万巻の塔の重苦しい空気から、私達は這い出るように脱出した。
幸いにして誰にも呼び止められる事もなく、夕暮れに染まり始めたエルフの学術都市を足早に抜ける。
大通りの街灯は相変わらず青白い魔導の光を放ち、軽装姿の学徒たちが忙しそうに行き交っていた。
けれど、さっきまでの冷え切った絶望感は、不思議と胸の奥の澱の底へ沈んでいる。
だけど私にはもう、ただ嘆く様な事はしない。
確かめるべき“真実”へ、歩き続けると決めたからだ。
「はあ……っ、無事に外に出られてよかったわ。あの地下、空気がカビ臭くて、どうにかなりそうだったもの」
フェリカは大きく背伸びをしながら、ほっと息を吐き出す。
私たちは裏通りを縫うようにして、アロガを待たせておいた一角へと急いだ。
角を曲がって、フェリカが水の膜を解除すると、周囲の景色と一体化していたアロガが姿を現す。
「きゅ〜ん……」
でも、そこでは待ちくたびれたとばかりに、ぺたんと地面に伏せていた。
私とフェリカの姿を認めるやいなや、大きな尻尾をパタパタと勢いよく振り、巨体を揺らして立ち上がる。
「アロガ……!」
私は駆け寄り、その硬い鼻先に自分の頬をすり寄せた。
アロガは安心したように喉を鳴らし、私の手を大きな温かい舌でペロリと舐めてくる。
ひんやりと凍てついていた私の心に、アロガの体温が、染み渡るように広がっていった。
「ごめんね、待たせちゃって。もう大丈夫だよ」
アロガの首筋をぎゅっと抱きしめると、モフモフとした毛並みに顔を埋める。
やっぱり、この温もりこそが今の私を支えてくれる現実だった。
「さて、と……」
フェリカはアロガの大きな体を撫でつつ、街の端に伸びる大きな鉄路へと視線を向けた。
広場の駅舎から発着する、あの“魔導列車”の軌道だ。
「これからの移動手段だけど……どうするの? 次の目的地まで、この線路沿いを行くことになるのかしら」
「うーん……本当は、あの駅にあった『魔導列車』に乗ってみたい気もするんだけど……」
私は先日平原で見た、そして実際の駅で見かけたあの“鋼鉄の獣”を思い出す。
地脈の力を借りて、ものすごいスピードで大陸を駆け抜けるというのなら、きっと目的地まで一瞬で行けるはずだ。
でも……。
すぐ隣にいる大きな相棒を見やる。
アロガは人間から見れば圧倒的な巨体を誇る魔獣だ。
たとえS級冒険者の認可証を持っていたとしても、あの洗練されたエルフの列車に、こんな大きな
「やっぱり、アロガを乗せるのは無理だよね……」
「間違いなく大騒ぎになるでしょうね。『不審な巨大魔獣が乱入した』って言って、エルフの兵士総出で迎撃されるのがオチよ」
フェリカが苦笑しながら肩をすくめる。
確かにその通りだ。
文明が進んだ都市であればあるほど、異端や野性的なものに対する警戒心は、強くなるのかもしれない。
「……仕方ない。地道に歩いて行こっか。幸い、皇都へのルートなら、鉄路を辿っていけば迷うこともないし」
「賛成。今更、歩くのなんて苦にしないでしょ。急ぐ旅でもなし。冒険者の旅は歩いてするってのが常道でしょ。
私たちは方針を決めた。
学術都市の美しい石畳を背にして、荒野へと続く線路沿いの道へと踏み出す。
頭上では、魔導の灯火が消えかけた夕空に青く瞬いている。
胸の奥にあるお母さんの影はまだ消えないけれど、アロガの足音が響く地面の確かな感触を感じながら、私は一歩一歩、前を向いて歩き出した。
※※※
学術都市の明かりが遠ざかるにつれ、周囲は急速に夜の闇へと沈んでいった。
私たちは追手の目を警戒して、皇都へ続く魔導列車の鉄路から少し離れた、木々の生い茂る森沿いの小道を足早に進む。
「エルフたちがすぐ追ってくる気配はないけれど……念のため、街から離れるまでは油断しないでいきましょう」
フェリカが周囲を警戒しつつ、小声で促す。
私はそれに頷き、アロガの肩付近を軽く叩いてペースを上げさせた。
夜風が冷たさを増すころ、私たちは野営に適した場所を探し始めた。
本来なら、暗くなってから探すのでは遅い。
でも、この暗がりこそが、私達をいるかもしれない追手から隠してくれる。
風を遮る手頃な岩陰か、あるいは洞窟なんかが都合良くないか……。
そう考えて、視線を巡らせていた時だった。
「……っ」
草むらの向こうで、カサリと不穏な物音がした。
アロガが低い唸り声を上げ、耳をピクッと動かして足を止める。
茂みの隙間から覗き込むと、そこにいたのは、剛毛に覆われた大きな体躯を持つ猪型の魔獣――『
「こっちにも、ちゃんと東大陸と同じ魔獣がいるんだ……」
少し安心した。
見知らぬ獲物を口に入れるのは怖い。
毒があるかも、適切な処理の仕方も知らず、とりあえず解体するには怖いからだ。
でも、今はそんな事を気にせず、獲物を確保できる。
地面を自慢の牙と鼻先で掘り返しているところで、こちらに気付いて赤い目をギョロりと向けてくる。
「ちょうど良いわね。夕食の調達と、隠れ家の確保を兼ねて……って、リル?」
フェリカが戦支度をしようと身構えたが、私は首を横に振った。
私は背負っていた弓を静かに外し、慣れた手つきで矢をつがえる。
呼吸を整え、狙いを定め……。
――ヒュッ!
弦を弾く鋭い音が夜の森に響き、放たれた矢は闇を切り裂いて
巨体がドスンと地面に倒れ込み、そのまま動かなくなる。
正に一瞬の出来事だった。
「……え?」
フェリカは目を見張り、ぽかんと口を開けたまま、私と仕留めた魔獣を交互に見つめている。
「いやぁ、背負ってるくらいだから、多分使えるんだろうとは思ってたけど……。リル、あなた、剣だけじゃなくて、弓も相当使えたのねぇ……」
「まぁね。お母さんに教わったから、これくらいの距離で外したら笑われちゃうよ」
私は短く答えながら、倒れた
手際よく血抜きの作業に入ろうとする私を見て、フェリカは首を傾げる。
「うーん、でも魔獣の肉って血抜きをしても、あまり美味しくないのよね。昔、旅先で仕方なく食べた時も、硬くてパサパサしていた記憶があるわ」
「それは、適切な処理をしていないからだよ」
私はフェリカを見上げながら、当たり前のように言った。
「え、そうなの?」
「うん。ただ血を抜くだけじゃダメで、魔紋に沿って、肉の切り分けが必要なの。あと、この時期なら香草と一緒に……」
私はナイフを鮮やかに走らせ、素人目にも分かるほど無駄のない手際で肉をさばいていく。
骨と筋肉の合わせ目を迷いなく見極め、瞬く間に調理しやすい状態へと整えてしまった。
「……すごい。アタシが見ても、惚れ惚れするような手際だわ……」
「練習したし、森では自分でどうにかしなきゃいけなかったしね」
「狩人としては一家言ある、里の出身だけど……、魔獣を食べるってのは、本当に獲物が取れない時だけだったのよ。だからって訳じゃないけど……魔紋とか、そういうの知らなかったわね……」
一家言ある、というのは本当らしく、フェリカはどこか悔しそうだ。
知らなかった事が許せない、と自分やその里に怒っているようでもある。
「仕方ないよ。これは魔力について精通してないと分からない事だし、獣人って多くはそこに触れないでしょ?」
「まぁ……、そうね。魔力とか魔法は、精霊様の領分だから。……そうね、うちの者からすると、逆に不得手になりそうな感じね」
フェリカは呆れと感心の入り混じった顔で、私の手元を覗き込んでいる。
アロガに上げる分の内臓と足肉まるごと、そして今日私達が食べる分を切り分けていると、胸の奥で懐かしい記憶がふわりと蘇った。
「全部、お母さんが教えてくれたんだよ」
呟いた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
まだ小さかった、あの頃——。
野営のたびに、お母さんは隣に座り、ナイフの持ち方から獲物の解体の仕方を丁寧に教えてくれた。
『生きるための知恵だよ、リル。どんなに優れた魔法が使えたって、自分の手で生き延びる術を持っていなければ、本当に強い人とは言えないからね』
そう言って微笑んでいた、優しくも凛とした横顔。
——禁書に書かれていた冷酷な魔女の姿と、私の中に残るお母さんの温もりが、どうしても重ならない。
「……よし、これでいこう。これなら絶対に美味しいお肉になるよ」
私は綺麗に処理した肉を、布に包んで立ち上がった。
フェリカは少し複雑そうな、それでいて優しい目を私に向け、ふっと笑う。
「そう。じゃあ、今夜の夕食はあなたの腕前に期待させてもらうわね。幸い、風を凌げそうな岩陰も、すぐそこに見つかったことだし」
「うん!」
アロガも「ふんす!」と鼻を鳴らして同意するように尻尾を振る。
私たちは仕留めた肉を抱え、夜の帳が下りる森の中で、ささやかな野営の準備へと取り掛かった。