昼食を取ってから小一時間ばかり食休めをして、それから出発という事になった。
山の頂上へ向かうに連れ空気は薄くなり、そして寒くなる。
体力は十分に備えていなければならず、その為に食べた物はしっかり吸収しておかねばならなかった。
ただし、山の天気は変わりやすく、今が晴れだからと安心していられない。
余り長く休むのも考えものだった。
しかし幸いにして、あと二、三時間の間は変化もなさそうであり、ならば急ぐべきかと考え直した。
「いこっ! はやくいこっ!」
許しが貰えたリルは予想以上にはしゃぎ、今にも一人で外に飛び出さばかりだ。
それを落ち着かせながら衣装部屋へと連れて行き、しっかりと上下揃いの防寒具を着させる。
そうは言っても、冬は滅多に雪が積もらない地方の事だ。
防寒具とは名ばかりで、綿が内側に張られた程度の物でしかない。
山を登るには全く足りず、それだけでは命を投げ出すに等しい行為だが、それを補う為に魔術があった。
私の身なりにしても、地上で寒さに耐えるだけなら十分、という程度でしかない。
通気性を極端に悪くさせた素材と毛皮で覆い、それで暖を取るタイプだ。
私は最後に、リルの頭に帽子を被せる。
今回ばかりは、しっかりと耳まで覆う人間用の帽子だった。
リルは嫌がったが、ここでは聞き分けて貰わねばならない。
凍傷に罹り、耳が欠損してからでは遅いのだ。
「山は寒い。少しの隙間から容赦なく体温を奪っていく。特に頭は駄目だ。これが嫌なら、山には連れて行けない」
「んぅ……、わかった。ガマンする……」
「よし……」
私が頭を撫でると、むず痒そうに身体を揺らして、リルは帽子の中に手を突っ込む。
耳の位置を良い感じに直して、自分なりに良い塩梅を探しているようだ。
それ自体は問題ないので、その間にマフラーを首元に巻いてやった。
いつも長さを持て余している物ではなく、その後に編んだ、リルに適したものだ。
それを首元で結び、そして服の胸元へと差し込む。
いつもの様に背中に流していては、いつ強風で吹き飛んでしまうかも分からない。
リルは首元を窮屈そうにしていたが、これも体温を守る為、我慢して貰う。
魔術的防護によって、ある程度は冷気を遮断できるが、春のような快適さは望むべくもない。
いつまでも窮屈そうにむず痒っているリルに、困ったように笑いながら声を掛けた。
「今だけ我慢していなさい。少しでも寒さに備えないと、上に着く頃には凍えてしまっているよ」
「……おやまって、そんなにさむいの?」
「あぁ、寒いとも。ただし、頂上まで行ってしまうと、それほど寒くない。火山口の付近だから、むしろ暑いくらいだ。でも、そこへ行くまでが寒い。だから、しっかり防寒具を準備しないと……」
私が諭すと、リルはむにむにと口を動かしつつ、しかし素直に頷いた。
どうであれ、忠告は素直に聞ける所はリルの長所だ。
最も、このぐらいの年が、素直なだけかもしれないが……。
ともあれ、互いの準備が終われば出発だ。
万が一を備え、水や食糧も少量、持って行く。
何もないにしろ、水だけは重要だった。
何しろ、上空へいく程に水分は勝手に抜けていく。
魔術的防護で最大限、適した環境を維持するつもりだが、どこで綻びが出るかも分からないのだ。
準備は入念で困る事はない。
「……さ、行こうか」
「うんっ! おやまにいくの! あのおやまに……!」
「……言っておくけど、別に楽しい所じゃないから。それに、怖い思いもする」
リルの前に膝を付き、視線の高さを合わせて、真剣な眼差しで釘を刺す。
「いいかい、リル? 山は遊びに行く所じゃないんだ。勝手に飛び出したり、歩いたりせず、お母さんの言うことをしっかり聞くこと。……約束できるね?」
「……うん、やくそくする! ちゃんと、いうこときく!」
「よし、良い子だ」
私はリルの頭を優しく撫で、それから立ち上がった。
自分自身の着替えも済ませ、髪を纏めて帽子を被ると、リルの手を引いて家を出ようとする。
その後ろでは、アロガがリルに付かず離れずの距離を保って後をついて来ていた。
彼もまたリルと一緒にいるつもりの様だが、流石にアロガまで許す訳にはいかない。
何より、尋常な手段で山頂を目指す訳じゃないので、連れて行きようがなかった。
「……アロガ、お前は連れて行けない。大人しく待っていなさい」
「グルルゥ……!」
「アロガ、メッよ! ちゃんと、まってて!」
しかし、アロガにしては珍しく、言うことを聞こうとしない。
それどころか、リルの服の裾を引っ張って、留めようとする始末だ。
「アロガ、どうしたの? ……こら、ひっぱっちゃダメ!」
「これは……、アロガなりに心配しているのかもな。山に近づくのは危険だと、しっかり理解しているんだ」
「……そうなの?」
「アロガとしては、そんな危険な所に近付けさせたくないし、自分が傍にいないなら、それは尚更なんだろう」
そして、それは魔獣であるなら当然備えている、本能の警笛でもあるのだろう。
何かあった時、自分が傍にいれば守ってやれる――。
アロガとしては、当然、そうした気持ちでいたはずだ。
なのに、突如それを奪われた形なので、必死に引き留めようとしていた。
「大事な妹をそんな場所へ行かせて、怪我などさせられない、って所だろうな……」
「リルのほうが、おねえちゃん!」
胸を張った強弁な主張に、はいはい、と笑って、リルの頭を撫でる。
互いに自分が年長と思って接しているのは面白いが、しっかり度合いで言うと、アロガに軍配が上がるだろう。
普通なら、山を楽しそうという理由だけで行こうとはしない。
それだけで、危機管理能力がどちらが上か、分かろうと言うものだった。
「だが、私が一緒にいるんだ。お前が心配する様な事にはならないよ。……多分、リルは泣き出して、すぐに帰りたいって言うだろうけど」
「いわないもんっ!」
危険かどうかは、実際に自分の身に遭ってみなければ、実感し辛いものだ。
まだ幼いリルに、見上げるだけの風景でしかなかった山に、危険を感じろという方が無茶なのだ。
リルも獣人としての野生を備えている筈だが……。
リルの頭を上から見下ろすと、その視線には敏感に反応して、顔を上げてくる。
「なぁに、お母さん?」
「なんでもないよ」
……とはいえ、アロガほど野生を備えていないのは、別段、不思議でも何でもなかった。
「とにかく、アロガが心配する様なことは起こさないから。安心して待っておいで」
「グルゥ……!」
アロガは尚も不満そうな顔付きで、歯茎を剥き出しに抗議らしき声を上げた。
どうしたものかと思って、強硬手段を取ろうかと思ったが、それも思い直す。
「まぁ、アロガの気持ちも分かるしな……」
「そうなの?」
「この前もリルと二人きりで街に行ったろう? 置いていかれるのが嫌なんだろう。特にリルと離れ離れなのが」
「アロガ……」
リルは仕方ないなぁ、と言わんばかりに相好を崩し、そのままその鼻先を撫でて諭す。
しばらくそうして撫でていると、アロガも次第に落ち着いて、上げていた腰を落とした。
「だいじょうぶ、すぐかえってくるから。それに、お母さんがいっしょなの。だからぜったい、だいじょうぶ!」
「クゥーン……」
甘えたがり、寂しがりなのは、この
アロガは力付くで止めようとはしなくなったが、それでも引き留めたいという気持ちは、その瞳から嫌でも伝わってきた。
私はアロガにも安心させるように、その頭と首筋を撫でてやると、リルの手を引いて歩き出す。
「それじゃ、留守番は頼むぞ。……まぁ、番を頼むような何かは、まず起こったりしないんだが」
「じゃあね、アロガ。ちゃんとまっててね!」
「あまり長居しない。夕飯までには帰れるから」
そう言って身体を翻すと、扉を開けて外に出る。
転移陣は森の境目にあるから、必然的に少し歩くのだが、アロガはそこまでついて来た。
まるで今生の別れを惜しむかのようだが、勿論そう大仰な話ではない。
ただし、アロガからすると、そう思ってしまう事態なのは理解できる。
呑気にお出かけ気分なのは、この場ではリルだけだ。
そして案の定、機嫌良さそうに私の手を握っては、何が見られるかと今から楽しみにしている。
「アロガ、離れていなさい。それ以上近づくと、巻き込んでしまう」
そう言うと、アロガは素直に身体を反転させて距離を離した。
あわよくば一緒に行こうとしない辺り、よく弁えていると言える。
そこもリルとは違い、しっかり現状を認識しているところだ。
「じゃあ、リル。ここからは絶対、一人行動禁止だ。手を離さないか、あるいはしっかりくっつく事。いいね?」
「うん、だいじょぶ!」
ぷすぷす、と鼻息粗く言葉を返す。
以前と違って私から手を離さず、それどころから手にしがみついて、何度となく頷いた。
私はそれに苦笑し、最後にアロガを見てから転移する。
アロガはその場でどっしりと腰を落ち着かせて、最後に悲しげな声を上げた。