静まり返った執務室の中で、皇国の新皇であり、神官長を務めるアーダルブレヒトは、窓の外に広がる夜空を見上げていた。
吹き抜ける夜風が、高度に発展した都市特有の匂いを、わずかに運んでくる。
彼は深く息を吐き出し、自らの長い生に思いを馳せた。
過去、数百年にも及ぶ時間。
それは人間の歴史であればとうに何世代も入れ替わり、王朝の興亡すら起こる途方もない長さだ。
人の身であれば幾たびも老い、枯れ果て、土に還っているはずの歳月——。
長い生を許されたエルフの種族であっても、これほどまでに長く、一つの目的のために生き続けた者は少ない。
本国から離れた地にあっては、尚の事そうだった。
しかし、アーダルブレヒトの心に迷いはない。
自らの持つ大義を思う故に、彼は一度たりとも、その歩みを止めようとか、途中で投げ出そうなどと思ったことはなかった。
“本国”の掲げる悲願。
それは即ち、アーダルブレヒト自身のすべての存在意義そのものだった。
その目的を果たすためだけに、彼は幾星霜もの時間を費やし、身を粉にして邁進してきた。
この『実験島』で、彼は現在“新皇”などと大層な名で呼ばれている。
だが、それはあくまでこの狭い世界に生きる無知な者たちが、勝手に作り上げた矮小な肩書に過ぎない。
正しくは、“神官長兼特殊任務専任官”。
つまるところ、彼の本質はあくまで本国の派遣した“いち役人”に過ぎなかった。
国を造り、ヒトを導き、文明を育み、外から見ればまるで遠回りで、まどろっこしいとすら思える長大な計画を地道に実行してきたのも、すべてはただ一つの大義を完遂するためだ。
東大陸や西大陸などと、この世界の住人たちは大層な名前をつけて、自らの世界を誇っている。
だが、それも俯瞰して見れば滑稽な話だった。
世界の本当の広さに比べたら、彼らが踏みしめている大地など、小指程のほんの小さなものだ。
本国の人々からすれば、東西の大陸など、ただの連なった“島”の一つ程度にしか認識されていないのだ。
そして、世界の端に位置する孤島であろうとも、“見える者”にとっては見えている。
彼らエルフにとっては、それこそが重要だった。
住人たちはその事実を露ほども知らず、自らの世界のすべてがここにあると信じ込んでいる。
その無知さが、アーダルブレヒトには時折ひどく滑稽に、そしてどこか哀れに思えるのだ。
彼はそっと、自身の胸元に仕舞ったペンダントに触れた。
指先に伝わる冷たい水晶——秘石の感触。
これまでも、彼は自身の長命を保つために相応の秘術を講じ、老いを遅延させるための労力を惜しまなかった。
しかし、このペンダントを手に入れた今、もはや老いに対する懸念すらも、完全に過去のものとなりつつある。
これからは、老化対策に用いていた時間全てを、“計画”の為に使える。
それ自体は、大いなる成果であり、素晴らしい事と言えた。
しかし、すぐにアーダルブレヒトは自らの心にブレーキをかける。
――いや、慢心してはならない。これはあくまで、手段なのだ。
彼は自分自身に、そう強く言い聞かせなければならなかった。
永遠の命や、個人の安寧など意味はない。
すべては大義を成す為の、必要な道具に過ぎないのだから。
その大義の成就の果てに、どのような光景が待っているか。
もしそれが叶えば——必ず叶えるが——その際に、その手御自ら罰を下していただく為に、長命はある。
非道な事をしている自覚はあり、そして罰を受けなければならない。
この命はその為にも、長らえていなければならなかった。
彼の計画の過程において、多くの罪なき者たちが犠牲となった。
特に、東大陸に元から暮らしていた獣人たちはその筆頭だ。
大義の名のもとに彼らを虐げ、生活の場を奪い、過酷な奴隷身分へと落としたのは他ならぬ自分自身である。
その罪の重さを、アーダルブレヒトが忘れたことは一度たりともなかった。
だからこそ、その罪はいつか必ず、自身の身をもって償わなければならない。
償いの時が訪れるその瞬間まで、彼は罪を背負ったまま、生き続けなければならないのだ。
しかし——。
ペンダントに触れていたせいか、あるいは過去に思いを馳せたせいか、彼の思考は自然と、その持ち主のほうへと移っていった。
――魔女。
あの日、あの時、あの森で……。
戦った相手は本当に、かつて自分が知っていたあの魔女だったのだろうか。
——無論、理屈で考えれば、そうとしか思考えられない。
何よりも、この絶対的なペンダントを彼女が所持していた事実こそが、その動かぬ証拠と言えた。
だが、それでもなお、彼の中には拭えない違和感が残っていた。
「はたして、あの魔女はあんなにも殊勝な性格をしていただろうか……」
彼の記憶にある魔女は、もっと冷酷で、合理主義で、自分以外のすべてを切り捨てるような生き方を選んでいた。
あのように傷だらけになり、魔力の限りを尽くして、森の為、家の為に命を削るような真似をするだろうか。
あの魔女であれば、そんな愚直な抵抗などしない。
森ごとすべてを焼き払うような、広範囲の壊滅魔術を容赦なく撃ち込み、その隙にでも悠々と逃げおおせる方が、余程しっくり来る。
とはいえ、目の前にある事実がそれを否定する。
このペンダントが精巧なレプリカなどではないことは、既に確認済みだった。
魔力を通したときの反応、その時に返すな反射波動、どれをとってもこの世に二つとない本物の品であることに間違いはなかった。
“混沌”の名を与えられた理由は複数あるが、その一つに本来の姿形を自在に変えることができる、というものがある。
だからこそ、容姿を判断材料にすることはできない。
しかし、どれほど姿を変えようとも、一つだけ変えない事実がある。
それはあの者が纏う“紫銀の髪色”だけは、隠そうとしない、というものだ。
だから幾度となく、目撃証言だけは得て……それ故に長く翻弄されて来た。
そして、あの時の魔女もまた、間違いなくその紫銀の髪を揺らしていた。
だがもう一つ、心の隅に引っかかっている疑問があった。
あの女の顔を見たとき、彼はどうしようもない既視感を覚えたのだ。
どこかで、似たような顔を見たことがある。
「果たして、それはどこだったか……」
記憶の底を探ってみても、すぐには名前も場所も浮かんでこない。
ただ、魔女と極めて深い関わりのある誰か、あるいは“万巻の塔”に居た誰か——そんなぼんやりとした印象だけが僅かに浮かぶ。
より深く思い出そうとして、アーダルブレヒトは数秒間、意識を完全に内側へと向け、思索の海に没頭してみた。
しかし、幾ら記憶の引き出しをひっくり返しても、決定的な答えは形にならないまま、結局は霧散していく。
数百年の長きを生きるうちに、記憶の断片が風化している部分もあるのだろう。
彼はかすかに息を吐き、その詮なき思考を一度打ち切ることにした。
「いずれにせよ、結果がすべてか……」
“時の秘宝”とも言うべきこのペンダントが、今や確実に自分の手の内にある。
その事実の前では、細かな疑問など些細な問題にすぎなかった。
計画はこれで大幅に前進したと言っていい。
本国の悲願達成に向けて、障害は着実に排除されつつある。
——その時だった。
静まり返った部屋の中で、胸元に収めようとしていたペンダントが、ふと微かな光を発した。
まるで遠くの同胞と呼応するかのような、あるいは何かに引き寄せられるかのような、澄んだ光の明滅。
それはまるで、秘石同士が共鳴を起こしているかのようだ。
しかし、アーダルブレヒトの認識では、この計画に必要な秘石は、今ここにすべて揃っているはずだった。
――いや、と彼はその場で思考を急転換させる。
もしかしたら、自分の認識が間違っていたのかもしれない。
「もしかしたら、私が把握している以外にもう一つ、別のピースが存在している……?」
そして、このペンダントはその未知の欠片と共鳴しているのではないか。
思考の澱みが晴れていくような感覚がした。
もしや、あの魔女が命を賭して、逃げ出さずにまで守ろうとしていたものは、自分たちが手に入れたこのペンダントそのものではなく、その“最後の一つ”にこそあったのではないか。
もし、それが真実なのだとしたら——。
あの時、魔女が執拗にあの地にとどまり、隠そうとした理由のすべてが説明がつく。
その事実に行き着いた瞬間、胸の奥で冷たい炎が燃え上がるような感覚を覚えた。
もしそれが本当なのだとしたら、“時の秘宝”は、まだ完成を見ていないことになる。
すべてのピースが揃ったとき初めて、秘宝は真の力を発揮し、本国の悲願をも超える奇跡を引き起こすかもしれないのだ。
ならば……。
ここで立ち止まっている暇などなかった。
「ならば、今やるべき事はただ一つ」
最後のピースを手に入れるべく、アーダルブレヒトは再び、冷徹な計算と執念に満ちた思考の海へと、深く没頭し始めた。