高度が上がるにつれ、地上の喧騒は完全に鳴りを潜めた。
風の膜の内側は、まるで温室のように凪いでいて、セリオスの翼が悠々と空気を押しのける。
その度、私たちは柔らかな波間に漂うようなリズムを感じていた。
「わあ……っ!」
フェリカが思わず、といった風に感嘆の声を漏らす。
眼下に広がる山脈は、まるで精巧な箱庭のようで、遥か彼方に輝く雲の海は、夕日に染まって黄金色に煌めいている。
『どうだ、リル。地上のちっぽけな悩みなんて、空から見れば何でもないだろ』
セリオスの声が、風の音に混じって心地よく響く。
私は大きく深呼吸をした。冷たくて澄んだ空気が、肺を満たしていく。
「うん、すごく素敵。空の旅は経験する度に、新たな発見がある気がする」
上機嫌に言ったそばから、ナナが姿を現して口を挟む。
「……でも、セリオス。このまま境界橋の関所を通るのは、避けた方がいいわ」
『何でだ?』
セリオスは前を向いたまま、不思議そうに首を傾げた。
『オレの速度なら、奴らが気付く前に飛び越えられるぜ』
「迎撃術式があるのよ。あの大陸——いえ、皇都を守っているのは、単なる監視の目じゃないわ。高度な魔法の網が、皇都を中心に張り巡らされているはず」
『何でそんなモンがあるんだよ。空から魔獣——いや、魔鳥か? そいつらが襲って来るのか?』
「実際のところ、その心配はしてないんじゃない? むしろ、警戒しているのは竜に対してよ」
『ァん?』
セリオスが不機嫌とも、不可思議とも取れる声を漏らした。
「エルフが想定している“敵”に、竜もしっかり組み込まれてるから。今は竜にその気がないのは分かっていても、何が理由で敵対するか分からない。そして竜の力は、例外なく厄介なものよ」
『分かるようで、分からん理屈だな。
「え? じゃあ、来て良かったの? 無理言っちゃってた?」
私が申し訳なさそうに訊くと、セリオスはむしろ上機嫌に笑った。
『構わねぇよ。むしろ、痛快ってなもんだ。リル達がエルフの鼻を明かそうってんなら、協力しない方が嘘だね』
「あら、それは心強い言葉ね。——でも、気を付けなければいけないわ」
ナナは柔らかい声から一転、鋭い眼差しで西の空を見据える。
「術式の中心である皇都、そして各地の都市に近づくほど、その網は強固になる。迎撃術式の境界を掻い潜るなんて、まさに自殺行為よ。そんな危ない橋を渡る必要はないわ」
『へっ、じゃあどうすんだよ。皇都を避けて、遠回りでもしろってか?』
「ええ、そうよ。単純な話よね」
ナナは頷き、東大陸の端から大きく外れた、西大陸の北端付近を指さした。
「ここから北へ大きく迂回しましょう。皇都からより北には大きな都市はないから、そっちの方角に遠ざかれば、術式の影響は軽微になるはず。……手間はかかるし、皇都までの道のりはかなり長くなるけれど、背に腹は代えられないわ」
『……なるほど。面倒臭いとは思うが……まあ、慎重なぐらいで丁度いいんだろうな』
セリオスはニヤリと口角を上げ、大きく翼を翻した。
『いいぜ、皇都の術式なんざカスリもさせねぇ高度まで昇って、そこから一気に潜り込んでやるよ』
セリオスは旋回し、さらに雲の彼方、酸素が薄くなるほどの高みを目指して上昇を始めた。
凍えるような冷気が風の膜を叩く。
眼下の世界はもはや色を失い、青と白の境界だけが広がっていた。
そして——。
『いくぞ。最高高度からの一気降下だ。ここから先は、息を殺せ』
セリオスが翼を畳んだ。
私たちは無音の世界へ放り出される。
身体が重力に引きずり込まれ、視界が真っ白な雲の中へと吸い込まれていく。
その急降下に喝采を叫びたい気持ちで横を見ると、私の気持ちとは反対に、フェリカには余裕というのが微塵もなかった。
「んギギ、ぎぎぎ……!」
引き攣らせた必死の形相で背中に張り付き、振り落とされまいと爪を立ててしがみついている。
一緒にこの楽しさを分かち合いたかったけど、ここは黙っていた方が良さそうだ。
『そぉら……! 抜けるぞ!』
迎撃術式の網など、存在すらしないかのように、私たちはただの流星となって、西大陸の静寂な森深くへと墜ちていった。
皇都までは、まだ遠い。
でも、誰にも気づかれずに侵入するという最初の関門は、確かに突破した。
冷たい風の中で、私は胸の奥にしまったペンダントを、革鎧の上から触れる。
これから始まる過酷な旅の始まりに、恐怖よりも確かな覚悟が胸に灯っていた。
※※※
着地は、衝撃というより海面へ降り立つような、流麗なものだった。
セリオスが最後の一瞬で翼を広げ、逆噴射のような風を巻き起こして慣性を打ち消す。
私たちは深い針葉樹の森の中へと降り立つと、興奮混じりにセリオスの背中から降りた。
周囲は湿った土と、冷たい樹液の香りが漂っていて、東大陸の空気よりも、どこか凛とした静けさが支配していた。
「……着いたわね」
フェリカが足元の土を踏みしめ、慎重に周囲を警戒する。
未だに青い顔をしているし、冷や汗も凄い。
それでも、装備を整え直す手付きは滑らかだった。
動揺も最小限で、A級冒険者としての矜持が見える。
そして、不甲斐ない姿は見せられない、と戒めているのは、何もフェリカだけではなかった。
アロガもまた私の前に、しっかりとした足取りで近付き、まるで「どうだ、凄いだろ」とでも言っている顔付きをする。
「うん、凄いよ。凄い」
ワシャワシャと撫でると、満更でもなさそうに息を漏らす。
その傍らで、セリオスは巨体を少しだけ縮め、周囲の樹木に身体を隠すように伏せた。
『さて、これでオレの出番は終わりだな。ここから皇都までは、陸路でかなりの距離があるみたいだぞ。お前らだけで行けるか?』
セリオスは、気遣いつつも鋭い眼差しを私に向けた。
この場所から皇都まで、具体的な日数はちょっと出せない。
でも、空から見た感じ、徒歩で半月は掛かりそうだった。
その間、私たちは騒ぎを起こさず、時には荒野を越えなければならない。
「大丈夫、なんとかなるし、なんとかするよ。セリオスがここまで運んでくれたおかげで、上手く行くと思う。……本当にありがとう」
「アタシからもお礼を言わせていただくわ。……正直、竜の背中に乗るなんて一生できない経験、させて貰ったしね」
フェリカの言葉に、セリオスは「へっ」と鼻を鳴らして笑う。
『礼なら、エルフどもの鼻を明かした後にでも聞かせてくれ。……それとな、リル』
セリオスの巨大な顔が、ずいっと私の方へ近づく。
少年のような無邪気さは消え、そこには野性味のある威厳が宿っていた。
『西大陸の森は、お前が思っている以上に“空腹”だぞ。エルフどもがマナ溜まりを完全に掌握しているせいで、この地のマナはもう、カリカリに干からびてる』
一度視線を逸らし、忌々しそうにそう言うと、再び元に戻した。
『……リルのその、風の精霊も、あまり派手に使わない方がいいぞ。精霊はこの地からとっくに逃げ出したろうけど、代わりにその魔力に釣られて、厄介な連中が寄ってくるかもな』
私は胸元のペンダントと、それより内側に潜む、ナナの存在を強く意識した。
この地では、魔力を使うこと自体が“焚き火を焚いて、闇夜に潜む獣を呼び寄せる”ようなものなのかもしれない。
《……その警告は順当ね。リル、ここでは魔力の使用は最低限にするわよ。どうしてもという時以外、あたしの力は使わずにおいて》
ナナの声も、いつも以上に緊張感に満ちている。
私たちは心の中で頷き合い、セリオスに最後の別れを告げた。
『まったく、心配だぜ……。いっそついて行ってやりたいぐらいだけど、オレはどうしたって目立つからな……』
「うん、気持ちだけ受け取っとく」
実際、空を飛ぼうが飛ぶまいが、
居てくれたら心強いけど、何も戦う事が目的ではないのだ。
お母さんの剣と、ペンダントが取り戻せれば、それで良い。
『じゃあな。……死ぬんじゃないぞ。オレに運ばせた事を、後悔させないでくれ』
セリオスは静かに、しかし力強く地面を蹴った。
木々を揺らしながら空へと舞い戻っていく銀色の翼を、私たちはそのまましばらく見送る。
「行っちゃったね……」
——もう、後戻りは出来ない。
森が静寂を取り戻し、風の音も、竜の咆哮も聞こえない、ただ深い沈黙だけが残された。
「……行くわよ、リル。皇都までの長旅、その始まりね」
フェリカが手甲を装着して拳を握り、森の奥へと視線を向ける。
道なき道だけど、それでも――。
お母さんが遺した物へと続く道は、確かにここから伸びている。
私は剣の柄に手をかけ、一歩を踏み出した。
数歩進んで、木々の間から空を見上げる。
そこでは西大陸の影が、少しずつ私たちを飲み込もうとしていた。