公会堂の静寂が、ヒビ割れたガラスのように崩れ落ちた。
私の足元から噴き出した魔力が石床を砕き、その破片が渦を巻いて宙に浮く。
風の精霊ナナの力が、僅かに残った私の魔力と同調して、全身を風のヴェールで包み込んでいた。
アレクシスは砕けた剣の柄を握ったまま、動かない。
彼のような達人ほど、今の“結果”が意味することを理解できるからだろう。
魔力の格、質量、そして何より――迷いのない意志の強さ。
その全てにおいて、先ほどまでの“私”とは別人に変わってしまったことを。
「……いいや、止めておこう」
アレクシスは短く告げると、砕け散った剣の残骸を床に捨てた。
その所作には、先ほどまでの冷徹な傲慢さは微塵もない。
ただ、一人の武人として、勝者に対する敬意がある様に見えた。
「まさか負けるとは思わないが、片手の一本程度、失う覚悟は要るだろう。……だが、たかが試験で、そこまでの覚悟は必要ない」
彼がそう言った瞬間、雛壇の老人たちの顔色が赤く変わった。
特に、魔術士たちのほうは、自分たちの魔導技術の粋が踏みにじられた事実に震えている。
「アレクシス殿! 何を言っているのですか! その獣、おそらく邪法か禁忌の魔具を使っているのです! 今すぐ拘束を――」
「黙れ」
アレクシスの鋭い一喝が、公会堂に響き渡った。
その声には、先ほどとは比べ物にならない威圧感が込められている。
「私の目の前で、勝者に対してなお卑劣な策を弄するのか。……我々王都の冒険者が、戦いにおいて敗北を認めず、そこへ更に裏側で小細工を弄する事など、あってはならない事だ」
「しかし、それではエルフ技術の、更なる支援が受けられなく……!」
「それはそちらの都合だろう。私は義理分の仕事を果たした。気に食わないなら、今から自分でやれば良い」
そう言って睨み付けると、老魔術士は顔を青くして黙ってしまった。
アレクシスはその反応をみることなく私に向き直ると、深く頭を下げる。
「リル。……私はこれまでの非礼を詫びる。獣人への偏見、そして制度という名の檻で、お前を貶めようとした。お前の『力』は本物だ。……S級としての格、認めざるを得ない」
その言葉は、まるで何かの封印が解ける合図のようだった。
審議場の空気の圧迫感が、急激に萎んでいく。
私は高ぶっていた魔力をそっと収め、アロガの首筋を優しく撫でた。
「……よかった。あなたも、私が思っていたのとは、少し違ったみたい」
アロガも安堵したように、低く「グルル」と喉を鳴らす。
ナナの魔力が私の身体から引き、少しだけ倦怠感が戻ってきた。
けれど、胸の奥は不思議と温かい。
「しかし、リル……」
アレクシスが、小さく声を潜めて私にだけ聞こえるように言った。
「その“力”……あまり大っぴらに使わないことだ。今のエルフの連中にとっては、大変不快に映るだろう。……何であれ、平坦な道とはならない」
「……忠告、ありがとう」
私は彼と視線を合わせ、力強く頷いた。
ようやく、スタートラインに立ったのだ。
ここからが、本当の戦い――。
お母さんの剣と首飾り。
それらを取り戻すのに、ようやく西大陸へと渡る通行証が手に入るんだ。
私は礼を言って部屋から出ると、公会堂から出ようとする、
重い扉が再び開き、外の柔らかな陽光が差し込んできた。
私はアロガと共に、誇らしげにその光の中へと歩き出した。
もう、何にも怯えることはない。
この絆と、ナナが守ってくれる限り――私はどこへだって行ける、と確信していた。
※※※
翌朝、ギルドの窓口へ向かうと、そこには昨日とは打って変わった、別種の静寂が流れていた。
私が姿を見せた途端、喧騒がぴたりと止む。
職員たちは一様に背筋を伸ばし、私を凝視する様に見つめてきた。
その瞳に浮かんでいるのは、単なる興味本位とは違う。
畏怖、そして抗いがたい敬意――。
昨日、アレクシスを退けたという噂は、もはやギルド中に浸透していた。
「……リルさん。昨日の審査、お見事でした」
窓口の職員は震える手で、ずっしりと重いミスリル銀のプレートを取り出した。
そこには、S級の称号を示す紋章が刻まれている。
受け取った瞬間、プレートが私の体温を吸い込み、冷たく肌に馴染んだ。
首から提げてアロガに向き直り、指先に引っ掛けて持ち上げる。
「……これで、アロガと一緒だね」
笑ってみせると、フスフスと鼻を鳴らしながら甘えてきた。
首筋辺りに掛かる息がくすぐったくて、私はアロガの鼻先を撫でて、離れるように言う。
「ほら、アロガ。皆が見てるから」
何しろ、私は――私達は、今この時からS級冒険者なのだ。
周りに対する示し、というものがあると思う。
未だに冒険者としての誇りなんて持ち合わせていないけど、かっこ悪い冒険者はやっぱりイヤだ。
それに、もしお母さんが見て、落胆する様な真似はしたくなかった。
尚も鼻先を近付けようとするアロガを宥めているその時、カツカツ、と硬質な靴音が響いた。
絹のような髪をなびかせ、エルフの官僚――多分、昨日まで私を追い詰めていた一人が現れる。
彼の表情は焦燥などない、といった感じで、能面のような無表情だった。
「S級認定冒険者、リル。……貴様の義務を説明せねばならん。二階へ」
促されるまま、私はアロガを連れて階段を上った。
案内されたのは会議室で、重厚な扉が閉まれば、室内にはエルフと私だけになった。
アロガは流石に入れず、仕方なく入り口前で待機だ。
「座れ。……さて、貴様も晴れて、これで
「ちょっと待って。暫定……?」
「そう、S級の席数は決まっている。何しろ急なことだったし、合格するのは、実に……あぁ、想定外だったのでね」
よくもまぁぬけぬけと……、という言葉はしまっておく。
その代わりに、睨み付ける事で返答にした。
けど、相手はまったく気に掛けてなくて、無視されたまま話を続ける。
「どの席を空けるか、それはまだ決まっておらん。揉めに揉めるのは目に見えている。実際にお前がその席に着くのは、一体いつになる事やら……」
エルフは殊更にわざとらしく溜め息をついた。
「本来は、この様な事態にはならないものだ。何故なら、A級になる為に……あるいはなってから、その者の得意とすることや実績が見えるからだ。任せるに足る何かがあり、何に適しているか、そして現S級を退け、座らせるに足る理由があるのだと……自然に分かる」
思うことはあれども、言っていることは理解できた。
そして、私があまりにもぽっと出過ぎて、何が出来るかなど、上層部は知りようがない。
それもまた、理解できた。
確かにこれは、揉めても仕方ない、と思える。
口から出任せだけとも思えなかった。
「……そして、その空いた席に座るということは、そこに相応しい献身も求められる、という事だ」
確かに、そういう話だった。
アレクシスは王都の治安維持を預かると言っていたし、他のS級には魔術学園の後ろ盾を持つ者もいるらしい。
そういう風に、他の冒険者とは違う、個別の仕事があるのだろう。
《確か、研究なんかで協力しているとか、そんな話があるわよ。高い魔術的知識を活かして、新たな発見の貢献とかしてるのかしらね?》
(そんなの私、代わりにやれないよ……)
頭に響いたナナの声に、私は情けなく弱音を吐いた。
《まぁ……、研究については、最初から除外されてそう。他に何があるかまでは知らないけど……でも、なんとか上手くやるしかないわよ》
どうしよう、と不安な気持ちでいると、エルフの方が蔑みに近い視線と共に、言葉を投げ付けてきた。
「……いずれにしろ、『献身』については先の話だ。その他にも義務があり、お前にはまず、そちらに注力して貰う」
エルフは冷ややかに微笑み、一枚の古い羊皮紙をテーブルに置いた。
そこには、未踏破領域を記した地図と、そこに棲息するとされる、おぞましい魔獣のスケッチが描かれている。
「知っているか? 冒険者ギルドが掲げる『未知を既知に変え、魔獣を倒しその腕を磨け』というスローガン。あれには裏の意味がある。その目的はただ一つ――隠れ住む『魔女』を狩り出し、討伐する戦力を育てることだ」
私の鼓動が跳ねた。
「魔女……討伐? それが、S級の義務……?」
「そうだ。秘境に潜み、世界の均衡を乱す魔女。我々エルフは、その討伐を至上命題としている。貴様が獣人でありながら、S級を阻まれた理由は簡単だ。獣人は魔女に好意的な者が多い。……つまり、任務を拒絶する可能性が高いからだ」
瞬間、頭の中が真っ白になった。
魔女討伐――。
お母さんがなぜ冒険者を嫌い、私にその道を歩ませまいとしたのか。
その理由が、今になって分かった。
自分を狩り殺すための役割を、私にさせたい、と思うはずがない。
それどころか、この事実に触れさせたくない、と思っていただろう。
「……嫌だな」
エルフは私の動揺を、やはり魔女に与すると受け取ったのか、口端を歪めて小馬鹿にしたように笑った。
「断るか? だが、S級の義務だ。やって貰うぞ。妨害された時点で、素直に諦めていれば良いものを……とはいえ、貴様に魔女討伐を頼むのはもう良い。すでに『済んだ話』だ」
その言葉の裏にある不穏な気配に、私の心臓が冷や水をぶっかけられたように凍りつく。
《リル、怒りを抑えて。……あいつの言葉は、冷静に聞き流しなさい》
脳内でナナの鋭い警告が響く。
私は必死に、荒ぶりそうになる魔力を、深呼吸で抑え込んだ。
「済んだ話……? どういうこと?」
エルフはゆっくりと椅子から立ち上がり、私を見下ろした。
「魔女討伐そのものは完了した。……だからこそ、貴様にやって欲しいことは、その後処理だ」
エルフは窓の外を見てから、まるで獲物を品定めするような冷徹な視線を投げる。
「魔女の『弟子』。……魔女の術式を継承した、忌まわしい血脈。魔女は滅んだが、その知識は残っているだろう。貴様に命じる。……その『弟子』の首を、我が手に引き渡せ」
私は、息をすることさえ忘れた。
……弟子の、抹殺。
私の心の中にいるナナ。
そして、私自身が受け継いだ
――つまり、私を殺したいの?
《違うわ。リルは確かにお母さんの弟子で間違いないけど、魔女の術を継承してはいない。彼らの定義からすると、あなたは“弟子”とは言えない》
(そう、なの……?)
《それに、あなたを弟子と知っていたら、そもそもこんな話はしないわよ。有無を言わさず拘束しに来るでしょう。試験なんかせず、あるいは試験中に、ね》
(そっか……)
妨害なんかで済ませてる時点で、私を“魔女の弟子”と認識していない証拠――。
そうかもしれない。
「……それ、本気で言ってるの?」
私は震える拳を、机の下で強く握りしめた。
アロガが何かを感じ取って、扉の外で唸り声を上げる。
それで、会議室の空気が一気に張り詰めた。
「ああ、本気だ。それがS級冒険者としての、お前の最初の仕事となるだろう」
エルフのその瞳には、薄ら寒い悪意が宿っている。
私は吐き気を堪えて平静を装うのに、相当な苦労を要した。