村を出てから三日が過ぎた今、私たちは西大陸の荒野をひた走っていた。
そうしていると、東大陸の旅とは決定的に違う部分が沢山あって、その中でも特に印象深かったのは、“空の色の深さ”と“植生”だった。
東大陸の空がどこまでも透き通った青なら、ここはどこか鉛色を溶かし込んだような、重く乾いた群青色をしている。
日中は刺すような陽光が地面を焼き、夜は氷のような冷気が骨の髄まで沁み渡る。
そして、見て分かる範囲では、道端に生える草木さえも違った。
東大陸の木々は柔らかく枝を広げていたのに、この地の植物はどれもが身を守るように硬い殻をまとっている。
中には、鋭い棘を突き出している物もあった。
「……また棘だわ。リル、こっちのルートも避けましょう」
フェリカが旅の合間に作った長杖で、草むらを払いながら、顔をしかめる。
道なき道を進む私たちの装備は、もう泥と埃で色を失っていた。
フェリカの手甲にはいくつものひっかき傷がつき、その外套も棘に引っ掛かって裾がほつれている。
私の方は、流石にお母さんが愛用していただけあって、そうした破損とは無縁だったけど、汚れについてはフェリカとそう変わらなかった。
「呆れた頑丈さね。どういう理屈なんだか……。羨ましいわ」
「お母さんのだからね。聞かれても分かんないよ」
苦笑して答え、それから足元の草生えを見やる。
「それにしても……本当に、生きるか死ぬかの植物ばっかりだね」
「そうね。魔物もだけど、この大地そのものが『入ってくるな』って言ってるみたい」
歩みを止め、水筒の水を一口だけ喉に流し込む。
ここまで水源は見つけてないから、本来は貴重な水だ。
でも、フェリカが手際よく魔力を使って抽出してくれるから、気兼ねなく飲める。
しかも、しっかりと冷えた水だから、気分も幾らか癒してくれる。
その、胃の中に落ちる冷やかな感覚が、今ある唯一の贅沢だった。
「グルルルゥ……!」
アロガがふいに、唸り声と共に足を止めた。
風上に耳を傾けた直後、遠くの岩陰から低い唸り声が響いた。
《気を付けて、リル》
「来るわよ」
ナナの警告と同時に、フェリカが手甲を一度ぶつけ合わせ、硬質な音を響かせた。
そうして構えながら、魔力を練り上げる。
私もまた剣を抜いて、フェリカ同様、魔力と意識を集中した。
外には漏らさない。
あくまで自己強化に留めて、勢い余って放出しないようにする。
準備を万全にして構えると、現れたのは、全身が黒い甲殻に覆われた、狼型の魔物だった。
「
西大陸特有の魔物……、なのかもしれない。
『ロックウルフ』とでも呼ぶに相応しい姿形は、本当的な恐怖を呼び起こす。
東大陸では魔獣しか見たことがないし、魔物なんて似たようなものでしょ、と高を括っていた。
——でも、違う。
相対して分かった。
どうして区別して呼ばれるか。
それはもう、獣とは呼べない“化け物”だからだ。
奴らの鳴き声は、金属を擦り合わせるような耳障りな音で、それが恐怖を助長させている。
敵は三体。
アロガが獲物を定め、低い唸りで威嚇する。
「アロガ、中央は任せるからね。左右は私たちで!」
フェリカが姿勢を低くして、矢の様に飛び出した。
ロックウルフが身を翻して回避するのと同時に、私は地を蹴る。
剣を振り上げ、振り下ろす——その一連の動作に、もはや迷いはない。
今まで培った技術と
空中のマナは希薄でも、内に宿した魔力を信じて、私は左側の魔物へ突っ込んだ。
「——シッ!」
鋭い呼気が、歯の間から漏れる。
一撃を振り下ろすと、硬質な衝突音と共に魔物の甲殻が断ち切られた。
手応えは重い——けど、止まらない。
私は勢いのままに回転し、すぐさま二撃目を見舞った。
隣ではフェリカが水の膜を展開し、正面からの突撃を真っ向から受け止めている所で、簡単に割れてしまいそうなのに、そうじゃなった。
実際はその逆で、敵の牙を弾力で押し返して反撃している。
「っ……リル、右よ!」
フェリカの鋭い指摘に応え、私は剣の腹で背後の魔物を弾き飛ばす。
アロガがその隙を見逃さず、喉元に噛み付いてトドメを刺した。
戦いは、数分で終わった。
荒い呼吸を整えながら、私は剣に付いた黒い体液を拭い取る。
「……凶暴なのが多いけど、十分やれるわね。この大陸でも」
完全に息絶えたのを確認して、フェリカが肩の力を抜き、私も剣を納めて息を吐いた。
「エルフの支配とか、マナの搾取とか、難しいことは一旦忘れて……。今はただ、明日まで生き残ることを考える。それが未知の地の歩き方、って気がする」
「……あら。あんた、ずいぶん逞しくなったじゃない」
フェリカが私の背中をポンと叩く。
お母さんと一緒だった旅は、ただ守られるだけだった。
でも昔の私は、もうどこにもいない。
私たちは再び歩き出す。
沈みゆく太陽が、荒野の岩肌を血のように赤く染め上げていき、その地平線の彼方に、白い尖塔一本浮かび上がるのが見えていた。
あそこに見えるのは、皇都ではないけれど——。
でも、私たちの旅は、確実に皇都の足元へと近づいている。
過酷なのは間違いない。
でも――、悪くない。
この荒野を、砂と埃だらけになって進む今の自分を、私は嫌いではなかった。
「……行こう、アロガ。ナナ、道順は?」
《そっちの……ほら、アロガが向いた方》
アロガが鼻を鳴らし、北西の方角へと顔を向けた。
その先は険しい山道へと続いている。
「今日も野宿だね」
——夜が来る。
日が暮れる前に、山道に入るのは危険だ。
精霊に助けて貰えないとなれば、尚更だった。
もしもこれがボーダナンの森に聳える山なら、きっと数多の精霊が過保護なまでに、道を先導してくれたと思うのに……。
「アタシも歩いたり走ったり、戦闘したりと疲れたわ。早く休みたい気分よ。……ね、アロガ?」
「——フシッ!」
フェリカの軽快な問いかけにも、アロガはにべもない。
荒く鼻息を吐き出して、そっぽを向いてしまった。
「ねぇ、ちょっと!? まだ許してくれないの!? もういい加減、仲直りしてよアロガ〜!」
半分、泣き落としの様な形で縋ったけれど、それでもアロガはそっちを向いたままだった。
二人のやり取りに大きく笑って、岩の裂け目に向かう。
今日はそこに即席の宿営地を作るつもりだった。
※※※
岩の裂け目は、幸運なことに風を遮るのに十分な深さがあって、申し分なさそうだ。
この大陸の夜は、黙っているだけでも体温を奪い取られる。
フェリカが手早く焚き火を起こしている横で、私が風の膜で冷気を遮断すると、ようやくホッとするような温もりが内部に広がった。
「さて……。アロガが機嫌を直さない以上、アタシが料理の腕を見せて慰めるしかないわね」
フェリカはそう言うと、持参した携帯用の調理セットを広げた。
旅での野営飯といえば、干し肉を炙るか、固いパンを齧るかが関の山だけど……でも、彼女の手にかかれば少し事情が違う。
フェリカは、昼間にアロガが草むらから見つけてきた――どう見てもただの雑草にしか見えない――塊根を取り出した。
「それ、毒はないの?」
「冒険者なら常識よ。こっちにもあって助かったわ。土の中に水分を溜め込む根っこで……ちゃんと灰汁抜きすれば、意外と甘いの」
フェリカは手際よくナイフで皮を剥き、薄く切った干し肉と一緒に、小さな鉄鍋に放り込んだ。
そこに自らの魔力で生んだ水を少量加え、コトコトと煮込む。
漂ってきたのは、砂埃の臭いとは無縁の、素朴で優しい根菜の香りだ。
「……意外。美味しそう」
「でしょ? 美味しいものさえ食べれば、アロガも少しはアタシを好きになってくれるはずよ」
アロガは入り口付近に座り込み、外を警戒している。
外敵の察知は自分の役目だと自負していて、だから基本的にこうした場面では孤立しがちだった。
でも——だからこそ、その大きな背中は、どことなく寂しげに見える。
私はアロガの傍らまで歩み寄り、その銀灰の毛並みを丁寧に撫でた。
「アロガ、フェリカなりに仲直りしようとしてるんだよ。……ほら、良い匂いがしてきたでしょ?」
アロガが耳をピクリと動かす。
鼻先を少しだけ動かし、鍋の方を盗み見た。
フェリカを快く思っていなくても、食欲には抗えないみたいだ。
煮上がったスープを木製の器に分ける。
差し出された物を一口啜ると、干し肉の塩気と、根菜から出た独特の甘みが絶妙に混ざり合っていた。
「……っ、美味しい!」
「ふふ、言ったでしょ。旅料理だから限界はあるけど、あたしの手料理も結構なモノなのよ」
フェリカが得意げに笑う。
アロガの分を器に入れて差し出すと、さすがに無視はできなかったらしい。
アロガは少し迷った後、器に歩み寄って鼻先を突っ込んだ。
「グルゥ……」
美味しい、と言ってるみたいだった。
その小さな漏れ声に、私は思わず吹き出す。
「アロガ、美味しいって」
そう教えてあげると、フェリカもまた、嬉しそうに目尻を下げた。
「ほら、やっぱりアタシの料理には敵わないんだから。……これでちょっとは、仲良くしてよね、この食いしん坊さん」
フェリカがアロガの額をコツンと小突く。
今度のアロガは、怒って反撃するどころか、フェリカの手をベロリと一舐めした。
どうやら、これでようやく完全な和解になったようだ。
「あ、アロガ……!」
「よかったね、二人とも」
感激に身を震わせるフェリカは、その首筋に抱き着く。
しかし、すぐに振り払われ、驚愕に顔を歪めた。
「ど、どうして……!? まだ、駄目なの!?」
けれど、私には分かる。
何もフェリカを嫌がって振り払ったんじゃない。
「違う違う。アロガ、おかわり欲しいって」
「ん……? え、そういうこと? そ、そうよね! それだけじゃ、足りないわよね。すぐ追加の作るわ!」
私は手早く作り直す姿を見ながら、狭い岩陰で身を寄せ合い、熱いスープを飲み干した。
岩間から外を見上げれば、群青色の空に星々が瞬いている。
家から見慣れたものとは星の並びが少し違って見えるのは、ここが遥か遠い異国だからだろうか。
そのことを改めて突きつけられた気がして、少し寂しさを感じてしまう。
星空を眺める時、その時はいつも傍にお母さんが居た。
(お母さん……)
涙が湧き上が理想になって。必死に抑える。
変に悟られない様に、顔を伏せて口の中にスープをとにかく詰め込んだ。
食事を終えると、アロガは私とくっついて丸くなり、フェリカは私の隣で外套にくるまる。
今日こそは、念願叶ってアロガを枕に出来たので、大変ご満悦の様子だった。
「
布団代わりの尻尾を撫で付けると、アロガから非難めいた唸り声が降ってきた。
フェリカはすごく不満そうだったけど、そろりと腕を下ろす。
「ところで……ねぇ、リル。皇都に着いたら……まず、どうする?」
フェリカが小さく、夜の静寂に問いかける。
私はアロガの尻尾を、そっと撫でつけながら答えた。
「お母さんの剣とペンダントを取り戻したい、けど……。その為に何をすれば良いか、全く分からない」
「……奪って行ったの、皇様だとか何とか? だったらきっと、お城に居るんでしょうけど……。冒険者一人やら二人やらには、身の丈に合わない目標よ」
「そうだね。でも、やるよ」
《二人どころか、四人いるのよ。あたしたちもしっかり、勘定に入れてくれないと》
(ふふっ、そうだね……)
私は心の中でナナに笑い掛けながら、フェリカの方を向いた。
「フェリカ……、危険だよ。危険だけど、付いてきてくれる?」
彼女は一瞬だけ夜空を見上げ、それから悪戯っぽく笑った。
「付いていくわよ。むしろ、今更置いていくって言われたら、どうしてくれよう、と思うわよ」
ひとしきり笑って、それからほんの少し、真面目な顔付きになる。
「あんたみたいな危なっかしい子供を一人にしたら、自爆しに行く様なものじゃない。……最後まで付き合ってあげる」
温かな気遣いの言葉に、胸の奥が熱くなった。
西大陸の夜は冷たい。
けれど、こうして誰かと未来を語り合える時間は、どんな暖炉の火よりも温かい、と思った。
私はアロガの温もりを感じながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
明日はまた、未知の道が続いている。
それでも、今の私たちなら、どこへでも行けるような気がした。