「うわぁ~っ!」
私に抱えられた腕の中で、リルは感嘆の声を上げた。
手はしっかりと私の服を掴んでいるものの、身体を乗り出そうとして今にも落ちそうだ。
怖がっている様子は微塵も感じないが、それでも一応訊いてみる。
「リル、大丈夫か? 怖くないか?」
「へいきだよっ!」
リルはにっかりと笑って、眼下の光景へと目を移す。
「でも、すごい! お母さん、おそら、とべたんだ!」
「まぁ、これを飛ぶと言えるならね」
重力の
落下を緩やかにしたり、着地の衝撃を和らげる方法などは幾つもあるが、自在に飛ぶとなるど、途端に難易度が増した。
地面から数十センチ浮かび、その状態で動くだけでも称賛されるのが魔術の世界だ。
跳躍力と空気を押し出す力で、擬似的に飛ぶ真似をする方法もあるし、乱暴な着地になるというデメリットもあるが、主流としてはそちらの方が有名だった。
しかし、その方法はマナを乱暴に消費する事にもなり、当然それではリルに多大な負担が掛かる。
だからこうして、飛ぶとも言えない、連続する跳躍で空を目指しているのだ。
「お母さん、とべるなら、いつもとんでたらいいのに!」
「日常生活で、空を飛ぶ必要なんてないんだよ」
リルに苦笑を返しながら、頂上を見遣る。
まだ先は遠く、そして眼の前には雲の層があった。
空気も更に冷たさを増し、防護の魔術を強めながら、そこに突っ込む。
視界が一瞬にして白く染まり、まるで濃い霧の中を移動しているかのようだ。
「でも、お母さん。とべるんなら、おうちからとんでほしかったなぁ。きっと、いいけしきがみれたのに」
「それは素敵な提案だけど、ちょっと難しいな」
リルが考える通り、何処からなりとも跳べるのは間違いない。
しかし、相手が山なら現実にはそうもいかなかった。
そもそも使う回数に比例して、魔力の消費が激しくなるし、地上からともなれば、雲の層に到達する頃にはへとへとになってしまう。
それに、山の上空は西からの強い風が当たっていて、その強風に流されることにもなるのだ。
私が鉱山へ転移したのは、そこから抜けた横穴の先で、丁度風を遮る岩肌が立っているからだった。
そこから頂上まで一直線に登れる特殊な形状をしていて、だから無理なく昇っていける。
リルが言う様に、もしも家から直接山頂を目指していたら、その横風に抵抗する為に、余計な魔力を割かねばならなかったろう。
そして、到着するより前に、魔力が尽きて落下する。
無論、そうなる前に岩肌に掴まるとか、直接降りられそうな小さな足場を見つけて休憩するとか、そうした対策は取るだろう。
だがどちらにしろ、無理な強行軍に変わりなく、無謀な挑戦に違いなかった。
「沢山走ると、沢山疲れるだろう? こうして跳ぶのも、やっぱり沢山疲れるんだ。だから、好きな所から好きなように、とはいかないよ」
「そっかぁ……!」
妙に得心がいったようで、リルは素直に頷く。
そうしてリルが更に強く抱き着いた時、丁度雲の層を抜けた。
上空にはさんさんと降り注ぐ太陽と、そして眼下には、絨毯の様に広がる白い雲が見える。
何処までも続くかの様に見える雲にも端はあり、そしてそこからは広い草原や川、壁で隔てられた街と、それを繋ぐ道などが見える。
人や馬車も通っていて、それが砂粒よりも小さく、そしてゆっくりと動いていた。
また、ここからだと大陸の端まで見渡せ、稜線に輝く海まで見える。
「すごい……っ、すごいよ、お母さん! すごくきれー!」
「そうだな……。こうして見る世界は、無垢で美しい……」
しかし、世界は綺麗なばかりではないのだと、今のリルは知らない。
そして、いま知るべきことでもないのだろう。
私はリルの頭を撫でてから、更に冷たくなった外気から身を守る為、私は防護の層を厚くした。
「もうすぐ頂上だ、それまで我慢だ」
「ガマンなんてしてないよ! すごくたのしい! こわくなんてないよっ!」
「ふふっ……、そうかな? でも、怖い思いをするのは……」
私は最後まで言い終わる事なく、視線を上に向ける。
そうして見えてきたものは、火口よりも遥かに下――自然には出来そうもない、大きな出っ張りだった。
それも当然、明らかに人の手が入ったもので、更に言うなら私が手ずから作った、壁面を加工して作った広場だった。
地の精霊などの力を借り、溶岩石などを用いて作った足場兼休憩所であり、火口の底に眠る溶岩から地熱が伝わる仕組みで、雪も積もらず温かい。
広場には火口側に大きな台座らしきものがあり、何か巨大なものが寝そべられる跡がある。
そして実際、ここはその何かと面会する為に使用する、一種の窓口となっていた。
私はリルを抱えたまま、台座付近へと降り立つ。
そうして実際に降ろして手を離すと、リルは物珍しそうに地面を触った。
手袋の上からでも伝わる温かさに、珍しいやら嬉しいそうやら、忙しく表情を回している。
「お母さん、これあったかい! ヌクヌクする!」
「溶岩熱が伝わっている証拠だよ。寝そべると、熱さで汗が出て来るほどさ」
「ほんとっ!?」
それを聞いてリルも寝そべろうとしたのだが、それより前に身体が硬直して、尻尾がピンと立った。
それと同時に上空が影で覆われる。
まるで突然、雨雲が掛かったかのようだが、勿論そうではなかった。
そもそも、既に雲が形成できる高さは越えている。
リルは私に飛び付くと、そのまま背中の陰に隠れてしまった。
獣の本能がそうさせるのか、身体が小刻みに震えている。
リルを安心させるように撫でた時、頭上から実際に質量を持つかのような、重さのある声が降ってきた。
「存外……、早かったではないか。あと二、三度は叫ばねば、お前は来ないと思うておったわ」
「それが嫌だから、こうして素直に来たんじゃないか。お前の雄叫びは嵐をも呼ぶ。畑を壊されては堪らない」
私がそう返すと、頭上からグッグッグ、というくぐもった笑いが漏れた。
その笑い声に引かれて顔を上げると、そこには丁度目の前の台座に鎮座した、巨大な竜の姿があった。
鋼色の鱗と外殻を持ち、その雄大な翼は、いま背中で畳んでいる。
両の手を胸下で組み、そこに顎を乗せては面白そうな視線を向けていた。
口には樹木すら容易に噛み砕く牙が生え揃っており、呼吸に合わせて、時折炎が漏れている。
ボフッと音が鳴る度に、リルは背中で震えながら飛び跳ねていた。
「……それで、久方ぶりに呼んだ用件は?」
普段はこことは真逆の側に棲んでいて、巨大な巣穴に引きこもっている。
ただし、いつも巣穴でじっとしている訳でもなく、時折外に出て、その翼を伸ばして空を飛んでいた。
そうした光景は、この近辺に住んでいる者ならば、まま見かけるものだ。
彼は人の世にも詳しいので、あからさまに人間やその家畜を襲うような真似はしない。
互いに不可侵の状態であると心得ていて、だから付近で暮らす人間からしても、竜の影を見るのは日常と言っても良かった。
空を見上げて、手の平で
私と彼は長い付き合いで、何かに付けて用事を言い渡される事が多い。
今回もその類いかと思ったが、彼の呑気な状況を見れば、そうではないと分かる。
危急の問題ではない、と分かったのは幸いだが、さりとて面倒事には違いないだろう。
だが、さっさと終わらせたい私が、そう思って水を向けたのに、彼の興味はリルの方に向かった。
「……しかし、その小さき者は何なのだ? 儂への供物というには、少し食い出がなさ過ぎるがな」
「そんな訳ないだろ、ヴェサール。傷一つでも付けてみろ、許さんからな」
「グッグッグ……。分かっておる、冗談だ」
忍び笑いと共に、口の端から炎が漏れた。
そうして、リルを一目見ようと顔を近づけ、右側から回り込むように長い首を伸ばした。
しかし、それに合わせてリルも逃げる。
ならばと左側へと首を伸ばすのだが、やはりリルは反対側に逃げて姿を隠した。
姿を追えないとなれば、鼻面と突き出して匂いを嗅ごうとするのだが、リルは更に強く抱き着いて、少しでも匂いを誤魔化そうとしていた。
尻尾を股に挟むほどの念の入れようで、それだけ逃げ出したい気持ちなのが見て取れる。
私もまた忍び笑いをさせながら、リルを正面へと押しやった。
「や……っ、やっ! お母さん、やっ!」
私の太腿に抱き着いて、テコでも動かない構えで、私は仕方なく断念だし、このまま紹介した。
「大丈夫、取って食われやしないよ。そんなの、お母さんが許さないから。……お母さんが信じられないか?」
「んーん……。でも、ヤダ。こわい……!」
「だから、怖い思いをするって言ったのに……」
頭を撫でても、リルの震えが収まる事はなく、それどころか締め付ける力が強まるばかりだ。
だから仕方なく、このまま話を再開した。
「どうせだからと紹介したかったが、このままで済まないな。私の娘、名前はリルだ」
「ほぅ、娘……。しかし、ふむ……? そうなのか……?」
「余計な詮索は無用だ。そして、私が大事にしている娘だと、よく知っているだけで良い。もしも何かあったなら、気に掛けてやってくれ」
「掌中の珠か……。損なったならば、後が恐ろしかろうな。……うむ、良く覚えておこう」
満足そうに頷いてから、ヴェサールは首を元に戻す。
そうして、改めて今度こそ、今回の喚び出しについて問い質したのだった。