黒い石の帯に沿って歩き始めて、数時間——。
小高い丘を越えたその先には、巨大な城壁に囲まれた都市が姿を現した。
石造りの家々が整然と並び、その中心部には、まるで空を刺すかのように聳え立つ細長い塔が一本、建っている。
その圧倒的な存在感からは、古い紙とインクの匂いが漂ってくるような錯覚さえ覚えた。
私は足を止め、じっとその都市を見つめた。
……どこかで、見たことがあるような。
この景色は——そう、これは昔、お母さんが見せてくれた物に似ている。
まだ幼い私と一緒のベッドで、寝物語として語ってくれた、遠い異国の風景。
『あの塔の中にはね、この世のすべての本が眠っている』
お母さんが楽しげに微笑んでいた姿が、今の街の姿と驚くほど重なる。
「……万巻の塔」
思わず口から零れた言葉に、フェリカが怪訝そうに眉を寄せた。
「何? 何か知っているの?」
「……ううん、昔お母さんが話してくれた場所に似てる気がして。もしも同じ場所なら、ここは『学術都市』と呼ばれているはず」
この世の全ての本が集まる場所。知の聖域。
お母さんはその昔、ここで師匠に見出され、魔女としての道を歩む事になった……と、語ってくれた。
ここでの暮らしについて、詳しく話してくれたりはしなかったけれど、ここでの学びについては敬意を向けていた様に思う。
私の胸の中で、抑えきれない好奇心が疼いた。
もし、そこに魔女についての記述や、鋼鉄の獣の正体が見つけられたとしたら――。
「入りたい……」
素直な願いが口をついて出た。
でも、すぐに視線を下げて、私に寄り添うアロガを見つめた。
「でも、アロガと一緒じゃ難しいよね……」
ここは知識を尊ぶ都市だ。
確か、そういう話だったと思う。
魔獣を連れ歩く者を快く思わないだろうし、街中を混乱させてしまうかもしれない。
それに、あの鋼鉄の獣を動かすエルフの影響力が強い街なら、アロガの存在そのものが危険を招きかねなかった。
「アタシだけなら、どうとでもなるけど……」
フェリカもまた、アロガの頭を撫でながら思案顔になる。
「猫獣人は壁登りとか、得意だからさ。あ、リルも風魔法を使えば……いや、駄目ね。この街がエルフの統治下なら、魔力の気配には敏感なはず……。リスクが高すぎる」
私たちは道の端に腰を下ろし、小声で相談を始めた。
「アロガをどうにか隠せない? フェリカの水魔法で、こう……どうにか」
「難しいわね。これだけ大きいと、屈折でどうにか出来る範囲を超えるし。そもそも、動いてると、透明化しても揺らいでしまってバレるのよ。アロガだけ別の場所に待たせるなら、入るのも何とか……だけど?」
「……それは嫌。ずっと一緒って約束したから」
私が即座に答えると、アロガが安心したように、私の手に鼻先を押し付けた。
そう、確かに一度、街の外に隠した。
けれど、それはアロガにとって、裏切りにも等しい事だったと思う。
あの時だって素直に応じるまで、幾らかやり取りが必要だったのに、今回またとなると——。
「……じゃあ、こうしましょう」
フェリカは少しだけ悪戯っぽく笑うと、外套のフードを目深に被り直した。
「S級冒険者としての権威を、最大限に利用しましょ。プレート自体に東西で違いはないはずだし、門番には東大陸出身だとは分からないと思う」
「それで、どうするの……?」
私もまた、フードを被って耳の位置を調整する。
エルフの影響が強いなら、やっぱり獣人への偏見も強いだろうから、警戒するのは当然だ。
素性を隠すのは良いと思うけど、これのせいで疑いが増したら、本末転倒な気がする。
でも、フェリカは自信たっぷりに胸を張った。
「もう少し情報でもあれば、話は違うんでしょうけど……。行き当たりばったりになるのは仕方ないわね」
いつもなら、ナナが“風の噂”を届けてくれるけど、精霊が逃げたこの大陸ではそれも無理だ。
「正面以外から……も、無理だよね。……どっちみち、アロガが街中にいて、注目されない訳ないし」
「だから、むしろ堂々と正面から許可を貰った方が良いの。あんた、口下手なんだから余計なことは喋らないこと。――
「なかったら?」
「逃げる練習にはなるわよね」
不敵に笑って気合いを入れるフェリカに、私も笑う。
素直に通れれば一番だけど、そうでないなら、兵達の動きを見る機会になる。
不審者が逃亡する時、衛兵達だけが出てくるのか。
それとも、他に冒険者なども動くのか……。
どういう装備が標準なのか、知れるだけでも意味がある。
東西の装備格差は、冒険者の中では有名で、私も風の噂で知っているくらいだ。
私は大きく息を吸い込み、緊張と不安に旨を抑えられながら、学術都市の入り口へと再び歩き出した。
※※※
学術都市の門は、威容を誇る高層の石造りだった。
通りを歩く人々はローブ姿の学徒が多く、時折、魔術秘具を携えた衛兵が厳しい視線を走らせている。
アロガのような巨大な獣を連れて入るには、あまりに警戒が厳しい場所だ。
……何かもう、入る前から駄目な気がする。
私の緊張が伝わったのか、アロガが鼻先を私の頭に擦り付けて来た。
「……大丈夫」
首筋をポンポンと叩いて、歩を進める。
私たちは門の手前で足を止め、フェリカが懐から銀色に光るプレートを取り出した。
「これを見せて、右から左に通れれば良いんだけど……」
それは彼女が冒険者ギルドでパーティ申請した時に手に入れた、最高位『S級』であることを証明するプレートだ。
門番の衛兵たちは、私たちの姿を認めるやいなや、武器に手をかけて近づいてきた。
でも、掲げられたプレートを見た瞬間、その動きが止まる。
「……冒険者のS級、だと? だが、後ろの獣は……」
若い門番がアロガを指差し、緊張に顔を強張らせた。
無理もないし、故郷の街でも見た光景だった。
戦闘態勢でもないのに威圧感を放つアロガを、この都市に招き入れるのは通常の許可では不可能だ。
「あぁ〜っと……」
フェリカが何かを言おうとしたその直後、ベテランとおぼしき年配の衛兵が、若い衛兵の肩を強引に掴んで制した。
「馬鹿野郎、下がるんだ」
「しかし、あの獣は……! あれは魔獣ではないですか!」
「いいから黙っていろ。S級冒険者が連れているものに、俺たちが口を出す筋合いはない」
年配の衛兵は、私たちのプレートを手に取り、しっかり確認すると、まるで触れてはいけないものを見るような目で溜息をついた。
「S級の任務には、大陸全土を跨ぐ調査や、特定種族の護送といった『公にできない特殊な任務』につくことがある。あの獣が何であろうと、彼らが連れているなら、それはギルドが管理するという扱いだ」
「し、しかし……」
「いいか、俺たちが下手に首を突っ込んで、任務の邪魔にでもなってみろ。ギルドの連中がどんな手段で俺たちの首を飛ばすか、想像できないか? 問題があれば、ギルドがケツを持つ。俺たちの仕事は、彼らを無事に通すこと、それだけだ」
若い門番は納得がいかないようだったが、年配の衛兵の冷徹な言葉に気圧され、ゆっくりと槍を下げた。
年配の衛兵はわざとらしく仰々しく敬礼し、通行を許可する合図を送る。
「失礼いたしました。S級の任務ご苦労様です。ご通行をどうぞ」
私たちは何も言わず、ただ軽く頷いて門をくぐった。
都市の内部は、外とは比較にならないほどに濃密なマナの香りに満ちていた。
石畳の上を歩く私たちの背中に、門番たちの視線が突き刺さっているのが分かる。
「……上手くいくものね」
門を抜けた影で、フェリカが声を潜めて笑った。
「下手に隠し通すより、圧倒的な身分でねじ伏せるほうが、この街の連中には早かったみたい」
「でも、だからって、こんなに上手くいくなんて思わなかった」
私が上機嫌で言うと。アロガも安堵したように鼻を鳴らす。
私たちは、万巻の塔が指し示す方角を見据えて歩を進める。
門番の疑念を強引に跳ね除けた今、私たちはこの都市の深くへと、堂々と踏み込んでいける。
通りには古本屋が軒を連ね、書物の匂いが埃っぽく立ち込めていた。
その中心にある塔へと向かう足取りは、先ほどまでの忍び足よりもずっと速い。
一体どの様な本があるんだろう。
我が家の蔵書より、難しい本がきっとあって、色んなものが溢れているに違いない。
「あれ……」
そうして何とはなしに眺めていると、とある本屋の一冊に、ふと目を奪われて凝視した。