森を抜けると、視界の先には乾いた風に揺れる灰色の麦畑が広がっていた。
ここが姉妹の村だと言われたけど、村というにはあまりに寂れている。
土は痩せ、家は傾き、崩れかけている物さえある。
まともな家など数える程しかなかった。
人々の姿も疎らで、私たちが姉妹の手を引いて村の入り口に立つと、数人の村人がこちらに気付く。
怪訝そうな顔をしたのも一瞬で、アロガに気付くと、狼狽えて距離を取った。
あれは襲撃されるのを恐れる目だ。
「大丈夫! 何もしません! 迷子を連れてきただけです! すぐに帰ります!」
そう宣言すると、しばらく動かなかった村人数人が、ひそひそと話し合いを始める。
そうして待つことしばし、ようやく重い足取りで集まってきた。
その中には、姉妹の母親と思しき女性も居る。
でも、彼女の表情は安堵ではなく、困惑と落胆に歪んでいた。
「……あんた達、生きて戻ったの……」
母親の言葉は、氷のように冷たかった。
姉が小さく震えながら「お母さん」と呼びかけたのに、母親はそれを避けるように一歩下がる。
「ただいま、お母さん……。あのね、食べ物、見つからなくて……。それで、このお姉さんたちが、森で蜘蛛から助けてくれて……」
「なんてことを……」
私は母親のその態度に、怒りが込み上げるのを抑えられなかった。
私は母親の前に歩み寄り、声を荒らげる。
「……どうしてそんなことが言えるの! 自分の子供でしょう! 母親なら、どんなことがあっても我が子を愛して、守るものでしょう!?」
母親は私の問いかけを、呆れたような目で見返した。
彼女は自分の腹をさすり、乾いた笑みを浮かべる。
「自分の分さえ満足に無いのに、子供に食べさせるものなんて……どこにあるっていうのさ」
にべもない言葉には、感情さえも擦り切れたような虚無があった。
「ここじゃあ、食べ物がないからと子供を捨てるのは珍しくない。……むしろ、飢えさせて目の前で息絶えるのを見守るより、森に置いてくる方が、まだ慈悲があるってもんじゃないか」
母親の言葉に、私は言葉を失った。
正論のような、しかし吐き気がするような残酷な論理。
この村の人々にとって、愛や絆というのは贅沢品で、飢えの前では無力なのだろうか。
姉妹は私の後ろで小さく縮こまり、ただ震えている。
私は握りしめていた拳を震わせながら、地面を睨みつけた。
母親への憤りは行き場を失って、私の胸の中で黒い
何故、と思わないではいられなかった。
——何故。
どうして、幼い姉妹がこんな理不尽に遭わないといけない?
どうして、こんなにも村が貧しい?
——どうして。
この寒村の窮状。痩せ細った村人と子供たち。
そのすべてが、皇都に君臨するエルフたちの理不尽な搾取のせい、と思えてならなかった。
「エルフは精霊からマナ溜まりを奪って……それだけで飽き足らず、大地の恵みさえ、自分たちだけで独占してるんでしょ!? この村を……この子たちを、飢えさせてまで……!」
私が怒りを露わにしたその時、フェリカが私の肩を強く掴んで制した。
「リル、落ち着いて」
フェリカの目は、冷徹なまでの冷静さを湛えている。
それが今の私には、ひどく残酷なものに写った。
「落ち着いて……!? 良くそんな事を……! あれを見て何とも思わないの!?」
「……あのね、リル。エルフの統治なんて関係ないの。あたしはこれまで、冒険者としてあちこち行って、こんな村をいくつも見てきた。ハッキリ言うと、この程度の貧しさ、珍しくもなんともない」
唇を噛み締めると同時、不意に記憶の断片が蘇った。
まだ幼い頃、お母さんとの旅の中で滞在した、あの村……。
あそこもまた、到底裕福には見えず、また薬さえ満足に手に入らない様子だった。
村人全員くたびれた様子で、それがひどく寂しい気がしたのを覚えている。
エルフのせいだ、と決めつければ楽になれる。
でも、現実はもっと深く、逃げ場のないほどに根深いものなのかもしれない。
「……これが、どこにでもある現実なんだね」
私の呟きに、フェリカが静かに呟く。
救おうとした命は、この村には帰る場所などなかった。
母親に見捨てられた姉妹と、私たちを冷ややかに見つめる村人たち。
誰も彼もが手一杯で、余剰な食料などなく……そしてだからこそ、姉妹を殺すしかなかった。
直接、手を下した訳ではないけど、その死を願い、森に捨てたも同然にされた——。
私は姉妹の小さな手を、もう一度強く握り直した。
ここで絶望して、この手を離すのは実に簡単だ。
でも、一度助けた命だし……なにより、ここで見捨てるなど、私には出来なかった。
お母さんの言葉が思い出される。
――ただ、目の前の一人を助ければ良い、という問題ではない。
一人を助けると、更に多くの人を助けることに繋がる。
本当に、自分の手に負えるのか、それを考えて助けなさい——。
私は一度、深呼吸した。
この姉妹を助ける事も難題だ。
そして、今ここで幾ばくかの食料を分け与える事に、意味など殆どなかった。
全員に行き渡る分などないし、あったとしても一日分に満たない。
姉妹を助けるには、この村の窮状を助けなければならなかった。
私は考える。
深く深く、考えた。
何か出来ないか。
どうにか出来ないか。
うまい解決策はないか——。
そうしてふと、村人達の後ろに広がる、痩せ細った麦畑に目が留まった。
風に揺れる穂は弱々しく、明らかに土の栄養が枯渇している。
けれど、この地特有の、過酷な環境にも適応しようとする野生の力強さも、また微かに感じられた。
——マナ。
私の暮らしていた森では、マナに溢れていて、だから実りも良く、その出来も街で食べるのより美味しかった。
でもここに、マナは殆どない。
本来、どこまでも広がるマナを、術式によって一方向へと歪められているからだ。
だとしたら——。
「フェリカ、……少しだけ、力を貸して」
私は姉妹をその場に残し、畑の端へと歩み寄った。
しゃがみ込み、乾いた土に直接手を触れる。
冷たい感触から感じ取れるのは、僅かばかりの枯れたマナだけだ。
でもその深層に、本当にわずかな水の流れと、搾取から逃れた、微かなマナの気配を感じ取る。
《リル、何をする気? まさか今この場で……》
ナナの声が警鐘を鳴らす。
大規模な力の行使は、エルフの監視網に引っかかる可能性がある。
でも、これは“術式”とは違う。
お母さんに教わった、もっと原始的で、マナに直接触れるやり方だ。
私は掌に魔力を練り込み、それを空中に放出するのではなく、大地の深部へと優しく流し込む。
「フェリカ、同じ様に真似して」
「や、やってみるけど……。アタシ、そういう繊細な力の使い方は向いてないっていうか……」
「大丈夫、その“繊細さ”は私が担当するから。フェリカは私の後を追ってきて」
「いや、追ってきて、って……。それだって、別に簡単な訳じゃ……」
しどろもどろに言うフェリカに、指を突きつけて言う。
「そういうの、助けて貰うために精霊がいるんでしょ。力任せ部分以外は、ルヴィアンに頼って」
「わ、分かった……!」
ようやく覚悟を決めて、フェリカは私の隣に膝をついた。
言った通り、見様見真似で、魔力を操作している。
口元を引き攣らせ、こめかみがヒクついている辺り、また苦言を呈されているのかもしれない。
口の端に浮かんでいた笑みを引っ込め、私も自分の事に集中する。
……行け。ここに、まだ生きようとしている命がある。
私は魔力を伸ばし、森の奥へと持っていく。
狙いは森を通る、あの“路”だ。
(ナナ、お願い)
《何したいのか良く分かるし、本当なら止めたいんだけど……。ま、良いわ》
言っても聞かないと理解したのか、ナナが嘆息混じりに協力してくれる。
マナそのものを腕に見立てて伸ばし、“マナの路”を直接掴む。
それを強引に引き寄せ、周囲に澱んでいた停滞したマナを、強制的に循環させる呼び水とするのだ。
「フェリカ、頑張って! 引っ張るよ!」
「こっからはお任せよ! ぶっ倒してやるわ!」
「倒さないでね。引っ張るだけ! ——せぇ〜のっ!」
掛け声と共に、一気に引っ張る。
一度目はビクともしなかった“路”も、二度、三度と続ければグラついて来る。
そしてとうとう、大きくズレて、畑の直下を通るようになった。
道筋としては、大きく湾曲してしまったけど、問題はない。
一瞬、大地が小さく呼吸をした気がした。
村人たちがざわつく。
足元の土の色が、わずかに濃くなった気さえする。
「これは……?」
一人の老人が、驚きに目を見開いて畑に駆け寄る。
水路を塞いでいた泥が溶け、干上がっていた井戸の底から、ゆっくりと澄んだ水が湧き上がってきたのだ。
マナが十全に満ちた事によって、正常な形に戻ろうとしている。
「……できた」
私は額の汗を拭い、立ち上がった。
これですぐ、劇的に豊かになるわけではない。
けれど、少なくとも今シーズンの収穫は、餓死を免れる程度には持ち直すはずだ。
村人たちの視線が変わる。
さっきまでの冷ややかな拒絶が、驚愕と、そしてわずかな希望の光に変わっていた。
「……ねぇ」
私は姉妹の母親の方を向き、毅然と言い放った。
「この水と土なら、明日以降もう少しマシな収穫ができる。姉妹を育てる余裕も、きっと生まれるはず。……それでも、まだこの子たちを捨てるというの?」
母親は言葉を失い、震える手で湧き出した水に触れた。
彼女の目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。
「……あの子たちを、また捨てたりしない。……しないよ。あぁ、神様……」
姉妹が駆け寄り、ようやく母親の腰にしがみついた。
今度は、拒絶されることはなく、それどころか二人を大事そうに抱き留める。
村の空気が変わるのを感じて、私は安堵の息を漏らした。
——けれど、これはほんの始まりに過ぎない。
この小さな村一つを救ったところで、他の多くの村を救った事にはならないだろう。
そして——きっと、この村同様にマナを奪われた村は、多くある筈だった。
「リル、あなた……。無理をしたでしょ」
フェリカが心配そうに歩み寄ってくる。
アロガも心配そうに私の顔を覗き込み、ペロリと頬を舐めた。
「大丈夫、少し疲れただけ」
私は空を見上げた。
西大陸の冷たい空は、相変わらず無慈悲に広がっている。
でも、私の足元には、今さっき命を吹き込んだばかりの土がある。
それが幾らか救いになった。
「行こう、フェリカ。……この大陸中に、こういう小さな奇跡を繋いでいく」
「言葉を返す様で悪いけど、こんなこと、もうしない方が良いと思う」
《あたしも賛成》
ムッとして、ナナに語り掛けた。
(どうして? 他にもきっと、エルフのせいで貧しい生活をしている村があるんだよ?)
《だとしても、よ。こんな事を続けて、気付かれない筈がないもの。水路の水が減り過ぎれば、その原因を探るものでしょう? これはそれと同じ》
(そう……かも、しれないけど……)
《畑にマナを配るのは良いことに思える。でも、使った分だけ、どうしたって減るのよ。ここ一つならともかく、他に幾つも……となれば、絶対厄介な事になる。それどころか、その処罰はリルではなく、その村に背負わされるかもしれないのよ》
旅の者がやった、と聞かされて、納得するかどうか……その部分は確かに疑問だ。
村の人には出来ないのだから、当然、他の誰かがやったと考える事は出来るとしても……。
何らかの処罰を、腹いせで行う可能性だってある。
《善行の全てが、良い結果を出すとは限らないのよ……》
そうかもしれない。
何しろ、相手はあのエルフだ。
「ねえ、リル……」
その時フェリカが、物言いたげな視線そのままに、口に出して制してきた。
「犯人の目星も付かなくてさ、捕まえる目処も立たないってなったら……。その時、適当な犯人を仕立て上げる事もあるんだよ」
「何それ……。何のために?」
「形だけでも解決する為。犯人が今も捕まらず野放し、なんて認められない権力者は多いから」
「本当に……? そんな事あるの? だってそれ……、無実のヒトが捕まるってことでしよ?」
そんなの信じられない。
そんな意味のない事を……。
でも、フェリカはすごく真面目な表情で頷いた。
「あるの。あるのよ。アタシも冒険者になってから知ったことだけど、理不尽な事って、本当に多いの」
「そんな……」
私達が追われる分には良い。
どうせ、遅かれ早かれそうなる。
アロガはどうしたって目立つし、お母さんの遺品を追っている最中、見つからないとは思えないからだ。
でも、そうじゃなくて、追うよりも手近な誰かで鬱憤を晴らそうというなら——。
本当にそんな事になるなら、迂闊な真似は出来ない。
——いや、したくなかった。
「……うん、分かった。勝手なことは……もう、しないよ」
「見える全てを助けられないとしても、ここだけでも助かって良かったじゃない。——ほら、ご覧なさいよ」
姉妹はもう、私たちの背後に隠れようとはしなかった。
その上、去ることを寂しがる様子もない。
彼女たちには、明日を生きるための“居場所”が戻ったのだ。
「……もう、大丈夫だね」
そう語り掛けて、村を後にする。
そんな私たちの背中を、村人たちの静かな感謝の視線が追いかけてきた。
その温もりを背中に感じながら、遥か彼方にそびえ立つ皇都を見据える。
ここからでは、上空から見えていたあの威容はまだ窺えない。
——それでも。
一歩、また一歩と近付いているのは確かだった。
「行こう、アロガ。フェリカ」
双方に目配せして、
その足取りは、村に立ち寄った時よりも、ずっと力強く響いていた。