古い鉱山跡の冷たい闇を背にして、一歩を踏み出す。
皇都の傍まで歩いたときには、既に空には夜の帳が降りていて、冷たい空気が流れ始めていた。
見上げるほどに
白亜の巨大な石材は、寸分の狂いもなく組み上げられていて、魔導の光を淡く反射していた。
表面には、幾重もの複雑な防衛魔法陣が、うっすらと青い軌跡を描いていて、ただの『壁』じゃないと分かった。
あれは、外からの攻撃を——それこそ、竜の
「やっぱり、近くで見るとすごい迫力ね……。リルはともかく、アロガはどうやって登らせたもんかしら」
フェリカが首を少し傾げながら、目の前にある絶壁を見上げる。
確かに、幾ら優れた
爪を引っ掛けようにも、やっぱり限度はある。
アロガは実際、木登りだって出来るけど、これはまったくの別問題だった。
でも、私には他にも、頼もしい家族がいる。
「ぜんぜん問題なし。私たちには、ちゃあんとお助けの手段があるからね」
私は小さく微笑むと、隣で静かに息を整えているアロガの首筋を撫でた。
そして、胸元に意識を集中させる。
(ナナ、お願い! アロガを支えて、この壁の上まで押し上げて!)
《任せてちょうだい!》
私の呼びかけに応じて、ナナの魔力がふわりと空気中に溢れた。
するとすぐに、私たちの足元から吹き抜ける夜風が、目に見えるほどの眩い緑の光を帯びて渦を巻く。
「グルゥッ!」
風の精霊による加護と風を纏う魔法を受け、アロガがその巨体で凄まじい跳躍力を発揮した。
地面を蹴った瞬間、アロガの体はまるで羽毛のようにふわりと軽くなり、重力を無視して垂直の壁を駆け上がっていく。
風の足場を巧みに蹴り継ぎながら、アロガは一足飛びに十数メートルの高さへと到達すると、そのまま軽々と城壁のてっぺんへと着地した。
「やったね……! 次は私の番!」
私もまた、ナナから送られてくる風の魔力を全身に纏う。
足の裏が羽のように軽くなったのを感じながら、私は思い切り地面を蹴り飛ばした。
「っ……!」
身体が勝手に空へと押し上げられる。
風に背中を押され、夜の空気を切り裂くようにして、アロガが待つ城壁の上へとふわりと舞い上がった。
着地の手前で少しバランスを崩しかけたけれど、すぐにアロガの大きな頭が支えになってくれる。
私は無事に壁の上へと足をついた。
「た~のしっ! もう着いた!」
少し惜しむ気持ちでいると、背後から何やら水の流れる音が聞こえてくる。
振り返ると、そこには信じられない光景が見えた。
「よいしょ、っと……! あー、やっぱり少し魔力がキツイわね」
なんとフェリカは、自分の魔力を纏わせた水流を生み出し、垂直の壁を逆流して登り切ってきたのだ。
「滝登り……?」
いっそ目を疑う様な光景に、私は開いた口が塞がらない。
精霊魔法は応用の幅が広い、とは習っていた。
それでも予想外の後継に、驚かずにはいられない。
城壁の縁に両手をかけてひょいと身軽に飛び降りると、フェリカはパタパタと水気を払う。
その水もフェリカ自身が作り出したようなものだから、半分以上はポーズみたいなものだ。
そんな事をしなくても、指先一つの動きで霧散させられる。
完全に乾いたのを確認すると、フェリカは自慢げに胸を張った。
「ふふん、水だって色々できるんだから。むしろ、こっちの方がスマートなくらいじゃない?」
そう言って、彼女は満足そうに鼻を鳴らした。
その堂々とした態度に、私は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「一々、濡れちゃうのは、スマートさからはちょっと遠いと思う」
「さてと……。それじゃ、肝心の皇都の様子を、見せてもらいましょうか」
私の意見は、物の見事に黙殺された。
フェリカに促されるまま、私たちは城壁のてっぺんから、そっと眼下に広がる街並みを見下ろす。
その次の瞬間、私たちは言葉を失い、ただただ立ち尽くすことになった。
「……うそ……」
私の口から、乾いた声が漏れる。
そこに広がっていたのは、夜闇の中に宝石をちりばめたような、あまりにも美しく、そして途方もなく巨大な文明の光景だった。
私たちがこれまで見てきた学術都市も、決して小さな街ではなかった。
むしろ東大陸のどの街より栄えていたのに、ここ皇都の規模と発展度合い、そして美しさは、その比ですらなかった。
街路は幾何学的な美しさを持って整然と区画され、その上空には柔らかな光を放つ無数の魔導灯が、まるで星屑のようにフワフワと浮遊している。
建物の多くは大理石や色鮮やかなステンドグラスで装飾され、高い文化力と芸術が見事に融合した建築群が、どこまでもどこまでも広がっていた。
遠くの中心部には、夜空を突くようにそびえ立つ純白の尖塔群が見えて、あれこそが、今回の目的地である皇城に違いない。
魔導と芸術が高度に発達した、東大陸のどこを見ても存在しない、圧倒的な文明の結晶がそこにあった。
「……すごい。綺麗すぎて、なんだか現実味がないみたい……」
フェリカもまた、その景色に見入ったまま、しばらく動かずにいた。
やがて、彼女は小さく息を吐き出すと、私の肩をぽんと叩いた。
「こんなの誰が見ても圧倒されちゃうわよ。でも、感心している暇はないわ。あの中枢の——皇城のどこかに、あなたの探している『遺品』があるんでしょ?」
「たぶん……!」
私は大きく頷き、再び気を引き締める。
目の前に広がる美しくも巨大な迷宮のような皇都へ向け、私たちは城壁から街の内側へと視線を広げた。
皇都の夜は、どこまでも眩しい。
城壁から見下ろした何処も、昼間と変わらぬほどの明かりに満ちていた。
魔導灯が街路を照らし、行き交う人々の活気が石畳を震わせている。
人口も桁違いに多く、ヒトの居ない場所などないように思える。
「……このまま行くと目立ち過ぎよね、やっぱり」
フェリカが眉をひそめて呟く。
私たちのすぐ隣では、アロガがその巨大な肩を揺らして、不思議そうに眼下を眺めていた。
アロガの姿は、この洗練された白亜の街並みの中で、魔獣という事を差し引いても、あまりにも異質だった。
通りを歩く身なりの良い男女が通る横には、衛兵らしき男達が視線を鋭くしている。
きっと治安を維持する為だろう。
それ自体は何処の街でも良くある光景で、不思議とも思わなかったけど、ふと気付く。
——城壁上には、衛兵の姿がない。
これだけ広い城壁なのだから、要所要所に配置されていそうなものだ。
でも、見える範囲に姿は見えない。
魔術の防護に、それだけ自信があるのかな、と思ったけど……。
今が結界を
だって、こうして私たちの侵入を許してしまっている。
そこには、何かおかしさを感じずにはいられない。
「どうしたの、リル?」
「フェリカ……、どうして衛兵の姿が見えないのかな、と思って……」
「それだけ外部からの侵入を想定してないんでしょ。実際、それだけの高さあるし」
「でも、私たちは入れたよね?」
そう言うと、少しだけ考え込んでから答えを返した。
「魔術じゃないから……、かもね?」
「……え?」
「精霊魔法を使われる事を、想定してないだけでしょう。そう考えれば理屈も通るし、何より……」
「何より?」
「もう入っちゃってるんだもの。衛兵が駆け付けてくる気配もないし、深く考えても仕方ないわ」
それはそうかもしれないけど、どうにも嫌な感じだ。
「グルゥ……?」
アロガは心配そうに顔を近づける。
私はその鼻頭に頬を当てて、口の周りを撫でつけた。
「大丈夫。アロガ、ありがとう」
「——それよりさ、アロガを連れながらどうやって進むか。そっちの方が問題よ」
学術都市でも、同様の問題に当たった。
そして、置いていく以外の解決策が、私達には思い付かなかった。
かといって、ここで置いて行くなんて出来ない。
ここまで苦難を共にしてきた家族同然のアロガを、ここに置いたまま向かうなんて選択肢は、私の中にはなかった。
「リル、どうする? このまま目立つ大通りを突っ切るなんて、ほとんど自殺行為よ」
フェリカの言う通りだった。
ここから見えるだけだも、皇都の警備は厳重そうだ。
手配されている今の私たちにとって、アロガの存在は動く目印みたいなものだろう。
「……何か、姿を隠せるような魔法や、あるいは——」
私は焦る気持ちを抑え、眼下を見回した。
建物の影、ゴミ捨て場、密集した商店の隙間……。
でも、アロガの身体は、どれも物理的に収まりきらない。
「姿をくらます魔法なんて、アタシには使えない。じゃあ、変装? それも無理があるわよね」
フェリカも頭を抱える。
その時ふと、アロガが耳をぴくりと動かした。
何か遠くの音を聴き取ったのか、あるいは風の匂いを嗅いだのか。
アロガは私の皮鎧の腕部分を咥え、軽く引いた。
「……あっちに行きたいの?」
アロガが示した先は、表通りから外れた、荷馬車の往来が激しい、倉庫街の入り口だった。
そこへ向かって、巨大な布を被せた荷馬車が次々と吸い込まれていく。
「倉庫街……。物資の搬入通路があるなら、当然そこから皇城へも行くわよね」
フェリカが瞳を輝かせて指を鳴らした。
アロガの直感は、時に私たちの論理的な思考を上回る。
「アロガは、私たちの『家族』だもんね。ただ一緒にいるだけじゃなくて、どうやって潜り込むか……それが問題なんだ」
私はアロガの大きな耳を両手で包み込んだ。
アロガは私の掌に頭を預け、喉をゴロゴロと鳴らす。
「いい? アタシたちは今から、荷馬車の影に紛れて進む。皇城へ進む荷馬車も、上から見ればわかりやすい」
「……うん。完全に消すのは無理でも、とうにか誤魔化すくらいは出来ないかな。……ねぇ、ナナ。少しだけ、私たちの存在を周りの景色に溶け込ませるとか……」
《難しい注文ね。でも、あなたたちの覚悟を無駄にしたくないし……。あ、そうだ!》
ナナはハッとした声を上げて、意気込む様子を見せた。
《精霊魔法には無頓着みたいだから……、そこを突きましょう》
(どうやって? ……というか、どういう意味?)
《あたし一人じゃ手に余るんだから、ルヴィアンと協力すればいいの。霧を出して、それを隠れ蓑にするのよ》
(上手く行く?)
《なるべく濃い霧を作ってもらうし、それをあたしが良い感じに拡げるわ。拡散しないように……でも、不自然じゃないようにね》
ナナの優しい声が心に響くのと、周囲の空気が霧掛かるのに、殆ど誤差がなかった。
精霊は精霊同士、交信めいたもので話し合いを終わらせていたのかもしれない。
霧が辺りを包めば、完全な隠密ではないけれど、アロガの堂々たる姿も、風景の一部みたいに霞み始める。
これなら誤魔化せるかもしれない
「よし……。一気に倉庫街へ。走るよ!」
私たちは城壁上を駆け、良さそうな場所から飛び降りる。
獣人のしなやかさをもってすれば、このぐらいは何でもない。
そうして夜闇を縫うように走り、アロガも足音を殺して駆けた。
背後へ過ぎ去る街の喧騒から逃れるように、光の届かない倉庫の影へと身を潜める。
皇都の中枢は、まだ遠い。
けれど、最初の取っ掛かりは見つけた。
荷車を上手く利用すれば、皇城へも侵入する事が出来るかもしれない。
私は希望を胸に、冷たい石畳を蹴って進んだ。