「……先に一つ良いか。落とし所を聞いておきたい。人間たちが再び、この地に近付かなくなれば満足か? それともある程度、思い知らせて欲しいのか? ……つまり、
「そうさな、ボーリス……」
その名前を呟くなり、ウィンガートは悩ましげな息を吐いた。
「私の前に立ったあやつは、誠実そうな人柄に見えた。他の者を盾にせず、余人を挟まず……しかし、立っている奴の脚は震えていた。恐怖を必死に押し殺していたであろう事は、容易く見抜けた。なればこそ、その心根に報いてやろうと思ったのだが……」
そこだけ切り取って見れば、確かに勇気ある行動なのは間違いないだろう。
谷間へ入り込み、そこへ竜が立ち塞がった時点で、逃げ道など殆どなかったに等しい。
竜の
その事実だけ踏まえても、竜の前に出るだけでなく、己の希望を願い出たのは非常に勇気ある行動と言える。
それを誠実の表れと感じたウィンガートは、むしろ当然と言えよう。
しかし、人は時として、そうまでして欺くのか、と思わせる行動も取る。
「私はこれから、山を降りるつもりだ。そして、そのボーリスからも話を聞き、証書の内容を確かめる。それ次第では、お前に不満を飲み込んで貰うしかないかもしれないが……」
「その証書次第で、お主が我々の敵に回るか……」
「敵とまでは行かない。しかし、確実な証拠があれば、ただの証言より優先しなければならないのは確かだ」
竜は嘘をつかない。
だから、証言の重要度を、人間と同じ尺度で考えられないのも事実だ。
脳の出来が違うのか、思い違いや記憶違いというものも、まず滅多に起こらない。
だから、竜の証言を人の証拠と同列に扱う事はできる。
しかし、今回の場合、ウィンガートはその勇気と誠実さに対し、大きく譲り過ぎた。
竜としてボーリスを快く思ったからこそ、褒美を与えたみたいなものだが、その証文をろくに確認しなかったのは、如何にも拙かった。
そこにボーリスの商隊のみならず、王国の人間ならば誰でも通行を許可する、という内容だった場合……。
軍隊が通行しようと、ウィンガートは文句を言えない、という事になる。
ならば私は、公平、公正な立場として、人間側の味方に立たねばならないだろう。
「うぅむ……。ならば、谷間の通行はともかく、我が棲み処へと続く登山道には踏み入れないと……。そう、新たに約定を結ぶことは出来ぬものか」
「それは可能だろう。あちらとしても、穏便に事を進めたいから、わざわざ許可を取ったんだ。通行を許可されるのなら、むしろ喜んで署名する」
実際の目的がどうか、それは確認してみるまで分からない。
しかし、どちらにしろ竜と事を構えたい、とは思っていないはず……。
ただし、最初から竜の排除が目的で、約定を持ち出す事すら想定の内だとしたら、間違いなく跳ね除けられる。
問題は最初に約定を求めた時点で、ボーリスが話すら出来ず焼き殺されていた場合だが――。
それもまた、隣国にとっても得難き商人であるだとか、実は貴族籍を持っていたとする理由で、報復が正当だと主張できたかもしれない。
「だが、本命が竜狩りだったとしたら、面倒な事になるな……」
「まさか……」
ウィンガートは鷹揚に笑い飛ばそうとしたが、私の表情を見て態度を改めた。
「……有り得るのか?」
「ないとは言えない」
「しかし、かつての約定もあるだろう。竜と人は、適切に距離を取るものだ」
そう、だから竜は人が簡単に立ち入れない山頂であったり、あるいは山頂でなくとも辿り着けない秘境などに巣を作る。
そうして、互いに接触する機会を、最大限に減らしてきた。
しかし、それで安心できる程、人間はよく出来た生物ではない。
「人間は、基本的に臆病なものだ。脅威が眼の前にあると安心できない。たとえ暴れないと分かっていても、近くに竜がいること自体が耐えられないんだ」
「まさか、その様な……」
「いや、あるんだ」
かつての争いの原因は、対抗できる力を得たから――それだけが理由ではなかった。
人は安眠を欲したのだ。
眼の前に脅威があって、それを放置したまま過ごせる程、豪胆ではない。
そして、排除一色に傾いた時、それが集団錯乱とでも言う熱気となって、竜狩りという蛮行に走らせた。
竜も数を減らしたが、人間はそれより遥かな数が犠牲となった。
種の根絶が掛かった争いに発展したからこそ、止めねばならない事態となったと言える。
かつてから生きる古い竜は、その凄惨さを今も覚えている。
だから、同じ徹は踏まないと、固く心に決めていた。
「一方的な言い掛かりでない以上、その証文を以って正当性を主張できる。ウィンガートが対抗するのは止めないが、多くの竜は日和見を決めるだろう。……いや、それよりむしろ、諌めようとするか……」
「孤立無援か……」
「いいや、フンダウグルの例がある。これを機に……と考える輩が出るのは止められない」
「しかし、その方が拙かろう」
――間違いなく拙い。
ウィンガートと人の争いの前に、強硬派と穏健派の竜とで、別の争いが勃発しかねない。
縄張り争い程度なら可愛いものだが、本当の抗争に発展してしまえば……。
比喩ではなく、大陸一つくらいは焦土と化すだろう。
「そうさせない為に、私がいるんだ。ヴェサールはウィンガートの心配というより、むしろそっちの方を心配してたぞ」
「あ奴らしい」
くつくつと笑って、それからふと静かになった。
顔を外へ向け、どこか遠くへ視線を飛ばす。
「今は如何にも時期が悪い……。こんな面倒事に巻き込まれるぐらいなら、いっそ
「それは……大胆な発言だ。そんな事を考えたのか」
竜は棲み処を滅多に変えない。
そして、土地に対して執着を持つものだ。
人間も領土を侵されたからといって、外へ逃げようとしないのと同様、竜もまた己の領域を侵されるのを嫌い、堅守しようとする。
だから、一度棲み着けば滅多な事がない限り、何百年も居座り続けるのが普通だった。
それに、目ぼしい箇所は既に別の竜が棲まっていて、良い山が残っていない、という部分にも理由がある。
「しかし、時期? 冬嫌いの竜なんて、初めて聞いたぞ」
「季節が問題なのではない……。だが、どうあれ今は動く気になれぬ」
「ふぅん……?」
意外な話から意外な事を聞かされて、どう考えるべきか悩む。
しかし、いざとなれば居を変えられる、というのは大きな事実だ。
「じゃあもし、相手側の行動を遅らせられたら? それだけで多くの問題を回避できるのか?」
「背に腹は変えられぬ……」
言っている事は尤もだが、そこまで譲るものだろうか。
まるで弱みに付け込まれているかのようだ。
「それで……いつまで伸ばせば、移動する気になるんだ?」
「そうさな……」
ウィンガートは後ろを振り向こうと首を巡らせ、しかし途中で止めて、別方向を向く。
「多少、前後する事になろうが、春頃となるだろう」
「春、ね……。しかし、前後? 具体的にどのくらいだ? 竜の
「なに、そう大きく変わらぬだろう。月が一巡りするかどうか、その程度だろう」
「それなら確かに……、多少の前後、という範疇に収まるか」
人間側を説得する際にしても、納得を得られ易いだろう。
問題は、人間側の真意が測り兼ねる所だが……。
ふと、火に温まるリルに目を移し、そして重要な事に気づく。
――冬の軍事行動?
寒さが特別辛い地方ではないが、雪は積もる。
そして、雪中行軍が大きな負担になるなど、考えるまでもないことだ。
「奴らは本当に、ここへ軍を通したかったのか……?」
「なに?」
「ウィンガートが冬は動きたくない、という様に、軍隊だって冬は動きたくないんだよ。春や夏より燃料も多く使うし、水の確保に難儀するから、単純に負担が増える。冬に軍事行動が少ないのは、そうした部分も含まれるものだ」
「私の事情は軍とは違う。……しかし、冬にそうした事情があるのなら……だからこそ、不意打ちには最適な時期なのではないか?」
「そういう考えも出来る」
そして、竜が支配する山間を通り抜けるのだ。
ここからは来ない、この時期は来ない――。
その先入観は、人と人の争い事では、不意打ちには最適だろう。
しかしそれも、十分な準備と余力あっての事だ。
戦争の準備というのは、隠そうとして隠し切れるものではなく、そして商人として街に出入りしていれば、自然と理解できるものだ。
利に聡い商人は、その時期を見逃さない。
……思い返してみても、この話はどこか変だ。
一方に思案を向ければ、必ずどこかに矛盾が出る。
では何か、大きな思い違いをしているのではないか……。
そうとしか思えない事実に苛立ちが募る。
今はまだ、分からない事が多すぎた。
真実は、事実を積み重ねた先に見えるものだ。
今はまだ、憶測で考えるべきではない、と自分に言い聞かせた。