この高低差だ、追い付くには空を飛ぶしか方法はなかった。
しかし、魔術で空を飛ぶのは、相当高度な技術を必要とする。
高度の維持、姿勢制御、進行したい方向への推力、それら全てを自力で制御しなければならない。
また、無風ならばまだしも、遮蔽物がない場所は、風の勢いもまた強いものだ。
一方向から吹いたと思えば、今度は逆に吹かれる事もある。
その度に神経を削る制御を繰り出さねばならず、生身でやれる者はいない、というのが常識だった。
だから、その為の魔術秘具が存在している。
生身でやれないのなら、やれるように幾重にも付呪を施し実現するのだ。
しかし当然、購入すれば誰であろうと使用できる、という物でもない。
魔術士になれる程の高い魔力が必要だし、起動した後も制御が必要だ。
生身でやるより余程楽であるものの、訓練も必要という苦労もある。
しかし、それらをクリアしても、依然燃費の悪さという問題は解決できないのが、魔術飛行の悩ましい所だった。
そして、魔術秘具の動力となるのは、総じてマナだ。
それも使用する本人のマナが必要となる。
いざ使いたい時の為に、普段から充填しておくのが魔術秘具だから、飛行術具についても同様にしておかなければならない。
そうして稼動するのは、最大で三時間程……。
速度を上げれば、その分だけ稼働時間は短くなる。
最大時間使いたければ、徒歩と変わりない速度で飛ばす必要があった。
余り意味がない様に思えるが、例えば橋の落ちた川を渡るなど、そうした場合には重宝する。
竜の様に軽快な空の旅、というのは、人類にはまだ遠い夢の話なのだ。
さて、と一呼吸置いて、私は空間から取り出した飛行術具を雪面に置き、代わりに橇を回収、収納した。
飛行術具は馬の鞍に良く似たもので、座り具合も似たようなものだ。
ただし、その手前に手綱とは違う、体勢を維持する為の取っ手が付いていた。
魔力を通して起動させると、フワッと風を巻き起こし、私の腰の高さで制止した。
リルがそれを不思議そうに見つめ、指先でつついたりしている。
「お母さん、これなぁに?」
「空を飛ぶ為の物だよ。やっぱり、移動する乗り物といえば鞍だと思って、馬のサドルを真似て作ったんだ」
「んま?」
「う・ま」
またも一言毎に区切って言いながら、苦笑しつつリルを鞍に乗せる。
実際の所、飛行術具に決まった形など存在しない。
というより、未だ未発達の分野なので、そこまで明確に定まっていない、という方が正しい。
魔術の研究はとにかく金が掛かるし、世間一般に実用まで程遠いという認識なので、停滞しているのが現状だ。
元々リルと二人乗りする為に作ったものなので、騎座には十分な余裕がある。
無理なくリルを乗せた後に、私もその身体を包むようにして座った。
鐙にも足を掛け、しっかりと鞍を太ももで締めると、腰の部分を備え付けのベルトで固定した。
あらかた準備が終えたところで、リルが声を駆けてくる。
「お母さん、これ……ホントにとべるの?」
「そこまで速くはないけどね、飛べるよ」
「さいしょから、これじゃダメだったの?」
「痛いトコロを突くけど、橇を使わないでいたから、いざという時の魔力が残っていた訳だからね。……何より、そこまでスピードが出ない」
「どのくらい……?」
「全速力でも、竜には敵わないくらいかな」
「すごい、はやいきがする……。たまごにのってたくらいでしょ?」
そうなのだが、あの時だって、フンダウグルは全速で飛んでいた訳ではない。
人間に例えると、せいぜいのんびり走ったくらいだろう。
人の世界では、それにすら追い付けないという事なので、忸怩たる思いがあるのだ。
ともかくも、今は魔力の残量も万全だ。
今回は、盗人どもを追走するのに掛かった時間は、だいたい一時間弱だった。
結果から言えば、最初から使えばもっと速く追い付けたのかもしれないが、簡単に追い付く保障はどこにもなかった。
飛行術具には予めマナが充填させてあったから、尽きたとしても即座に墜落する事はないが、もしももっと先にいたら――。
もし追い付くのが三時間後だったりしたら、その時点で魔力が空になって、そこからの捕縛が難しくなっていた。
魔術士の鉄則として、魔力の温存が上げられるが、それは何も戦闘のみを視野に入れたものではないのだ。
「これがないと、おそらとべないの?」
「無理って事はない。でも、それには才能がいるんだよ。それに凄く疲れるんだ。お母さんは、なるべくしたくないな」
「そうなんだ……」
難しそうな顔をして頷いたのを見て、鞍の前部にある取っ手――グリップを握る。
この状態だとどうしても前屈みになるし、リルを窮屈にしてしまう形だから、これは設計からして間違ったかもしれない。
――次から要改善だな……。
そう、心の中で今後の予定を決めた時、リルが身体を捩って顔を向けた。
「ねぇ、お母さんっ! リルもとべる?」
「うん? 今から一緒に飛ぶだろう?」
「そうじゃなくて! じぶんで!」
私はふっと笑みを漏らしてグリップから手を離し、リルをぎゅうぎゅうと抱きしめる。
「出来るよ、リルなら出来る。いっぱい勉強しないといけないけど」
「んっ! がんばる!」
「算数もだぞ? 計算だって出来ないと……」
「がんばるっ!」
「凄い乗り気だな。前は散々、嫌だって言ってたのに……」
だって、と言いながら、リルはきゃらきゃらと笑う。
「さっきすべったの、すっごくたのしかった! おそらでもできたら、きっとたのしいよ!」
「うぅん……、中々不純な動機だなぁ……」
直後に、いいや、と思い直す。
むしろ、子供らしくて良いのかも。
それで勉強にやる気が出るというのなら、その熱意は持ち続けて欲しいくらいだった。
「それじゃあ、リル。しっかり騎座の縁に掴まって」
「どこ?」
「――ここ」
実際にリルの手首を取って縁に誘導してやり、しっかり握ったのを確認してから浮上する。
元より腰の高さで浮いていた飛行術具だが、それで頭の高さ程まで高度を上げた。
馬首を翻す様に、体重移動と共に方向転換すると、今も銀の卵が道の上を這っているのが見える。
目視出来る範囲ならば、追い付くのは正にあっと言う間だ。
「いいかい、リル? 声を上げてはいけないよ。ゆっくり近付いて不意を打つから、その邪魔をしないように」
「んっ! わかった!」
わざわざ飛行術具など使用するのも、それが理由だ。
追い付くだけなら、重力制御して崖から飛び降り、改めて橇で追えば良い。
それをしないのは、万が一でもリルに怪我を負わせない為だ。
竜の近くまで接近しようという輩が、二流の腕しかないとは思えない。
正面から連携を取って戦われた時、リルを守りつつ戦うのは、やはり不利には違いなかった。
それならば、あえて無理せず、必勝を期す戦法を取る方が賢い。
何かあった時の為に用意して来たのだから、こういう時に使うべきなのだ。
「そぉれ……!」
掛け声と共に、飛行術具は滑るように空を飛び出す。
速度は馬の
先程までの速度に慣れたリルには、さぞかし退屈だろうと思ったが、それに反して喜びの声を上げた。
「すごいねぇ~、カッコいいねぇ〜!」
「喜んでくれるのは嬉しいけど、声は出さないようにね」
「んぅ……、ごめんなさい」
「大丈夫、まだ聞こえるほど近くに来てはないから」
盗人どもより速いとはいえ、飛び立ったばかりなのも幸いした。
子供の甲高い声は意外と響くが、それでも流石に相手方に届く程ではない。
――と、思っていたのに。
先頭を行くリーダー格の男が、不意に顔を上げて目を剥いた。
そうして、何事かを仲間に呼び掛け、指を向けてくる。
「……気付かれたか」
「お母さん、ごめんなさい……」
「いや、今のはリルじゃないな……」
タイミングに大きなズレがあった。
だが盗人どもとしても、追手の可能性は当然、考えていたに違いない。
背後を定期的に確認するのは、むしろ当然と言える。
しかし――。
「何故、真っ先に上空……? 普通、背後を見るんじゃ……」
疑問を浮かべても、さりとて見つかったものは仕方がない。
その間に弓士は矢を番えているし、魔術士は魔術の準備に取り掛かっていた。
――既に戦闘は始まっている。
私は飛行術具に魔力を込めて制御し、最高速度を出しながら盗人どもに突貫して行った。