その夜、久しぶりに懐かしい夢を見た――。
岩の隙間から漏れる風の音が、遠くの森の囁きのように聞こえたからかもしれない。
それは、色彩に満ちた記憶の断片だった。
陽光が木漏れ日となって降り注ぐ、私たちの家。
どこまでも純粋で、清らかなマナが満ちていた。
畑では、名もなき妖精たちが小さな光の粉を撒き散らして飛び交い、作物の成長を促している。
私は幼い日のアロガと、森の広場を全力で駆け抜けていた。
アロガは今よりもずっと小さく、毛並みは柔らかい子犬のようだった。
私たちは競うようにして切り株を飛び越え、花の絨毯を蹴散らし、飽きることなく笑い声を響かせた。
その光景を、お母さんは家の縁側に座って、慈しむような眼差しで見守っていた。
お母さんは何も言わず、ただ優しく微笑んでいる。
それだけで、世界が永遠の安らぎに満ちていると信じられた。
私はたまらなくなって、お母さんのもとへ駆け寄る。
夢の中の私は、まだ何一つ失うことを知らなかった。
無邪気な衝動のままに、飛びつくように抱き着いた。
「お母さん!」
お母さんは驚いたように笑い、手を広げて私を受け止めてくれた。
抱きしめられた瞬間に感じる、懐かしい匂い。
ミルクみたいな甘い香りと、かすかな薬草の残り香——。
私の大好きな匂い。
お母さんの温かな手が、私の頭を何度も、何度も優しく撫でてくれる。
その手の平の温もりが、体温となって私の心を溶かしていた。
なんてことのない、ありふれた午後。
その穏やかな日常が、明日も明後日も、この先ずっと続いていく——。
当時の私は、疑うことさえ知らなかった。
明日という日が、今日とまったく同じ色をして訪れるものだと、ずっとずっと信じていた。
――そこで、唐突に夢は途切れた。
「う……っ」
ふと意識が浮上し、アロガの毛皮の感触が頬に伝わる。
目を開けると、そこは荒涼とした岩の割れ目だった。
焚き火の残り火が、心細げにオレンジ色の光を放っていて、外からは西大陸特有の、金属を擦り合わせるような夜の風が聞こえている。
——あぁ、夢だったんだ……。
あの温もりも、あの光も、今はもうここにはない。
指先で自分の顔に触れると、目元が薄っすらと濡れていることに気づいた。
こみ上げてくる熱いものを、私は慌てて手の甲で拭う。
「……っ」
声は出さなかった。
フェリカは私の隣で、穏やかな寝息を立てているし、起こして妙な心配をされたくなかった。
フェリカとは逆向きになって寝返りを打ち、私は再び目を閉じる。
夢の中で感じた温もりを、記憶の奥底に大切にしまい込むように。
いつまでも甘えてはいられない。
お母さんが残してくれたこの外套と、剣と、そして教えられた知識――。
それらは全て、失われた穏やかな日々を取り戻すための……あるいは、失われた日々を胸に抱いて歩き続けるための“力”なのだ。
私はアロガの毛並みに指を埋め、冷たい岩の底で小さく息を吐いた。
明日になれば、また荒野の歩みが始まる。
それでも、今は……。
お母さんの記憶、楽しかった想い出に思いを馳せていたかった。
それが、どんな寒さより、私を守ってくれると信じていたかった。
※※※
朝になり、朝食や身支度をしている間、フェリカは何度も気遣わしい視線を向けてきた。
それでも結局、何も言われる事もなく準備を終え——そうして、私たちは山道への入り口に立った。
谷底から吹き上げてくる風は、前日までとは比べものにならないほど冷たく、そして鋭い。
アロガは警戒心を隠そうともせず、鼻先を小刻みに動かして、周囲の空気を嗅いでいる。
「……ここから先は、本当に『入ってはいけない場所』って感じね」
フェリカが不敵に笑って、長杖を左右に振った。
彼女の視線の先には、切り立った岩壁の間に刻まれた、獣道のような細い道が続いている。
山の斜面には、東大陸では見たこともないような銀色の樹木が生い茂っていた。
その枝葉は光を反射して、金属的な輝きを放つ。
少しでも風に触れると「カチ、カチ」と不気味な硬い音を立てて、ぶつかり合っていた。
「植物というより、刃物を束ねたみたい……」
私が呟くと、ナナが心の中でそっと震えた。
《その通りよ、リル。あれは『銀葉樹』。マナが枯渇した場所で、自分自身を鉱物化させることで生き残った変異種だわ。不用意に触れれば、指一本くらい平気で落ちるわよ》
(やだな、おっかない……)
先へ進むほど、空気が重くなる。
私たちは岩肌を背に、銀葉樹の枝先が触れないよう、身を縮めながら慎重に歩を進めた。
しばらく登ると、視界が開けた。
そこには古い石造りの遺跡が、苔むして崩れ落ちるように建ち並んでいた。
「皇都に向かう街道の、昔の検問所……の、跡かな」
「そうね、それっぽい。廃棄されてから、随分経つみたいだけど」
でも、その遺跡の広場には、異様な光景が広がっていた。
「……何、あれ」
広場の中央には、何百もの“石の像”が立ち並んでいる。
それは魔物とかではなく、かつてこの道を通ろうとした旅人や、警備兵たちの姿みたいに見えた。
恐怖に顔を歪めたまま石化した者、逃げようとして背を向けたまま固まった者たち——。
そのどれもが、まるでお祭りの列に並ぶように、一定の間隔で静まり返っている。
「石化の魔術……? こんな広範囲に?」
フェリカの声が小さく震える。
その時、アロガが低く、地の底から響くような警告の唸りを上げた。
「グルルルゥ……!」
その視線の先――広場の一番奥にある、ひときわ大きな石碑の影から、ぬるりとした影が滲み出してきた。
「あれって……」
それは巨大な蛇に見えた。
でも、その頭部は蛇そのものではなく、数多の人の顔が複雑に重なり合っている。
そして今も、不協和音のような悲鳴を絶えず上げていた。
『……ギィェァアア……!!』
無数の口から同時に、歪な声が耳を震わす。
それが響いた瞬間、広場の石像たちが一斉にガタガタと音を立て始めた。
「リル、下手に動かないで! あれは『
フェリカが即座に水の障壁を全方位に展開する。
「水の屈折を利用するの! 直視されなければ、石化だけは免れるわ! だから、障壁から出ないで!」
そうは言っても、
――魔力を伴う視線が、ひどく重い。
周囲の空気が、まるで石に変わっていくような感覚に襲われる。
「アロガ! アロガも目を合わせないで! ……ナナ、あれを倒す方法は!?」
《あの顔の一つ一つに魔力が宿ってる。正面突破は、まず無理よ。……リル、あの大地の底に流れる僅かな『土のマナ』を掴んで! 奴は地脈と繋がっているわ!》
エルフがその地のマナを奪っても、僅かながらには残る。
それはあの村で分かっていた事だ。
なのにここで枯渇しているのは、あの魔物がその僅かなマナすら奪ってしまったからだろう。
そして、恐らく——。
それを止めさせようとしてやって来た者たちが、周囲に残る石像の正体……という気がした。
「——やってみる!」
私は迷わず、広場の土に手を触れた。
前回の村でやったのと同じ、原始的な魔力の運用で、地下深くを走る脈動する力を掴もうとする。
でも、魔物もそこに繋がっているから、動いて抵抗しようとする。
それでも構わず、私は大地を引き剥がすように、指先を突き立てた。
「くぅッ……! フェリカ、援護して!」
「ええい、死ぬ気でやりなさいよ! アタシが何とかする!」
フェリカが魔力全開で、水の像を作り出す。
相手の巨体にも負けない、巨大な猫だ。
それが唐突に現れて、敵の意識がそちらに向く。
そんな中、私は叫びながら、大地に眠る力の“根”を掴み、力任せに引き抜いた。
――ズズズッ、と広場全体が大きく揺れる。
石化を誘発していた地脈が断たれた瞬間、無数の顔が苦悶に歪む。
——今だ!
「アロガ、いってッ!」
光の先駆けとなって、アロガが地を蹴った。
石化した足場が砕け散る中、私も後を追って、化け物の懐へと飛び込んでいく。
アロガが体当たりをして態勢を崩し、剣牙で腹を切り裂く。
『ギィェァアア……!!』
不協和音の悲鳴か、耳をつんざく。
剣を握りしめ、私は石化の呪いを振り払うように、魔物の心臓部へと突き刺した。