一歩を踏み出すたびに、足元の枯れ葉が乾いた音を立てる。
この森には、東大陸のような生命の躍動を感じる湿り気がない。
木々はどこか痩せ細り、空へと伸びる枝ぶりさえ、力なく捻じれている。
「ねぇ、リル。空気……重くない?」
フェリカが背中合わせで周囲を警戒しながら、ひそひそと声をかけてきた。
言われてみれば、確かにそうだ。
まるで大気そのものが粘り気を帯びていて、呼吸をするたび、肺に微かな金属の味が混じる様な……。
《マナが希薄ね……。あまりに希薄過ぎる。エルフたちが各都市に集中させている術式の影響だと思う。この森の土や水からも、吸い上げられて干からびてる》
ナナの声が、脳内に直接響く。
その響きさえ、いつもより心なしか張り詰めている気がした。
「……セリオスの言ってた通りだね。ここでは、無駄に力を使わないほうがいいみたい」
私は腰の剣の柄に指を添え、感覚を研ぎ澄ます。
視界の端で、木々の間を何かが横切った。
一瞬見えた影は獣のようだったけど、足音ひとつ立てない。
「アロガ、何かいる?」
「グルゥ……」
アロガが低く喉を鳴らし、前方の茂みを威嚇した。
その瞳は、暗闇の中でも獲物を捉えるかのように鋭く光る。
アロガの脅威を感じ取ったのか、その威嚇だけで獣の気配が遠ざかり、いつしか完全に感じ取れなくなった。
相変わらず足音一つ聞こえなかったけど、間違いない。
これが暗所から襲い掛かってくるかも、と思うと、中々に厄介だ。
「気を引き締めて行こう」
私たちはゆっくりと、かつ着実に歩を進める。
空はすでに茜色から、冷え切った群青へと変わり始めている。
夜が来れば、この土地はさらに表情を険しくすると思う。
より強く警戒しようと心に決めた時、森の開けた場所に、不自然なほど整然と並ぶ“人工物”が目に飛び込んできた。
「あれは……」
それは、石造りの古い道標……みたいに見えた。
風化して形は崩れているけど、確かに彫られている刻印は、魔力の指向性を定めるものに見える。
「……リル、これって……。希薄過ぎて分からなかったけど……」
「うん、マナ溜まりだ……。マナ溜まりのマナが、外に向けて運び出されてる……のかな?」
道標の周りには、青白い光を放つ魔石の欠片が不規則に配置され、中心にあるものを『閉じ込める』ための魔法陣を構成していた。
「……少しも外に漏らさず、最後の一滴まで外に送り出そうとしてる」
苦々しい言葉が、喉を突いて出た。
この土地で起きていることは、マナの搾取だ。
本来は自然に溢れ、自然に享受されるべきものを、エルフの為に——都市という巨大な化け物を肥えさせるための生贄になっている。
東大陸でもマナ溜まりの上に都市は作られていたと言うけど、これはそれより遥かに酷い。
「セリオス様が守ろうとした……あの、小さなマナ溜まりさえ狙われた理由、今なら分かる。ここと同じ事を、しようとしたんだ。小さなマナ溜まりさえ見逃さず、その全てを繋げて……」
フェリカの深刻な声を聞きながら、私は森の奥を睨んだ。
「それが、ここから皇都まで続いてる? あるいは、各都市にまで……?」
《ええ。おそらくは
私は剣を引き抜き、道標を叩き壊そうと振り上げた。
でも、それに待ったを掛けたのは、他ならぬナナだった。
《お待ちなさい、リル。駄目よ》
「どうして止めるの?」
《意味がないからよ》
そう言うなり姿を現す。
フェリカにも話を聞かせる為に、わざわざ出て来たのだろう。
「いい? ここでこれ一つ壊した所で、エルフにとっては全く痛手ではないし、精霊が助かったりもしない。無意味とは言わないけれど……」
「でも、少しでも自由なマナ溜まりがあった方が嬉しいでしょ?」
「それがそうでもなくって……。だって、この大陸に精霊は、もう住んでないから。ここにぽつんと、点みたいな飛び地があった所で、誰も来たりしないし」
「それは確かに、そういうものかも……」
「だったら、このまま残した方が有用よ」
その意味が分からなくて、ムッとした。
残して役立つ事があるとは思えないし、精霊達の墓標の様にも見えて、なおさら気分が悪い。
「良いから、聞きなさい。フェリカも、そんな顔をしないの」
苦笑するナナの声につられて見ると、フェリカは実に苦々しい顔を浮かべていた。
多分、私も似たような顔をしていたんだろうな。
「ここ一つ解放した所で意味なんてないのは、さっき言った通り。でも、残しておけば、
「つまり、ナナ様はこれが文字通りの“道標”になる、って言いたいんですね。地図を持たないアタシ達には、それぐらいしか頼りに出来るものがない……」
「そう……、か」
それは認めない訳にはいかなかった。
たとえ地図があっても、この森の中、何の頼りもなく出るのは至難の業だ。
アロガの嗅覚はとても頼りになるけど、それだけで森から出られるか、と言われると……。
あまり頼り過ぎるのも問題だった。
「……森から出るのに、そして出た後にも役に立つよね……」
私は顔を上げ、森のさらに深い闇の先を見据えた。
路は残酷なほどに明白だった。
エルフたちの傲慢さと、それによって飢えていく大陸の叫び。
そのすべてが、皇都という終着点へ向かって繋がっている。
私は抜き掛けだった剣を納めて、一歩を歩き始めた。
どのみち、もう後戻りなど出来ないし、その必要もない。
「行こう。アロガ、フェリカ。どのみち、ここ一つを救っても仕方ない話、っていうのも良く分かった」
いつか、お母さんにも教わったことだ。
目の前の一人を救おうした時、その一人では済まない事もある。
自分の実力以上に、救いの手は差し伸べられない。
救えるかどうか、救うべきかどうか——。
それは己の力の領分を見極めてから決めねばならない。
そういう意味では、私は全くの力不足だった。
この大陸からマナ溜まりを解放する、ぐらいの気持ちでなければ、安易に手を出すべきではないんだと思う。
忸怩たる気持ちのまま、歩を進める。
私たちの影が森の闇に溶け込んでいき、西大陸の夜が、もうすぐそこまでやって来ていた。
※※※
森の闇は、夜の帳が降りるにつれてより濃密になり、足元さえおぼつかなくなっていった。
ナナが指し示した“マナの路”を辿る歩みは、まるで静かな儀式のようだ。
どうにも心が落ち着かないまま進むこと数時間、私たちは森の開けた台地に出た。
ポッカリと開けたその場所に、月の光が差し込んでいて、これまでの道のりを考えると、明る過ぎるくらいに感じる。
見渡してみると、苔むした倒木が見つかるくらいで、他には何もない。
周囲は変わらず木々に囲まれているけど、圧迫感はそれほどなかった。
魔獣の気配も今のところはない。
アロガがしっかりと、周囲を警戒してくれているからだ。
《リル、そろそろ休みなさい。これ以上進んでも、今の暗闇では視界が利かないわ。それに、アロガも少し疲れているようね》
ナナの言う通り、アロガの足取りがわずかに重くなっていた。
見知らぬ森を気安く歩けたのは、アロガが気を配り、魔獣の接近を許さなかったからだ。
ここまで誰より警戒してくれたアロガだから、その疲れが出るのは当然だった。
私は頷き、風の影響を受けにくい窪地に腰を下ろした。
フェリカが手早く焚き火の代わりに小さな魔石を配置し、視界を遮るための結界を張る。
熱を外に逃がさないための工夫らしい。
「ねえ、リル。さっきの道標のこと……気にしてる?」
フェリカが小さな干し肉を差し出しながら尋ねてきた。
私はそれを受け取り、ゆっくりと口に運ぶ。
そうしていると、横合いからアロガが顔を出して来て、同じように干し肉をくれとねだる。
頬に押し付けて来るその鼻先を撫でながら、私は肉と水を与えた。
「気にしてないって言ったら、嘘になるかも……。自分たちの力で何ができるのか、ずっと考えてたんだ」
「今のアタシたちに出来るのは、せいぜい皇都に辿り着くことくらいよね」
フェリカは膝を抱え、遠くにある、皇都の方角見つめた。
「お母さんの誇りだって言う剣とか、ペンダントとか、それらは皇都に持ち込まれたんでしょ?」
「うん、そうだと思う」
精霊達は、お母さんの戦いを見ていた。
その全てではないし、細部に漏れはあるけれど、お母さんからペンダントを奪ったのは、エルフの王様だったと言う。
「アーデルブレヒト……。確か、そんな名前だった」
「大物ね……。剣の方は?」
「まだ、よく分からない。その時に派遣された部隊の誰か、だとは思うんだけど……」
この大陸に精霊がいれば、噂話を仕入れるなんて造作もなかった。
それがない今、地道に探すしかない。
「でも、地道に聞き取りなんかしてたら、絶対怪しまれるし、捕まる。それなら、ペンダントを取り戻すついでに、直接問い質す方がいいかなって……」
「その……、皇帝から? 知ってるかしら? いえ、教えてくれるかしら?」
「それは分からないけど……。でも、戦利品って事になるんだろうし、それがお母さんの持ち物なんだから、あるかないかくらいは……」
「もしかしたら、自分の物にしてるかも?」
——考えたくない、そんなこと。
でも、その可能性は大いにあった。
「絶対、取り返す……!」
「えぇ、きっと上手く行くわ。最悪の方ばかり考えてると、自然と失敗ばかり浮かぶものよ。成功だけを信じるの」
フェリカの慰めに、私は曖昧な笑みを返す。
「フェリカの言う通りよ、リル。それが、この過酷な大陸で生き残るための鉄則かもね」
ナナが私の髪に触れるようにして、小さく微笑んだ。
「……うん、そうだね。まずは、この路を辿り切る。その先で何をするべきか、自分の目で確かめてから決めるよ」
その夜は、交代で番をする、という事で話がついた。
まずはフェリカが先にして、その後に私がする。
森の木々が風に揺れるたび、遠くで何かが軋むような音がして――。
この大陸の夜は、生きているだけで魔力を削り取られるような緊張感で満ちていた。