ち、ここで処分対象になる、ということですが……」
ゼノスの言葉に合わせて、鉄格子から放たれたガルムが、猛然とこちらへ向かって走り出して来た。
鋭い爪が石床を掻き、狂暴な咆哮が室内に響き渡る。
「アロガ!」
私が叫ぶと、アロガは一歩前に出た。
銀灰色の毛並みが、不快な魔力吸引に抗うように逆立つ。
(どうしたら良い……? 殺せば『危険』だって言われるし、守れば『従属していない』って言われる……!)
ポケットに仕舞っていた水晶が、ドクン、と熱く脈打った。
リェーシェ婆さんの言葉が頭をよぎる。
――心の光。
自分たちを見失わないための道標。
「……あ」
私は、自分のすべきことに気づいた。
あいつらの作った“言葉の牢獄”に、正面から付き合う必要なんてないんだ。
「アロガ、殺しちゃダメ!」
私の静止の声に、向かってくるガルムの目の前で、アロガがピタリと動きを止めた。
傍聴席から「正気か!?」と息を呑む音が聞こえる。
ガルムの牙がアロガの喉元に届く――その直前。
アロガは攻撃を仕掛けるのではなく、ただ、前脚を力強く石床に叩きつけた。
ドォン!!
魔力を吸い上げられているはずの舞台が、純粋な質量と衝撃波だけで激しく揺れた。
アロガの金色の瞳がギラリと輝き、その巨体から、圧倒的な“王の威圧”が放たれる。
「――ギャウッ!?」
ガルムは、アロガの爪が一寸も触れていないというのに、その凄まじい威圧感だけで完全に戦意を喪失し、その場に突っ伏してガタガタと震え出した。
生き物としての格の違い――。
戦うまでもなく、絶対的な敗北を悟ったのだ。
静まり返る鑑定室の中で、アロガは一度だけフン、と鼻を鳴らし、何事もなかったかのように私の隣へと戻ってきた。
ガルムは完全に大人しくなり、アロガに怯えて一歩も動けないままだ。
「な……」
ゼノスの貼り付けたような微笑みが、初めて大きく崩れた。
傍聴席の官吏たちも、言葉を失って目を見開いている。
「無駄な殺生はしていません。でも、アロガは私の『殺すな』という命令を完璧に守りました」
私は傍聴席を見上げ、はっきりと、強い口調で告げた。
「これでも、管理できていないって言いますか?」
「くっ、くくく……!」
背後でカトリーヌさんが、堪え切れない様子で肩を揺らし始めた。
「やるじゃないか、リル。これ以上の『統制』が、一体どこの世界にあるってんだい?」
彼女は大剣を抜き放ち、床を小気味よく叩く。
それは見た目通りの、傍聴席に対する威嚇だった。
その援護に感謝して、私は胸を張る。
あいつらの用意した卑劣な二択を、アロガはただその圧倒的な存在感だけで、綺麗に粉砕してみせたのだ。
「くっ……!」
ゼノスは顔を青白くさせ、忌々しげに私を睨みつけた。
完璧だったはずの法務官の顔に、明確な“焦り”の色が混ざり始めている。
ゼノスは数秒の間、言葉を失ったように硬直していた。
傍聴席の官吏たちも、互いに顔を見合わせ、どう言葉を紡ぐべきか戸惑っていた。
「……なるほど。確かに『殺すな』という命令には従ったようだ」
ゼノスは無理に声を絞り出し、歪んだ笑みを再び顔に貼り付けようとした。
けれど、その声は先ほどまでの余裕を完全に失っている。
「ですがね、これは単に、その獣があなたの声に怯えている、あるいは一時的な気まぐれで……」
「キレが鈍いねぇ、ゼノス」
カトリーヌさんが、わざとらしいほど大きな溜息をついて歩み出た。
大剣の重みが石床に響くたび、ゼノスの肩が微かに跳ねる。
「命令を聞かなきゃ『従属していない』と喚き、命令を完璧に聞けば『気まぐれだ』とのたまう。……随分とご都合主義な
「カトリーヌ殿、言葉が過ぎますぞ! 我々はあくまで厳正な審査を……」
「厳正、ねぇ?」
カトリーヌさんは傍聴席を見上げ、ふっと鼻で笑った。
「ここにいる全員が目撃者だ。リルは一切の魔術を使わず、ただの一言でS級相当の魔獣を完全に制御してみせた。これ以上の客観的な証明が欲しいなら、次はあんたがそこに降りて、アロガの前に立ってみるかい?」
その言葉に、ゼノスだけでなく、傍聴席の官吏たちが一斉に身を引いた。
アロガがタイミングを合わせたように、静かに彼らを見上げる。
金色の瞳に宿る圧倒的な捕食者の輝きに、誰もが息を呑んだ。
――勝負はついた。
いくら言葉で塗り固めようとしても、目の前にある“絶対的な事実”を覆すことはできない。
「……チッ」
ゼノスは、初めて貼り付けた笑みを完全に剥ぎ取り、低く舌打ちを漏らした。
手元の書類に、苛立ちを隠そうともせず、乱暴に法務院の公印を押し付ける。
「……よろしい。リル殿、および
放り出された書類を、私はしっかりと受け取った。
インクの匂いと共に、カトリーヌさんが「よくやった」と、私の肩を乱暴に揺らす。
「ありがと、アロガ」
私が小さく囁くと、アロガは満足そうに短く鼻を鳴らした。
※※※
法務院の重い扉を出ると、王都の突き抜けるような青空が視界に飛び込んできた。
ひんやりとした悪意の檻から抜け出せた安心感で、私は小さく息を吐く。
「すっきりしたねぇ! あいつらのあんな顔、滅多に見られるもんじゃないよ」
カトリーヌさんは大声を上げて笑い、私の背中を叩いた。
「でもね、リル。これで終わりだなんて思うんじゃないよ。あいつらは面目を潰されたんだ。特にエルフの派閥は、自分たちの作った法をコケにされたと、根に持つだろうさ」
「……うん。やっぱり、そうなるんだ……」
私はお母さんの首飾りを、服の上から握る。
お母さんは権力者を嫌っている感じだったけど、遠ざかっていた理由が、今更ながら分かった。
毒は一度退けただけでは消えない。
むしろ、これからもっと深く、見えない場所から回ってくるんだと思う。
「さぁて、お次はギルド上層部と、それを取り巻く有力者たちの『資格審査』……。実力を見せるだけの場じゃないから、覚悟しておくんだね」
カトリーヌさんの言葉に、私はゲンナリする気持ちを隠して頷いた。
正直なところ、こんなに面倒だなんて、思っていなかった。
アロガを認めさせるのもそうだし、誰かに実力を示せば、それで済むとさえ思っていた。
《仕方ないわ。特例を使ってS級になろう、って言うんだもの。只でさえ簡単じゃないものを飛び越して行くんだから、苦労も多くなるんだわ》
(ナナはどっちの味方なの)
これまでの不満さえぶつける様に言うと、ナナからは苦笑としか言いようのない雰囲気が返ってくる。
《いつだって、リルの味方よ。でもね、リルもそろそろ、“そういうもの”だって受け入れないといけないわ。ヒトの世界ってね、面倒臭いの》
私は大きく嘆息して、それから深呼吸する。
気持ちを切り替え、耳と尻尾をピンと張った。
「さぁ、次に進もう。足踏みなんかしてられないんだから……!」
「お、いいね。その意気だよ、リル!」
カトリーヌさんに肩を叩かれ、笑って頷き返した。
お母さんの剣を取り戻すため、そして首飾りを取り戻すため――。
私はアロガの銀の首輪を見つめ、再び歩き出す。
王都という巨大な悪意の、さらに奥深くへ、突き破る覚悟を決めて。