ふと目を奪われたのは、無造作に放り込まれた一冊の古書だった。
革表紙に金文字で記された題名は、『混沌を呼びし者の記録――魔女災害の歴史』。
私は吸い寄せられるように、その本を手に取った。
薄っすらと積もった埃を手で払い、中身を確認する。
何が書かれているのか恐ろしくはあったけど、どうせエルフが書いた本だ。
きっと碌な内容じゃない。
そう、心に保険をかけて、ページをめくった。
途端、そこに記された“魔女”の悪行の数々に、私の心臓が冷たく凍りつく。
そこには、お母さんの——慈悲深い魔女の姿など欠片もなかった。
『魔女がもたらしたる災厄の記録』として、以下のような記述が列挙されている。
「無辜の領民を束ねて炎の捧げ物とし、瞬く間に一つの王国を灰燼に帰した」
「おぞましい程の魔力を行使し、山脈を二つに引き裂いて洪水を引き起こした」
「伝染する病の源を自ら生み出し、大陸の三割の民を死に至らしめて狂喜した」
「空から星の欠片を召喚し、主要な交易都市を跡形もなくクレーターに変えた」
本を持つ手が震える。
怒りでどうにかなりそうだった。
「嘘ばっかり……。そんなはず、ない……」
お母さんが、そんなことをするはずがない。
けれど、本には緻密な図解と、当時の目撃者たちの証言とされるものが、もっともらしく書き連ねられていた。
読み進めるほどに、魔女という存在が、この大陸においてどれほど根深い恐怖と憎悪の対象であるかが突きつけられる。
私は本を乱暴に戻して、手を握る。
これは歪められた歴史だ。
魔女が恐ろしいから……魔女を良く思うヒトを無くしたいから、本当の理由を隠して、すべて“魔女”という存在に擦り付けた——。
私には、そうとしか思えなかった。
良いことは全てエルフのお陰で、悪いことの全ては魔女のせい——。
「……こんなの、あんまりだよ!」
声を荒らげかけたその時、背後からフェリカの鋭い手が伸びてきて、私の手首を強く掴んだ。
「リル、ダメよ」
フェリカは私の顔を真っ直ぐに見据え、小声で……でも厳しい口調で制した。
「周りを見て。エルフの都市よ。ここに魔女を良く言うヒトなんて居ないのよ」
目立っちゃいけない。
それは良く分かるのに、怒りは簡単に収まりそうになかった。
フェリカはそんな私を見て、強引に路地裏へと連れ出す。
その時ふと見渡すと、通りを行き交う学徒たちの冷ややかな視線が、私たちに突き刺さっていた。
魔獣を連れたS級冒険者というだけでも異端なのに、これ以上目立つ真似をすれば、街そのものを敵に回すことになるかもしれない。
「……わかってる」
私は歯を食いしばり、フェリカの成すがまま連れられていった。
胸の奥で煮えくり返る怒りを、無理やり押し込める。
そうしてアロガも含めて目立たない裏路地に落ち着くと、フェリカは大きく息を吐いた。
「気持ちは分かるわ」
冷たい風が路地を吹き抜ける。
道の先に見える学術都市の美しげな石畳が、今は墓標のように冷たく見えた。
お母さんが愛した知の都は、魔女を狩るための断罪の庭と化していた。
私は拳を強く握りしめ、路地裏からも見える塔を見上げる。
あの中には、また別の“偽りの記録”が眠っているのだろうか。
それとも、真実を記した僅かな欠片が、隠されていたりするのだろうか。
「リル……」
フェリカは私の背中をさするようにして、静かに言葉を紡ぐ。
その瞳には、私に向ける深い同情と、どこか冷静な観察者の色が混ざり合っていた。
「……悔しいわよね。お母さんがそんな酷い事するはずがない、って信じたい。あたしだって、あの『魔女様』が悪い方でないと知ってる」
フェリカの温かい手のひらに、私は縋りそうになる。
でも、次の瞬間に放たれた言葉で、背筋が凍りついた。
「でもね、リル。あの本に書かれていたことが、ただの嘘や捏造だとも言い切れないの」
「……どういうこと? あんなの、エルフたちが好き勝手に作った、汚い作り話じゃないの?」
私は声を震わせて反論したけど、フェリカは悲しげに首を横に振る。
「エルフたちが、魔女を目の敵にしているのは確かよ。だから、歴史を歪めて悪辣に描くのは当然の動機がある。でもね……アタシの集落で聞いた伝承も、あれとほとんど同じだったの」
胸の奥が、どろりとした黒い感情で満たされる。
獣人たちは、お母さんに恩があるはずだ。
精霊の恩恵を大切にしている彼らは、だから精霊王とも親交のあるお母さんを受け入れている。
そのお母さんを、実は陰で忌避していたなんて……。
「獣人はエルフとは違う。かつて奴隷身分から解放してくれた事にも感謝しているわ。それなのに……それでも、彼らも魔女を『災厄の元凶』として語り継いでいた。……『地を裂く女』、『天より落とす者』、『国滅ぼし』。あの本に載っていた悪行と、驚くほど一致する呼び名だと思わない?」
「そんなの……! そんなの、誰かが吹き込んだ誤解だよ。獣人たちは、お母さんのことを……!」
「いいえ、リル」
フェリカは私の肩を強く掴み、真っ直ぐに私の目を見た。
「獣人はこんな事で嘘なんてつかないわ。恩のある相手には特にね。でももし、そう伝承しているのなら、それはお伽話じゃなくて、先祖が実際に目撃し、刻み込んだ『歴史』なんだと思う」
私は反論出来ず、言葉を失った。
エルフの捏造なら、どれほど楽だっただろう。
けれど、獣人さえもがそう呼ぶのなら、それは否定しようのない事実だというのか。
「良く考えてみて。特定の種族だけが敵意を持っているなら、捏造で済むわ。でも、生き残った種族が皆、口を揃えて『魔女の仕業』だと語るなら……」
フェリカの声が、残酷なまでに冷静に響く。
「魔女がやったことは、ある意味で真実なのかもしれないわ。……あたしたちが信じている『お母さん』とは別の、残酷な側面がそこにはあったのかも」
その言葉は、まるで鋭い刃物のように私の心を切り裂いた。
信じたくない。けれど、彼女が突きつけてくるのは、否定できない現実の重みだった。
私は拳に爪が食い込むほど力を込め、濡れた路地裏の地面を見つめた。
怒りよりも深い、底知れぬ喪失感が、荒野の冷気のように胸の中を吹き抜けていく。
お母さんは、本当にあんなことをしたの?
私の知る優しさは、何だったの?
問いは行き場を失い、冷たい路地に溶けていく。
ただ、アロガだけが私の不安を感じ取り、心配そうにその大きな顔を私の頬に寄せた。
私はその鼻先を撫でながら、心の奥へと——ナナへ問い掛ける。
(ねぇ、本当なの? 本当に、お母さんはそんな事した?)
《あたしは若い精霊だから、昔の事までは知らないわ。でも、噂としてなら……そうね、フェリカは嘘を言ってない》
(そんな……)
《お母さんには苛烈な一面があった。リルには優しくも厳しい、良いお母さんだったけど……。敵には容赦しない、そういう苛烈さが》
それは分かる。
森にエルフ軍が攻め込んで来たあの日——。
炎で燃える畑の近くには、兵士の死体が多く転がっていた。
でもそれは、相手が襲ってきたからだし、身を守るための戦いでもあった。
虐殺とは違う。
そういうのとは、全く違う事で……。
だから、違和感がどうしても消えない。
何の罪もないヒトまで巻き込んで一国を滅ぼすとか、疫病で多くのヒトを不幸にするとか、そうしたやり方をお母さんはきっと嫌う。
だから——。
「ねぇ、リル」
思考に没頭していると、フェリカから声が掛かった。
「違和感はアタシも感じてる。でもさ、子どもを生むと、女のヒトって変わるんだよ」
「え……?」
「アタシん家の隣に住んでた姉ちゃんもさ、昔は手が付けられない暴れん坊だったって、大人の人が言ってた。でもさ、赤ちゃんを産んでから、ヒトが変わった様に穏やかになったんだよ」
「それで……?」
「だからさ、魔女様も同じかもしれない、ってこと! リルを産んでさ、それで乱暴なこと止めたのかも」
……でも、お母さんは私を産んでない。
産みの親は別にいる。
だったら、話の前提が全て崩れるんじゃないか。
世間の魔女像と、お母さんがどうしても結びつかない。
それとも、他に何かあるのかな。
魔女に関する、何か大きな見落としが……。
考えが纏まらないまま、悔しさが表に出ない様に、アロガの首筋に顔を埋めた。