フェリカが掲げた魔石の青白い光が、石造りの通路を頼りなく照らし出す。
天井からは冷たい風が一定の間隔で吹き、それがまるで悲鳴の様に、不気味に響いていた。
壁に並ぶのは、上の階で見たものとは違う、分厚く、禍々しい装飾が施された古文書の数々だった。
背表紙に刻まれた文字は、縁取りされた装飾文字で、どれも威厳を感じさせる。
「ここね……。いかにも『禁書』って感じの悪趣味な並びだわ」
フェリカが顔をしかめながら、手近にあった一冊を引き抜いた。
ページをめくると、そこに描かれていたのは、複雑な魔導式の図解と、無数の生体実験の記録だった。
「リル、これ……見てみなさい」
彼女に促されるまま、私は覗き込んだ。
そこに記されていたのは、私たちが予想していた“為政者による歴史の捏造”を覆す、さらにおぞましい事実だった。
『――魔女による禁術実験の顛末と、その被害記録』
見出しの下に綴られていたのは、かつて大陸の西側を駆け巡ったという、“混沌の魔女”が残した足跡だった。
それは、エルフの権力者が作り上げた、嘘の物語なんかじゃなくて……。
紛れもない、血塗られた真実の記録に違いなかった。
「嘘……でしょ……」
私の声が、地下の冷たい空気の中に震えて溶ける。
ページをめくる手が止まらない。
そこに書かれていたのは、まさに常軌を逸していた。
『魔女は自らの強大な魔力を維持し、さらなる高みへ至るため、周囲の村落から生きたままの人間を強制的に集め、その命の源を魔導石へとすり潰して自らの糧としていた』
『ある小さな領地では、魔女の実験の余波で地脈が完全に逆流し、数千人の住民が一瞬で灰の像と化して滅び去った』
『彼女を止めようと赴いたエルフの調停使節団さえも、生きたまま肉体をねじ曲げられ、異形の魔獣へと作り変えられ放置された』
「そんな……、そんなの……お母さんじゃない。お母さんは、こんなこと……!」
激しい動悸が胸を突き上げ、私はたまらず首を振った。
でも、記録の端には、決定的な証拠が添えられている。
それはかつて、魔女が使っていたという、そして――私がお母さんから教わったはずの、独自の魔導式だった。
《……リル、待って。それ以上は……》
ナナの切なげな声が頭に響く。
でも、もう遅かった。
別の棚から、フェリカが引きずり出した古い羊皮紙の束には、さらに衝撃的な“事実”が明らかになる。
そこには、長い紫銀の髪を翻す、後ろ姿の肖像画と、彼女の残した手記の抜粋が載っていた。
――そこにあったのは、冷酷なまでの探求者の姿。
魔女にとって、他の人間の命や苦しみなどは、世界の真理を暴くための実験材料でしかない。
村が焼かれようと、大陸の三割の民が病に倒れようと、彼女はただ己の知的好奇心と力の追求のために、それを微笑みながら見下ろしていた、と記されている。
「……違う。お母さんは、私に優しかった。あんなに温かくて、色んなことを教えてくれて……」
涙がとめどなく溢れ、足元を濡らした。
頭が真っ白になり、呼吸の仕えさえ忘れてしまいそうになる。
「リル……」
フェリカが私を抱きしめようと手を伸ばす。
その顔にあるのは、同情の色じゃない。
ただ、残酷な真実を突きつけられた私を見る、凍りついた憐れみだけがあるだけだ。
ここにあるのは、エルフが書いた嘘でも、無知な民衆が生んだ迷信でもなくて——。
むしろ、あまりに刺激的過ぎて、自由に閲覧するのは有害だと……そうした配慮があった様に思える。
“混沌の魔女”とはその名の通り、この世に混沌を招く。
そう思われる程までに残虐で、救いのない怪物だった——。
じゃあ、私の知っているあの優しいお母さんは、一体何だったんだろう。
あの温もりは……正しさや力を振るう理由を諭してくれたこと、それらすべて、嘘の仮面の上から出されたものだったとでも……?
底知れぬ絶望と冷気が、地下の暗がりから這い上がり、私の心臓をぎゅっと握り潰してくる。
足元から這い上がってきた冷気は、やがて私の全身を凍りつかせ、声すらも喉の奥へと閉じ込めてしまった。
「ひっ、はっ……! ひぅ……っ!」
呼吸ができない。
心臓が痛いほど脈打つのに、肺には冷たい澱みしか溜まらない。
「リル、しっかりして……!」
フェリカの声が、どこか遠くの水底から聞こえるように響いた。
返事を返せないでいると、フェリカは私の肩をしっかりと掴む。
その瞳には痛切なまでの焦りと、どう慰めればいいのか分からない、という戸惑いで揺れていた。
――違う。こんな間違ってる。
脳裏に蘇るのは、森で暮らしたあの家の温もりだ。
優しい手付きで頭を撫でてくれた感触。
冷えた夜に温かいスープをよそってくれ、「沢山食べなさい」と言ってくれた笑顔。
私が魔法を失敗して泣きそうになった時、「失敗は成功の第一歩だ」と優しく微笑んでくれた声。
——そういうの全てが、演技だった……?
冷酷な魔女の仮面の下に隠された、偽りの演技だったなんて……。
もしあれが嘘だと言うなら、私という存在はいったい何なのだろう。
あの優しさは、残酷な怪物が気まぐれに慈しんだ“おもちゃ”としての戯れに過ぎなかったのかもしれない。
《……リル、泣かないで。あたしはね、信じないわ》
胸元で、ナナの小さな声が、震えながらも強く響いた。
《お母さんの過去が、そんなのだなんて信じない。どんな忌まわしい記録が残されていたとしても……あなたに向けられたあの温かさまで偽物だったなんて、あたしにはどうしても思えないもの》
「ナナ……」
《きっとまだ、あたし達の知らない事があるんだわ。だって、全てが嘘というには、余りに違い過ぎる。別人と取り違えている、と考えた方が、説得力がずっとあるでしょう?》
(でも……)
《分かるわ。全て嘘だと、別人だと考えた方が楽。ずっと楽。いっそ逃避している様に見えるわよね》
(でも、だって……、ここに書いてあるんだよ。禁書に! 禁書にまで嘘を書くの!?)
私は心の中で叫ぶ。
嘘だったら、どんなに良いだろう。
でも、嘘を書く理由こそ、エルフにはない。
《えぇ、嘘は書いてないでしょう。でも、書いた本人が、それを本物と信じ込んでいた可能性はある》
(そんなこと言ったら……。何もかも信じられなくなっちゃうよ……)
《だから、生き証人に確認を取るのよ》
言わんとしている事が分からなくて、気分が一層悪くなる。
(誰に? エルフの誰? 長生きしてても、どっちみち信用なんて出来ないよ)
《違うわ。精霊王様に尋ねてみるのよ》
それはとても魅力的な提案に思えた。
会った事は数える程しかないけれど、お母さんに敬意を抱いていたように思えたし、きっと古くから親交があったんだ。
(それ……、いいね! きっと本当のこと、教えてくれるよ!)
《問題があるとしたら、春先にしか出会えない事ね。精霊界と再び繋がる春の記念日にしか、姿を見せることはないと思う》
それは……、飲み込むしかない。
まさか乗り込める場所ではないし、いや……。
(ナナは? ナナなら、自由に行き来できるでしょ?)
当然の事だと思ったのに、でも予想に反して、ナナは難色を示した。
《あたしはリルと対等契約を結んでいるから、精霊界の自由通行は出来ないの。リルが行けない所には行けない。対等というのは、そういう部分も含まれるから》
(初めて知った……)
それはとても不便を強いてしまったのではないだろうか。
今更ながら、とんでもない事をした気がしていて、申し訳なく思っていると、ナナはむしろ軽快に笑った。
《あたしが望んで結んだ契約よ。あたしの家はあの家で、あたしの家族はリルたちと定めた。それで帰れなくなっても、全然後悔なんかしなかった。今だってそうよ》
胸の奥が温かくなる。
心の奥底まで冷えた気でいたのに、今ので一気に氷解した気がした。
(ありがとう、ナナ……)
《家族だもの。支え合わなくちゃ! アロガがここに居たら、きっと同じ様にしていたわ》
(そうだね……)
今、無性にアロガに会いたかった。
会って抱きしめたい。
あの温かな毛皮に顔を埋めて、全身で温もりを感じたかった。
《でもね、もしかしたら、の可能性はあると思う》
(もしかして……?)
《精霊界に繋ぐ門はね、中位精霊なら、頑張れば開けるから、誰かに呼んで貰うとか》
(春じゃないと、来ないんじゃ?)
《だから、もしかして、なの。長く待つくらいなら、一度試してみるのも良いんじゃないかって、そういう話》
いいかもね、と心の中で頷いてから、フェリカに向き直る。
「……行こう。ここにはもう、用はない」
「何か長く黙ってたけど……、大丈夫?」
「平気。色々ナナと話してただけ。それに、ちょっと方針も出来た」
「どんな?」
「今はとりあえず、“魔女”の事は隅に置いておく。後で確認取れそうな事に当たりが付いたから」
フェリカは不思議そうに首を傾げたものの、異論を挟もうとはしなかった。
「だから今は、最初の目的に戻る」
「遺品を取り戻すのね?」
返事の代わりに、強く頷く。
私の中にあったのは、冷たい絶望ではなく、かすかな疑念と、そして消えない怒りだった。
「……行こう、フェリカ」
私は震える足を無理やり踏みしめ、床に落ちていた手記を拾い上げると、しっかりとポーチにしまい込んだ。
「ここにあるのが全部、本当の真実だとしても、嘘だったとしても……。お母さんが本当は何をしようとしていたのか、この目で見るまでは……何も信じない」
私の瞳に宿った決意の色を見たのだろう。
フェリカは少しだけ驚いたような顔をした後、ふっと柔らかく笑って立ち上がった。
「そうね……。信じたいものだけを信じるのも、同じだけ恐ろしいとも思うけど……。今は足を止める方が怖いものね」
《遠回りだったとは思わないわ。お母さんの真実を知るには、必要な事だったのよ、きっと……!》
ナナの威勢の良い声に背中を押され、私たちは冷え切った地下回廊を後にする。
私達は来た道を戻り、また職員の目を盗んで扉を開けると、こっそり塔から抜け出した。