路地裏の湿った空気が、フェリカの放つ鋭い殺気で震えた。
猫獣人特有のしなやかな身のこなしで、彼女は地面を蹴る。
迷いのない一撃が、私の喉元を正確に狙って突き出された。
「リルは考えが甘いんだよ!」
反射的に私は横へと跳ぶ。
石壁にフェリカの爪が食い込み、火花が散った。
彼女の動きは、かつて共に武術を学んだ時よりも、遥かに研ぎ澄まされていた。
それは単に速い、というだけではない。
相手の“呼吸”を殺し、次の動作を先読みするような、実戦で培われた技術による速さだった。
「……フェリカ、本気なの?」
「当たり前でしょ! アンタが死にに行こうとしてるのに、黙って見てられるわけない!」
フェリカは止まることなく追撃してくる。
旋風のような蹴り上げを紙一重でかわし、一歩後退した。
――反撃の機会はある。
けれど、私は剣に手をかけることを、どうしても躊躇ってしまった。
ナナは戦闘開始と同時に私の中へ戻っていて、本来なら助ける魔力制御を、むしろ抑え気味にしながら言う。
《リル、どうするかは任せるけど……。あえて言わせて貰うなら、防御に徹した方が良いわ。フェリカは殺そうとしているんじゃない。……これ以上進めないように、心を折るつもりなんだから》
ナナの冷静な分析に、私も内心で頷く。
フェリカの瞳には、明確な“親愛”と“悲しみ”が混じっていた。
「分かってる。……でも!」
私は地面を蹴り、フェリカの懐へと踏み込んだ。
剣は抜かない。お母さんから学んだ“体当たり”の要領で、彼女の重心を崩す。
「――フッ!」
ガツン、と肩同士がぶつかり合う。
フェリカがバランスを崩し、路地の隅へとよろめいた。
その隙に私は距離を取り、息を整える。
「……どうしてそんなに西大陸を恐れるの? 何か、私に知らない事情があるの?」
私の問いに、フェリカは立ち上がりながら、ひどく苦悶に満ちた表情を浮かべた。
「リルが何を知らないか、そんな事まで知らないよ。でも西大陸は……、エルフの土地だ。獣人にとって忌まわしい歴史――奴隷として、道具のように扱われていた奴らの根城。それぐらいは知ってるでしょ?」
これには辛うじて頷く。
お母さんからも学んだ事だけど、じゃあ具体的には……となると、途端に分からなくなってしまう。
酷い扱い――というのは分かっても、どう酷かったのかまでは知らない。
お母さんも、そこはあえて言わなかった様に思う。
きっと、まだ私が幼かったから、そうした部分は伏せていたんだろう。
「エルフが支配する今の西大陸がどうなっているか、私になんか詳細は分からない。……でも、血塗られた歴史を持つ連中が、獣人に対して慈悲深いと思う?」
フェリカの黒色の猫耳が、悲しげにペタリと伏せた。
「只でさえ、西大陸への通行は制限が多くて、普通のヒトには未知そのものだわ。冒険者でさえ、S級に到達しないと行けないって時点で、その制限の厳しさが分かる。でも、その制度さえ、獣人の前では壁を置く。リル、分かるでしょう? だからこそ、その地に行けば何が起きるか……考えたくもないのよ!」
路地裏に、フェリカの切実な声が響いた。
でも今は、何故その壁を置かれていたか、私は知っている。
冒険者に求められていたのは、魔女討伐の為の兵となる為だ。
獣人は反発の方が強いと判断されていたから、その門を閉じていたに過ぎない。
今は――今となっては、その討伐に意味を見いだせなくなったから、渋々ながら許された形だ。
フェリカが思うような、奴隷の歴史が蓋をするような、そんな事情はない。
……ない、のだと思う。
でも、西大陸の事情を、何ひとつ知らないのも、また事実だった。
それを突きつけられ、思わず言葉に詰まる。
(……それでも、止まれない)
私はフェリカと真っ向から向き合い、静かに告げた。
「フェリカ、教えてくれてありがとう。……でも、行かなきゃいけないの」
「アンタ、まだ言ってるの!」
「もし本当に、奴隷にされていたから、今も不当に扱われるとしても……。獣人を見下すような連中がいるとしても……! 私が諦める理由になんかならない。その傲慢さごと叩き折って、お母さんの誇りを取り戻す……!」
改めて口にすると、私の中から迷いが消えた。
そのとき路地の入り口で、アロガが静かに咆哮した。
地鳴りのようなその響きに、王都の空気そのものが揺れる。
フェリカはしばらくの間、私をじっと見つめていた。
やがて、彼女はふっと力を抜き、爪を収めた。
「……本当に、救いようのない馬鹿ね」
彼女は溜め息混じりに笑い、私の肩をポンと強めに叩く。
「いいよ、わかった。……その代わり、アタシも付いてく」
「え……!?」
突然の提案に面食らって、ただ驚く事しか出来なかった。
「だって、リル一人じゃ、どう見ても不安たっぷり、って感じでしょう?」
「ナナがいるよ。アロガだって……」
「そりゃあ、ナナ様は頼りになる助言をくれるでしょうけど、外に出られないじゃない」
「出られるよ。宿の部屋の中とか……」
だから、とフェリカは両手を腰に当てて、小さな子にお説教でもするかの様なポーズで続けた。
「それじゃあ、肝心な時に手が遅れるって話! 上手い言い訳とか、もしくは手を取って逃げ出すとか、そういう機敏な対応には不得手だわ」
《それはまぁ……、認めないわけにはいかないでしょうねぇ……》
不承不承でありつつ、どこか面白がるような声が頭に響いた。
私が不満げな顔をしたからか、フェリカは勢いづいて続ける。
「一々、指示を待ってたんじゃ、後手後手に回って手遅れって事もあるし……それに、リルに世知に長けた対応なんて、もっと無理だわ」
《それも、ご尤も》
(ナナはどっちの味方なの……!)
《いつだって、リルの味方よ。決まってるでしょう?》
またも愉快そうな響きが聞こえて、思わずむっつりと口を閉じてしまった。
「そして、リルはエルフを余りに知らなすぎる。――そりゃあ、アタシだって詳しいとも言えないけどさ。でも、こっちに浸出して来たエルフの強引さ、傲慢さは実際に見て、肌で感じてる」
そう言うと、一度言葉を切って、自分で自分の腕を撫でた。
「まぁ、容赦ない奴らだよ。昔と違って、強引に武力行使は簡単にしないみたいだけどさ。だから逆におっかない、って言うか……」
「そうかな? 割と普通に使ってきた様な……」
「つまり、そこまでさせる程、リルが逆らったって事でしょ? 大体、最初はもっと警告めいた脅しとかあるのが普通なの。……まぁ、これも聞いた話だけど」
それは確かに、その通りだった。
だからこそ、バルミーロ親方の店を焼かれたんだろうし、それを無視したから、強硬手段に移った。
「うん、そうだね……。そのうえ、凄くしつこい……」
「負けを認められない、ってだけかもしれないけどね。ともかく、さ――」
ここからが本題、とばかりに、フェリカは胸を張る。
それにつられる様に、尻尾が縦に揺れた。
「あんた一人じゃ心配なの。ただ心配なだけじゃなくて、すごぉ〜く心配」
「そんなこと言われても……。大体、西大陸に行けるのは、S級だけなんだよ?」
「ふっふ~ん! 抜け道があるんだな、これが!」
フェリカは自信満々に頷き、それからニヤリと笑った。
その上機嫌ぶりは、尻尾の揺れにも現れている。
でも、そんなの到底信じられない。
「本当に、そんなのあるの?」
「あるわよ。……いい? 行けるのは、S級だけなのは確かだけど、“S級パーティー”もそれに含まれるの」
「ちょっと待って。S級
オウム返しに尋ねると、フェリカは二度、大きく頷いた。
「そう! だから、リルがパーティー作って、それにアタシが加われば、文句なしに通行可能ってワケ!」
「それって、ありなの!? ズルくない? それが出来るなら、最初から私もそうすれば良かった……」
「バカね。誰が見ず知らずのアンタを、自分のパーティーに入れてくれるって言うのよ。大体、上下ワンランクまでしか組めない決まりだから、最低でもA級じゃないと、まず制度の問題で門前払いよ」
そこまで言って、今度はわざとらしく驚いた振りをして、胸元から冒険者プレートを取り出す。
「あら、ヤダ! 偶然にも、アタシったらもう、A級になってたんだわ」
そう言うと、こちらの返事を待たず、肩に手を置く。
「これで何の憂いもなく、一緒のパーティーを組めるってわけね。――さ、行きましょ」
「ちょちょちょ……っ! 行くって、何処に!?」
言うや否や、腕を取って歩き出そうとするフェリカに、私は慌てて声を掛けた。
「決まってるでしょ? パーティー申請しに、ギルドに行くの。じゃないと、アタシが通行出来ないじゃない」
「そもそも! まだ組むって決めてないよ!」
「じゃあ、いま決めて。――決まった? 行っても良い? 良いわよね、はい決定!」
何て言う押しの強さだろう。
でも、冒険者同士というものは、このくらい押しが強くないと、やれないものなのかもしれない。
「大丈夫、アタシだって戦力的にも、旅の同行者としても、頼りになると思うわよ」
そう言って、自信満々に笑みを浮かべる。
手を差し伸べられて、私は躊躇いながらその手を取った。
私たちはこうして、改めて友情を――そして、旅立ちの決意を分かち合ったのだった。