王都を発つ――。
その為に今、私はほんの二日だけ過ごした、『鹿の蹄亭』へと向かっていた。
道行く人々が私とアロガを見て避けるのは、もう珍しくもなんともない。
けど、胸元で光るプレートを見て、畏怖めいた視線を向けられるのは慣れなかった。
宿屋に着いて部屋に入ると、張り詰めた気配を解いて、床に寝転がる。
すぐ隣にアロガも丸くなって、だから自然とそのお腹を枕にした。
尻尾がふわりと乗っかって、即席の布団としてくれるのも、またいつものことだ。
きめ細やかな肌触りをしている尻尾だから、ただ撫でているだけでも楽しい。
部屋の中を見るともなく見ながら、手慰みに尻尾を撫で続けた。
そうして部屋の一角で目が止まると、自分の荷物を見つめる。
荷解きなどもろくにしてなかったので、出ようと思えば、直ぐにでも出られる状態だ。
支払いは既に済ませてあるので、出発しようと思えば、本当に今すぐにでも出発できた。
でも――。
王都に思い入れなんかないけれど、このまま出て行くのも寂しい気がする。
かといって、観光する様な気分でもなかった。
また何か、面倒事がやって来そうな感じもするし……流石にエルフの妨害は、もうないと思うけど……。
「リル、あまり浮かない顔をしないで」
ふわりと肩越しから現れたナナが、励ますような声をかけてくる。
私はお腹に乗るアロガの尻尾を撫でながら、ぼんやりと天井を眺めた。
「別に落ち込んでるわけじゃないよ」
「それなら、なに?」
「……ただ、『最初の弟子』って言葉が、どうしても引っかかって……」
お母さんは、そんな弟子がいるなんて、一言も語らなかった。
語ったのはいつだって、師匠の話だけだ。
もし本当にお母さんの弟子なんてのがいたのなら、どこかのタイミングで話してくれていそう、とそう思った。
それに、そんな弟子がいたのなら、あの戦いで、助けに来てくれても良さそうなものなのに……。
そして何より、“魔女の術”――あるいはそれ以上の何かを継承している人、というのが気に掛かった。
お母さんの愛した
「もし、本当にそんな人が居たら……私、なんて声をかければいいのかな」
「素直に言えばいいじゃない。『私は魔女の娘です』ってね。……もっとも、あたしはそんなの、いないと思ってるけど」
「そうなの? どうして?」
「お母さんは弟子――魔女の弟子なんて、欲しいと思っていなかった、というのが一つ。もう一つは……魔女は目立つ存在だから、かしらね?」
謎めいた事を言われて、私は首を傾げる。
本当に目立つのなら、お母さんはエルフとかに、すぐ見つかってたんじゃないだろうか。
「あぁ……! そうじゃないのよ。精霊にとっては、って意味で。あのエルフも言っていたでしょう? マナ溜まりに居を築くって。そんな事したらね、精霊界からはすぐに分かってしまうのよ」
「あ、そっか。うちにも精霊とか妖精が、沢山遊びに来てるもんね」
「そう。お母さんがあの森に来た時、そもそもあの場所は、妖精達の根城みたいなものだったけど」
ナナは自分で言った言葉に、クスクスと笑った。
「森を切り開いて、あの一画を作り出すのにも、ひと悶着あったと言う話よ。まぁ、だから……湿原に魔女の弟子なんていたら、それと似た問題が起きていたでしょうね」
「そっか……。でも、何処かには居るんだよね? “最初の弟子”は間違いなくいるって、エルフは言ってたけど……」
ナナは難しい顔で腕を組み、ソファにでも身体を沈める格好で、部屋の中をゆっくりと周遊し始めた。
「そこが難しい所でね……。さっきも言ったみたいに、魔女ならマナ溜まりを無視する事はない……筈なのよ。なのに、あたしが知る限り、この東大陸でそんなのはない」
「本当に?」
「本当よ。お母さんの他に、そんな事をしてるヒトなんていないわ。だから、本当にいるのなら、マナ溜まりに興味なくて、今もあちこち旅してるとか……。もしかしたら、そういうの関係なしに旅が好きとか、そういう性分なのかもね」
ナナの言葉に、失望めいた気持ちが胸に満ちた。
「じゃあ……、出会うのは難しいってこと?」
「そうなるわ。何処にいるかも不明、姿形も不明、名前も不明……。それでどうやって見つけるって言うの?」
確かに、それでは見つけようがない。
もしも、マナ溜まりに居を築いていたら、多分この人だ、と思えたのに……。
※※※
結局、その日はゴロゴロして出発する気は起きず、翌日に宿を発った。
王都の喧騒を背に、私は大きな荷物を背負い直す。
石畳を叩くアロガの足音が、心なしか心細げに響いた。
北門へと続く通りを歩いていると、ふと、人混みの中に目を惹く揺れを見つけた。
陽光を反射して艶やかに光る、黒色の猫耳。
人波を縫うようにして近づいてきたのは、見覚えのある細身の影だった。
「……リル?」
呼びかけられて足を止めた。
よくよく見てみれば、そこにいたのは懐かしい顔だった。
かつて獣人の村落で意気投合し――共にお母さんから、武術を習った。
ほんの数日の関係でしかなかったけれど、あの時の思い出は、今も変わらず大事なものとして心に残っている。
猫獣人のフェリカ。
その彼女が、皮装備に身を包み、猫耳をぴこりと跳ねさせながら、黄色の瞳を大きく見開いていた。
「フェリカ! 嘘、どうしてここに?」
「いや、こっちの台詞だよ!」
私たちは同時に駆け寄り、お互いの手を取り合った。
掌から伝わる確かな温もりに、旅立ちの緊張が少しだけ和らぐ。
フェリカは私の顔をまじまじと見つめ、呆れたような、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべた。
「誰かさんがS級に挑むとか、巨大な魔獣を使役したとか、噂は色々聞いてたけど……まさかアンタのことだなんて! てっきり同じ名前の、別人だと思ってたよ!」
彼女の突き抜けるような明るさに、私は思わず苦笑する。
それから、私たちは路肩のベンチに腰を下ろして、互いの近況を報告し合った。
その背後では、番犬よろしくアロガが腰を下ろし、周囲を威嚇するように睨み付けている。
お陰で私達の周囲には誰も近付きたがらない。
フェリカも最初はおっかなびっくりだったけど、私が安心する様に言うと、とりあえず頷いてくれた。
「いや、それにしても立派な……いや、立派過ぎる魔獣だね。アロガ……だっけ」
「そう、私の弟。前に話したよね?」
「まぁ、焚き火を囲んでた時に、そんな話を聞いた……、けどさ……。全然、想像してたのと違うし! もっとこう……甘えたがりの、小さなリルっぽいのを想像してたよ!」
そういえば、
私の中では、もう当たり前のこと過ぎて、口にするのを忘れていたかもしれない。
「アロガ、フェリカは大丈夫だから。友達だからね。仲良くしてね」
そう言うと、アロガはヌッと顔を近付け、匂いを嗅ぎ始める。
その間のフェリカはというと、まるで彫像にでもなってしまった様な感じで、微動だにせず、為すがままになっていた。
アロガは一通り匂いを嗅いで満足すると、フシッと鼻から息を吐いて、また元の体勢へと戻る。
それでフェリカも、ようやく緊張を解いて、肩を下ろして息を吐いた。
「ちょっと……。やるならやるって、一言くらいあるべきでしょ……」
「アロガは噛み付いてりしないよ」
「だとしても! アタシの頭なんて、ひと飲みに出来る口が迫って来るのよ……! 怖いでしょうが!」
「そう?」
私が後ろに手を回すと、アロガはその手に顔を寄せてくる。
手を丸ごと、次に頭の耳を舐めて、毛繕いでも始めようとしたので、それは流石に止めた。
もう私だって、そんな事をされるほど子どもじゃないのだ。
「それで、フェリカはどうしたの? その格好を見ると、無事に冒険者になれたんだって分かるけど」
「そう! そうなのよ!」
フェリカは胸を張って、皮鎧の胸元から冒険者プレートを取り出して見せた。
それは目映いばかりの金色に輝いていて、中央にはランクと順位を示す記号が刻印されている。
「どう? A級、三十位! たった一年で、ここまで上り詰めたのよ? これはギルドの歴史を見ても、中々ない快挙なんだから!」
フェリカに顔は自信に満ち溢れていて、プレートを誇示するのが嬉しくて堪らない、といった様子だった。