月明かりが、荒野に伸びる道を青白く照らす中——。
私たちは夜の冷気の中を、あえて人目のつかない獣道へと逸れて走っていた。
背後にあるミルドの町が、まるで灯火の海のように遠ざかっていく。
アロガの足音は、闇に溶け込むように静かだけど、その速度は凄まじい。
風を切り、大地を蹴るたびに景色の流れる速度が増していく。
「……ホント、感謝するわ。アタシもアロガに乗せてくれて。この距離を走り続けるのは、ちょっとホネだもの」
「私の腰にしっかり掴まってね。アロガの毛を掴んじゃ駄目だよ」
私以外が乗るのを嫌がるアロガを、説き伏せるのは大変な苦労だった。
でも、こうでもしないと、術式から逃れられないから、何とかどうにか宥めすかした。
——今だけだから。
——目的地に着けば、すぐに降りるから。
後は、余計な所は触らないとフェリカにも約束させて、それでようやくの納得だった。
その毛並みを堪能したかったフェリカからは、残念そうな顔をされたけど……。
でも、状況を考えて、自分に言い聞かせる様に我慢していた。
「ねぇ、リル? アロガと仲良くなれば、触れるようになるかしら?」
「うん、多分ね。でもほら……、最初に私の旅を止めようとして、戦闘になったでしょ? あれで未だに敵認定されてるんだと思う」
「え……!? もう謝ったし、リルとも仲良くしてるじゃない!」
「アロガからすると、それだけじゃ信用するには不十分、って事だと思う」
「そんなぁ〜……。もう絶対、あんな真似しないのに。許してよ、アロガ〜……!」
そんなフェリカの願いも、アロガには全く届かない。
完全に無視する形で、変わらず疾駆し続けている。
フェリカは風に髪をなびかせながら、尚も声を上げていたけど、アロガがそれに反応することは、遂になかった。
そんな二人——いや、一人と一匹のやり取りを置いて、私はナナから聞いた話をフェリカに話すついでに、アロガの背を撫でる。
「ナナが言うには、術式の網を抜けるのに、今の速度で数時間走り続ける必要があるってさ。……アロガ、頑張れる?」
「グルルッ!」
唸る様な頼もしい返事が返ってきた。
荷物を背負った二人分の重さはそれなりだろうに、それを全く感じさせない軽やかさだ。
アロガは障害物を巧みに避けて、前進を続ける。
ふと、夜空を見上げると、星々がやけに大きく見えた。
お母さんもこうして、追っ手を撒きながら旅をしたことがあったのかな……。
そう思うと、胸の奥が少しだけ寂しくなった。
少しは吹っ切れたつもりでも、ふとした拍子にお母さんの事が顔を出す。
そして、どこまで行っても、何かにお母さんの影を追わずにはいられない。
寂しさは、いつまでも晴れることがなかった。
※※※
数時間後、周囲の風景は完全に荒野から岩山地帯へと変わっていた。
ここまで来れば、術式の感知範囲を優に超えているはず……。
「……この辺で良いかな」
私はアロガに停止の合図を送った。
岩陰に身を隠し、焚き火をせずに簡易的な野営の準備を整える。
《リル、感知範囲は抜けたけど、だからって油断しないでね。何事にも絶対はないんだから》
ナナの注意する声に、私は大きく頷きながら息を吐いた。
アロガからフェリカと共に降りると、心なしか肩の荷が降りたような気分になる。
「……これで、ようやく私たちの旅が始められるね」
フェリカは近くの岩の上に腰掛け、水筒を口に運んだ。
「ええ。監視の目がないってのは、清々しいものね。……さて、追っ手がいないと分かれば、次は西大陸への足掛かりよね。オウカの港町、えぇと……名前は何だっけ。ま、とにかくそこが当面の目的地よ」
言い終わると同時に、ルヴィアンがふわりと現れ、周囲を警戒するように浮遊する。
「……東の空が白み始めている。休憩は短いものになるぞ」
「分かってるって。ねえ、リル。港町に着いたら、まずは美味しい物を食べましょうよ。港町の魚介は、とっても美味しいんだら」
フェリカの能天気な言葉に、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
アロガが私の隣に伏せると、水をせがむので私の水筒から与えてやる。
ここまで走り通しだったのだ。
その要求も当然で、少しの休憩も必要だった。
目の前に置かれたお皿から、みるみる内になくなっていく。
満足するまで追加してやり、飲まなくなった後は干し肉を与えた。
アロガの巨大だと、一つ二つでは全く足りない。
いっそ獣でも狩ってこようか、と思い始めた頃、地平線から昇る朝日が、遠くの山々を黄金色に染め上げた。
「……休憩は終わり。移動しようか」
アロガはとっても不満そうだった。
更に干し肉を与えて、とりあえず納得して貰い、毛並みを撫でながら立ち上がらせる。
そうして、再び西を目指して歩き出した。
それは、誰に決められた道でもない。
私が、私の意思で選び取った、新しい旅の始まりだった。
※※※
オウカの港町へ足を踏み入れたとき、潮風と共にどこか焦げ臭い気配が漂ってきた。
石畳の通りは、これまで通った町以上に人通りが少ない。
ギルドの支部へ向かう道すがら、街の住人たちが不安げな表情で噂話をしているのが耳に入った。
「……聞いたか? 名のあるS級冒険者が、竜との戦いで深手を負ったらしいぞ」
「ああ、あのカトリーヌ様だろ? 王都から駆けつけたはずなのに、まさかこんな……」
カトリーヌという名を聞いた瞬間、私の足が止まった。
王都で私を導き、時に優しく接してくれたあの先輩冒険者。
あの人が何故こんな所に……?
……そう考えて、すぐに思い出す。
私がいざ試練を受けようという時、突然“何らかの依頼”が舞い込んでいた。
その時は、私から彼女を引き離す、ギルドの都合のいい方便だと思っていたけど……。
もしかすると、本当にS級の戦力が必要な事態となっていたのかもしれない。
「ねぇ、リル。どうする? アタシとしては、ちょっと様子が気になるんだけど……」
「そうだね……。私もお世話になった人だし……」
実際、彼女の口利きがなければ、S級試練など受ける前に門前払いだった。
今は目立ちたくないけど、このまま見過ごすことは義理を欠く気がする。
「……行こうか。何か出来る事があるかもしれない」
「そうこなくっちゃ!」
そうしてギルドへと真っ直ぐに向かって入ると、そこには見知った顔があって驚いた。
そこに居たのはエルザさんで、受付のカウンター付近で、青ざめた顔で立っている。
彼女は私に気づくと、安堵した表情で、すぐにこちらへ駆け寄ってきた。
「リル様……! まさか、こんなに早く再会出来るなんて……! あの時は本当に、ありがとうございました!」
エルザさんは一度、がばりと頭を下げた。
大きく遠回りしてきた私達だから、一直線に向かった彼女が先に到着していても、そこは不思議でも何でもない。
でも、たた再会しただけにしては、彼女の様子は少しおかしかった。
何かに憚る様に口元を手で隠し、小声になって言ってくる。
「……今、この町は大変なことになってます」
エルザさんの話によれば、彼女が運んでいた“貴重な薬草”は、カトリーヌさんの治療のために、どうしても必要なものだったという。
「カトリーヌ様は、竜を止めるために独りで山に入られました。……ですが、そんなことは滅多にありません。この付近に竜が居着いたのは最近らしいのですが、とても大人しく、暴れる様子がなかったとか……。でもやっぱり、単独任務というのは、あまり聞かない事です」
竜は確かに、ヒト一人でどうにかなる存在じゃない。
それなのに、ギルドがそれを命じたなら、それは遠回りな暗殺に等しい行為だ。
私はエルザさんにお礼を言ってから、ギルドの奥にある療養所へ向かった。
そうして案内された先で見てしまう。
包帯に巻かれたカトリーヌさんが、荒い息をさせながら眠っている。
私はそれを、悔やむのと似たような気持ちで見つめた。