混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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境界を越えた先、救済の風 その5

 高度が上がるにつれ、地上の喧騒は完全に鳴りを潜めた。

 風の膜の内側は、まるで温室のように凪いでいて、セリオスの翼が悠々と空気を押しのける。

 その度、私たちは柔らかな波間に漂うようなリズムを感じていた。

 

「わあ……っ!」

 

 フェリカが思わず、といった風に感嘆の声を漏らす。

 眼下に広がる山脈は、まるで精巧な箱庭のようで、遥か彼方に輝く雲の海は、夕日に染まって黄金色に煌めいている。

 

『どうだ、リル。地上のちっぽけな悩みなんて、空から見れば何でもないだろ』

 

 セリオスの声が、風の音に混じって心地よく響く。

 私は大きく深呼吸をした。冷たくて澄んだ空気が、肺を満たしていく。

 

「うん、すごく素敵。空の旅は経験する度に、新たな発見がある気がする」

 

 上機嫌に言ったそばから、ナナが姿を現して口を挟む。

 

「……でも、セリオス。このまま境界橋の関所を通るのは、避けた方がいいわ」

 

『何でだ?』

 

 セリオスは前を向いたまま、不思議そうに首を傾げた。

 

『オレの速度なら、奴らが気付く前に飛び越えられるぜ』

 

「迎撃術式があるのよ。あの大陸——いえ、皇都を守っているのは、単なる監視の目じゃないわ。高度な魔法の網が、皇都を中心に張り巡らされているはず」

 

『何でそんなモンがあるんだよ。空から魔獣——いや、魔鳥か? そいつらが襲って来るのか?』

 

「実際のところ、その心配はしてないんじゃない? むしろ、警戒しているのは竜に対してよ」

 

『ァん?』

 

 セリオスが不機嫌とも、不可思議とも取れる声を漏らした。

 

「エルフが想定している“敵”に、竜もしっかり組み込まれてるから。今は竜にその気がないのは分かっていても、何が理由で敵対するか分からない。そして竜の力は、例外なく厄介なものよ」

 

『分かるようで、分からん理屈だな。竜(ウィンガート)はエルフと争う面倒さを、そりゃあもう、しつこいくらい説いてたぞ。西大陸には近付くな、ってな……』

 

「え? じゃあ、来て良かったの? 無理言っちゃってた?」

 

 私が申し訳なさそうに訊くと、セリオスはむしろ上機嫌に笑った。

 

『構わねぇよ。むしろ、痛快ってなもんだ。リル達がエルフの鼻を明かそうってんなら、協力しない方が嘘だね』

 

「あら、それは心強い言葉ね。——でも、気を付けなければいけないわ」

 

 ナナは柔らかい声から一転、鋭い眼差しで西の空を見据える。

 

「術式の中心である皇都、そして各地の都市に近づくほど、その網は強固になる。迎撃術式の境界を掻い潜るなんて、まさに自殺行為よ。そんな危ない橋を渡る必要はないわ」

 

『へっ、じゃあどうすんだよ。皇都を避けて、遠回りでもしろってか?』

 

「ええ、そうよ。単純な話よね」

 

 ナナは頷き、東大陸の端から大きく外れた、西大陸の北端付近を指さした。

 

「ここから北へ大きく迂回しましょう。皇都からより北には大きな都市はないから、そっちの方角に遠ざかれば、術式の影響は軽微になるはず。……手間はかかるし、皇都までの道のりはかなり長くなるけれど、背に腹は代えられないわ」

 

『……なるほど。面倒臭いとは思うが……まあ、慎重なぐらいで丁度いいんだろうな』

 

 セリオスはニヤリと口角を上げ、大きく翼を翻した。

 

『いいぜ、皇都の術式なんざカスリもさせねぇ高度まで昇って、そこから一気に潜り込んでやるよ』

 

 セリオスは旋回し、さらに雲の彼方、酸素が薄くなるほどの高みを目指して上昇を始めた。

 凍えるような冷気が風の膜を叩く。

 

 眼下の世界はもはや色を失い、青と白の境界だけが広がっていた。

 そして——。

 

『いくぞ。最高高度からの一気降下だ。ここから先は、息を殺せ』

 

 セリオスが翼を畳んだ。

 私たちは無音の世界へ放り出される。

 

 身体が重力に引きずり込まれ、視界が真っ白な雲の中へと吸い込まれていく。

 その急降下に喝采を叫びたい気持ちで横を見ると、私の気持ちとは反対に、フェリカには余裕というのが微塵もなかった。

 

「んギギ、ぎぎぎ……!」

 

 引き攣らせた必死の形相で背中に張り付き、振り落とされまいと爪を立ててしがみついている。

 一緒にこの楽しさを分かち合いたかったけど、ここは黙っていた方が良さそうだ。

 

『そぉら……! 抜けるぞ!』

 

 迎撃術式の網など、存在すらしないかのように、私たちはただの流星となって、西大陸の静寂な森深くへと墜ちていった。

 

 皇都までは、まだ遠い。

 でも、誰にも気づかれずに侵入するという最初の関門は、確かに突破した。

 

 冷たい風の中で、私は胸の奥にしまったペンダントを、革鎧の上から触れる。

 これから始まる過酷な旅の始まりに、恐怖よりも確かな覚悟が胸に灯っていた。

 

 

  ※※※

 

 

 着地は、衝撃というより海面へ降り立つような、流麗なものだった。

 セリオスが最後の一瞬で翼を広げ、逆噴射のような風を巻き起こして慣性を打ち消す。

 

 私たちは深い針葉樹の森の中へと降り立つと、興奮混じりにセリオスの背中から降りた。

 

 周囲は湿った土と、冷たい樹液の香りが漂っていて、東大陸の空気よりも、どこか凛とした静けさが支配していた。

 

「……着いたわね」

 

 フェリカが足元の土を踏みしめ、慎重に周囲を警戒する。

 未だに青い顔をしているし、冷や汗も凄い。

 

 それでも、装備を整え直す手付きは滑らかだった。

 動揺も最小限で、A級冒険者としての矜持が見える。

 

 そして、不甲斐ない姿は見せられない、と戒めているのは、何もフェリカだけではなかった。

 アロガもまた私の前に、しっかりとした足取りで近付き、まるで「どうだ、凄いだろ」とでも言っている顔付きをする。

 

「うん、凄いよ。凄い」

 

 ワシャワシャと撫でると、満更でもなさそうに息を漏らす。

 その傍らで、セリオスは巨体を少しだけ縮め、周囲の樹木に身体を隠すように伏せた。

 

『さて、これでオレの出番は終わりだな。ここから皇都までは、陸路でかなりの距離があるみたいだぞ。お前らだけで行けるか?』

 

 セリオスは、気遣いつつも鋭い眼差しを私に向けた。

 この場所から皇都まで、具体的な日数はちょっと出せない。

 

 でも、空から見た感じ、徒歩で半月は掛かりそうだった。

 その間、私たちは騒ぎを起こさず、時には荒野を越えなければならない。

 

「大丈夫、なんとかなるし、なんとかするよ。セリオスがここまで運んでくれたおかげで、上手く行くと思う。……本当にありがとう」

 

「アタシからもお礼を言わせていただくわ。……正直、竜の背中に乗るなんて一生できない経験、させて貰ったしね」

 

 フェリカの言葉に、セリオスは「へっ」と鼻を鳴らして笑う。

 

『礼なら、エルフどもの鼻を明かした後にでも聞かせてくれ。……それとな、リル』

 

 セリオスの巨大な顔が、ずいっと私の方へ近づく。

 少年のような無邪気さは消え、そこには野性味のある威厳が宿っていた。

 

『西大陸の森は、お前が思っている以上に“空腹”だぞ。エルフどもがマナ溜まりを完全に掌握しているせいで、この地のマナはもう、カリカリに干からびてる』

 

 一度視線を逸らし、忌々しそうにそう言うと、再び元に戻した。

 

『……リルのその、風の精霊も、あまり派手に使わない方がいいぞ。精霊はこの地からとっくに逃げ出したろうけど、代わりにその魔力に釣られて、厄介な連中が寄ってくるかもな』

 

 私は胸元のペンダントと、それより内側に潜む、ナナの存在を強く意識した。

 この地では、魔力を使うこと自体が“焚き火を焚いて、闇夜に潜む獣を呼び寄せる”ようなものなのかもしれない。

 

《……その警告は順当ね。リル、ここでは魔力の使用は最低限にするわよ。どうしてもという時以外、あたしの力は使わずにおいて》

 

 ナナの声も、いつも以上に緊張感に満ちている。

 私たちは心の中で頷き合い、セリオスに最後の別れを告げた。

 

『まったく、心配だぜ……。いっそついて行ってやりたいぐらいだけど、オレはどうしたって目立つからな……』

 

「うん、気持ちだけ受け取っとく」

 

 実際、空を飛ぼうが飛ぶまいが、巨(おお)き過ぎて隠れて近付くどころじゃない。

 居てくれたら心強いけど、何も戦う事が目的ではないのだ。

 

 お母さんの剣と、ペンダントが取り戻せれば、それで良い。

 

『じゃあな。……死ぬんじゃないぞ。オレに運ばせた事を、後悔させないでくれ』

 

 セリオスは静かに、しかし力強く地面を蹴った。

 木々を揺らしながら空へと舞い戻っていく銀色の翼を、私たちはそのまましばらく見送る。

 

「行っちゃったね……」

 

 ——もう、後戻りは出来ない。

 森が静寂を取り戻し、風の音も、竜の咆哮も聞こえない、ただ深い沈黙だけが残された。

 

「……行くわよ、リル。皇都までの長旅、その始まりね」

 

 フェリカが手甲を装着して拳を握り、森の奥へと視線を向ける。

 道なき道だけど、それでも――。

 

 お母さんが遺した物へと続く道は、確かにここから伸びている。

 私は剣の柄に手をかけ、一歩を踏み出した。

 

 数歩進んで、木々の間から空を見上げる。

 そこでは西大陸の影が、少しずつ私たちを飲み込もうとしていた。

 

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